森本あんり『異端の時代』
- 森本あんり『異端の時代』岩波新書,2018年。
神学者による正統/異端論。叙述は三つのトピックを行き来する。第一にキリスト教における正統と異端のあり方,第二に正統/異端概念全般の問い直し,第三にそれに基づく現代文明批評。
一般に,(啓典) 宗教に輪郭を与えるのは正典・教義・職制だとされるが,歴史的に見ると,これらのいずれも何が正統であるかを規定していない。却って人々が正統であると信じること,つまり「いつでも・どこでも・誰にでも」(ヴィンケンティウス) 信じられてきたと一般信徒が信じている内容,が正典や教義を規定する。教会はこうした信憑の追認をなしえたにすぎないという (2-4章)。したがって正統はある意味で可能的な「形なきもの」であり,異端に対してはじめてこれを限定し現実化する試みが生じる。限定には二通りあり,一つはネガティヴな境界設定型 (アナテマ),もう一つはポジティヴな内容例示型である。また例示された具体的条項を排他的選択肢と見るところに硬直的な原理主義が生じるのだ,とする (7章)。正統は異端の存在根拠であり,異端は正統の認識根拠である。
こうしたキリスト教史的な見通しをもとに,著者は正統/異端概念を問い直す。基本となるのは上述の「正統」の可能態的な捉え方であり,その重要な試金石の一つが丸山眞男の正統論である。丸山によるO正統/L正統の区別,および日本におけるO正統の不在という主張に,著者は与しない。そもそも「普遍的原理・教義から導出されるもの」(O正統) として正統を捉えることはできないし,制度や機構 (L正統) にその所在を見ることもできない (1, 6章)。丸山の正統論の背景にはスターリン批判以後のソヴィエト政権の動向があった。ソヴィエト中枢による正統の定義はしかし,結局のところ「部分による全体の僭称」(156頁) でしかなかった,と著者は評価する。
以上のごとく正統/異端を規定した上で,著者は現代社会のあり方について批評を加える。その際着目されるのが,両項の横にトレルチが置いた第三項,すなわち「神秘主義」である。これは客観的な制度・教義・祭儀ではなく主観的な宗教的体験に根ざす宗教性であり,そこからはラディカルな個人主義が帰結する,という。著者はエマソン,ソロー,W. ジェイムズの事跡によってこれを例解する。これはすぐれて現代的な宗教現象である (8章)。そしてこうした宗教性は,ポピュリズムのもつ性格と通底する。組織をバイパスする個人的熱情,および多元的価値の善悪二元論への還元,といった点で,ポピュリズムは代替宗教の一様態であるという。「非正統」のこうした形態に,著者は極めて批判的である。それは「全体の部分として生きる勇気」(ティリッヒ) を欠くからである。こうした勇気を持つ異端だけが,やがて正統となりうる。そうした異端が現代社会に現れることを望む,と本書は結論する (終章)。
第三のトピックは同著者の『反知性主義』と重なる論点でもあったかと思う。いずれにせよ「現代には異端なく非正統あるのみ」という診断は,少なくともマクロに見て一定の説得力を有しはする。(宇野重規『保守主義とは何か』は「進歩主義の退潮の結果として保守主義も低迷している」ということを指摘していたと記憶するが,それと同種の現状把握でもあるだろう。) ただ本書の中心はむしろ「形なき可能態こそ「正統」の本義である」というテーゼで,こちらの方がより示唆に富む主張であるように思われる。