『命題論』第1章 Whitaker, Aristotle's De Interpretatione #1

  • C. W. A. Whitaker, Aristotle's De Interpretatione (Oxford: Clarendon Press, 1996), 8-34.

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概要

[16a1] はじめに,名詞(ὄνομα)とは何であり,動詞(ῥῆμα)とは何であるかを定めなければならない。それから,否定言明(ἀπόφασις),肯定言明(κατάφασις),命題(ἀπόφανσις)そして言表(λόγος)とは何であるかを定めなければならない。*1

「否定言明,肯定言明,命題そして言表とは何であるか」という列挙は実際に導入される順序とは逆になっているが,アリストテレスが「矛盾的言明の対(contradictory pairs)」をこれら諸章の最終的目標とみなし*2,そこから最初に定義すべき事柄へと遡ったのだとすれば,このことは容易に説明できる。

[16a3] 音声におけるもの(τὰ ἐν τῇ φωνῇ)は,魂において被るものの符号(τῶν ἐν τῇ ψυχῇ παθημάτων σύμβολα)であり,書かれたものは音声におけるものの符号である。そして書字(γράμματα)がすべての人にとって同じではないのと同様に,音声も[すべての人にとって]同じではない。むろん,これら[=音声]がまずもってそれの記号であるところのもの(ὧν μέντοι ταῦτα σημεῖα πρώτων),すなわち魂において被るものは,すべての人にとって同じであり,これら[=魂において被るもの]がそれの類似物(ὁμοιώματα)であるところのもの,すなわち事物(πράγματα)もまた,[すべての人にとって]同じである。こうしたことについては『魂について』のなかですでに言われた,というのもそれは別の論究にぞくするから。

1.1

「符号(σύμβολον)」は割符(tally)あるいはトークン(token)を意味する。トークンは道具と異なり,なされるべき作業によってどれを選ぶべきかが決定されない。従ってそれは規約(convention)によって決まる。(cf. お金の例,EN 1133a29.)トークンとしての言語は SE 165a6 ff. でも語られる。だが De Int. では言葉が思考のトークンであり,思考が事物の類似物であったのに対し,SE では言葉が事物のトークンである。

ここでアリストテレスデモクリトス以来の議論に反応している。デモクリトスは,1. 同じ語が複数の意味をもつこと,2. 複数の語が同じ意味をもつこと,3. 名前は代替できること,4. 名前をもたないものが多くあること,から言語が自然的でないことを論じた。 Crat. ではヘルモゲネスがこの立場を代弁しているが,結局は名前が道具であると結論づけられる。そしてアリストテレスは本書で明示的にこの結論を退けている。

1.2

「こうしたことについては『魂について』のなかですでに言われた」とある。「こうしたこと」は直前の「それの類似物であるところのもの,すなわち事物もまた,同じである」を指すと見るべきであろう。これより遡ると,対応する説明を De Anima に見出しづらいし,また論考の書き出しを議論に無関係としてただちに斥けているということにもなってしまう。

さて,思考が事物と一致するしかたについての理論は,De Anima 3巻に見いだせる。それによれば,思考の働きは同書2巻で論じられる知覚の働きと類比的である。この理論によれば,思考する人と思考の対象において形相が共有される,というしかたで,思考は心に抱かれる。

注意すべきは,魂において被るものとは心像ではない,ということだ。De Anima において νοήματα と φαντάσματα は注意深く区別されており,De Int. が扱うのは前者である。それにも関わらず,思考の心像説はアリストテレスに帰されてきた。例えば,思考は不在のものに類似することはできず,したがってアリストテレスの説明は現実の事物の心像にのみ当てはまる,などと論じられる。*3形相についての De Anima の議論も同様の疑念を提起しうる。だが,形相の概念はしばしば実体のみならず,カテゴリーにぞくするもの,実在しないものをも含むところまで拡張される。こうした拡張は De Anima III 6 および Meta. Ζ4 に見いだせる。

1.3

「記号(σημεῖον)」の概念は "ὧν μέντοι ταῦτα σημεῖα πρώτων" という句において導入されるが,この箇所の解釈は分かれてきた。すなわち,'πρώτων' は Minio-Paluello の emendation で,写本は 'πρώτως' と 'πρῶτον' を伝えており,写本の読みを選択する場合,「まずもって」が「言葉」「記号」「魂において被るもの」のいずれに係るかが問題になる。ウィッタカーは結局「魂において被るもの」に係ると解する。*4

すなわち,話される言葉はまずもって思考の記号であり,二次的に事物の記号である。なぜなら,言葉は思考を表現し,そして思考は事物の形相的な写し(formal copies)だからである。思考が言葉と事物を媒介するというアンモニオスの解釈は誤っている。ここから 1.1 で述べた SE の一見相違する主張も整合的に説明できる。言語は思考と事物の両方を表すのだ。

では,記号とはなにか。APr. 70a7-9 の定義によれば,記号とは他の何かの存在がそこから推量できるような何かのことである。これは De Int. における語の働きかたについての見解によく一致する。結局,「トークン」が規約によって語が思考および事物に適用されるという事実を指すのに用いられるのに対し,「記号」はたんにある思考と事物が語に対応することを意味する。

発話は思考と事物との記号であるという主張は本書全体の基礎をなしている。とくに語と事物との関係は頻繁に利用される。なお「事物」のスコープは「山羊鹿」をふくむほどに広い。とはいえ Meta. Γ で述べられるように,記号の対象が限定され曖昧でないことが必要である。

なおアリストテレスにあって指示(signification)*5 は語の意味論的機能のすべてではない。Poet. 1456b20ff. や本書の以後の議論を参照のこと。

[16a9] さて,魂において,思考(νόημα)はときには真であることも偽であることもないが,他方ときにはすでに思考が両者のどちらかであることが必然であり,そのように音声においても[この両方の場合がある]。というのも,真と偽とは結合(σύνθεσιν)と分離(διαίρεσίν)とをめぐるものだからだ。名詞と動詞そのものは,結合も分離もない思考――例えば何も付け加えられていないときの「人間」と「白」――に似ている。というのも[それは]真でも偽でもないからだそしてこのことのしるし(σημεῖον)がある。*6というのも,山羊鹿は何かを指示するが,あるかないかがそれに単に,あるいは時間に従って付け加えられないかぎり,真でも偽でもないからだ。

2

名詞と動詞は単純な発話であり,「結合も分離もない思考」に似ている。単純なもの,複合されていないものは,真でも偽でもない。この箇所の議論は10章と比較しうる。

「真と偽とは結合(σύνθεσιν)と分離(διαίρεσίν)とをめぐるものだ」という主張は,他の著作により詳しい説明がある。Meta. Ε4 では,何かが結合されているとき,肯定が真・否定が偽となり,逆も同様,と述べられる。したがって結合と分離は世界の特徴である。Meta. Γ の真偽の定義はより皮相だがこれと整合する。同じ理論はまた,Meta. Θ10 にも登場する。

また,真であることと偽であること自体が世界の特徴であるとも言われる。「結合」が真なる事物を,「分離」が偽なる事物を指す。Meta. Δ29 では,この意味での偽であることが導入される。そして単純な事物が結合も分離もしていないように,単純な思考(i.e. 名詞や動詞)は真でも偽でもありえない。単純な事物について考えることに失敗することは,偽でも誤りでもなく,たんに気づいていないということ(unawareness)なのである。

では,「山羊鹿」の例はどう解釈するべきか。第一に Meta. Θ10 などを根拠に山羊鹿それ自体を複合的なものと見る解釈がありうる。第二に,「山羊鹿はある」を山羊鹿と「ある」の結合と見る解釈がありうる(ボエティウス)。だがどちらもうまくいかない。むしろ,「山羊鹿はある」の「ある」は,諸カテゴリーに適用される「ある」として捉えるべきだ。*7

「というのも[それは]真でも偽でもないからだ。そしてこのことのしるしがある(οὔτε γὰρ ψεῦδος οὔτε ἀληθές πω. σημεῖον δ’ ἐστὶ τοῦδε·)」 という行文はやや解釈に苦しむ。セドレーは 'πω' の後のフルストップをカンマに読み替える。この場合「というのも[それは]真でも偽でもないが,これの記号なのだから」となり,きれいな論理構造になる。「これ」は何かある事物を指していると解釈できる。

感想

全体として整合的な解釈に見え,一読するかぎり大きくひっかかるところはない。アクリルが素っ気なくいちゃもんをつけている箇所も念入りに拾い上げている。*8ただし当然とくにデアニマやメタフュシカを援用している部分について各々の文脈と内容を確かめる必要はある。

以下は思いつき。σύμβολον / σημεῖον 概念はいろいろと掘り下げられそうだ。前者についてはウィッタカーが示す哲学史的文脈を勉強するとおもしろいだろう。存在しないものをどう扱うかというポイントは言うまでもなく重要なわけで,それも πράγματα であるとアリストテレスが述べているのだとすれば,それはどういうことか。

*1:拙訳。基本的に Minio-Paluello に拠る。下線部はウィッタカーがとくに問題にする箇所。以下同様。

*2:これは本書の主要な結論のひとつである。

*3:vid. Kretzmann, 1974.

*4:論証は省略。

*5:sign の語義についての直前の議論をふまえて「指示」と訳す。

*6:後述するように,ウィッタカーはこの読みを採らない。

*7:この辺りの議論はいまひとつ飲み込めていない。論拠には Meta. Η2, Ζ4 が挙げられている。

*8:例外として,最後の ἢ ἁπλῶς ἢ κατὰ χρόνον という箇所の意味については,ウィッタカーは特段の解答を与えていない。