ワイスバーグ『科学とモデル』

  • マイケル・ワイスバーグ (2017)『科学とモデル: シミュレーションの哲学入門』松王政浩訳,名古屋大学出版会.

原著は M. Weisberg (2013) Simulation and Similarity: Using Models to Understand the World, OUP. 科学においてモデルとは何か,何がモデリングという実践を構成するか,モデル−対象間の関係はいかなるものか,を論じる.

第2章では,モデルの三分類 (具象モデル,数理モデル数値計算モデル) が行われ,いずれも構造とその解釈とからなると論じられる.第3章はこれを敷衍する.第4章では「数理モデルはフィクションである」という説を,フィクション概念自体の場合分けを行いつつ論駁するとともに,フィクション的シナリオを想像することを「慣習的存在論」と呼んで,モデリングの補助手段として位置づける.第5-7章はモデリングをモデルと世界との関係に応じて分類し (対象志向型モデリング,理想化,特定の対象なしのモデリング) 各々の特徴を論じる.第8章は,モデルと対象の間の関係を,特徴の一定の重み付けに基づく類似関係であるとし,トヴェルスキーの類似性の説明を援用・改良してこの関係の定式化を行う.第9章はモデルのロバストネスの分析が科学的探究に寄与することとその方式を論じる.第10章は各章で導かれた結論の要約で,理解の枠組みのおさらいになっている.

個々の議論をきちんとフォローできたわけではないが (特に 8-9 章のテクニカルな議論は追えていない),ざっと通読したのでメモしておく.具体的なモデルを用いて議論をしていて (著者のお気に入りはサンフランシスコ湾モデルとロトカ・ヴォルテラモデル),色々と勉強にはなった.R. A. フィッシャーの「性はなぜ二つであり,三つ以上ではないのか」という問いなど (第7章.これは非現実的な対象のモデリングの例として挙げられている.なお実のところ性が三つやそれ以上である場合は存在するらしい).本論として特に面白かったのは「モデルとは何か?」を直接問う 2-3 章と理想化の分類論 (6.1).またモデルのフィクション説批判はたぶん美学者が読んでも面白いと思う.

必然的に指示する心的表象は存在しない Putnam (1981) "Brains in a vat"

教科書的に知ってるつもりの話でも原論文読むのは大事だなと思った.議論の射程が正確にわかるから.今回の場合だと,ある種の「超越論的」議論が企図されていること,思考の表現 (心的表象) と表現の理解を各々出来事1 (occurrence)と能力 (ability) として区別するという論点,ブレンターノや現象学が直接の論敵であること,あたりがそう.


  1. この訳でいいのか知らん.概ね出来事トークンというくらいの意味だと思う.

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Wiggins (2001) SSR, Preamble #3 同一性へのアプローチ

  • David Wiggins (2001) Sameness and Substance Renewed, Cambridge University Press.
    • "Preamble, chiefly concerned with matters methodological and terminological". 1-20 [うち 13-20 (§7-10)].

はてなブログPHP Markdown Extra の脚注記法に対応してるの知らなかった.

Preamble まで読んだ感想.(1) とにかく悪文すぎる.カントなみ.21世紀の哲学者に許される水準にない.(2) 中身はまあ面白い.あと陰に陽にアリストテレスの自覚的影響が相当見て取れる.ウィトゲンシュタインの影響と同程度にはありそう.テクストの「現代的意義」を気にするアリストテレスの哲学的読者は少なからず得るところがあるように思う.(1) がなければ「必読」と言いたいくらい.

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Wiggins (2001), SSR, Preamble #2 用語法の注意.術語の導入

  • David Wiggins (2001) Sameness and Substance Renewed, Cambridge University Press.
    • "Preamble, chiefly concerned with matters methodological and terminological". 1-20 [うち 8-12 (§4-6)].
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ヴェーバー『宗教社会学論選』

M. Weber, Gesammelte Aufsätze zur Regigionssoziologie (1920-21), Bd.1 中の総論的な論文四編を収めた選集.すなわち「序言 Vorbemerkung」「序論 Einleitung」「中間考察 Zwischenbetrachtung」および「儒教道教」第8章「儒教とピュウリタニズム Resultat: Konfuzianismus und Puritanismus」.

「序言」は〈西洋 (とりわけ近代西洋) における普遍妥当的な文化的諸現象のユニークな発達〉という事象に着目し,とりわけ資本主義におけるそれ−−すなわち「自由な労働の合理的組織をもつ市民的な経営資本主義」の成立 (19) −−を問題にする.ただし「合理化」の多義性に鑑みて,西洋における「合理主義」の特性を認識し,その成立を解明する必要があるとし,「土台」としての経済と合理的生活態度の間の双方向の因果連関を研究する,というプロジェクトを立てる.

「序論」はあまり内容理解に自信がないが,宗教倫理 (すなわち宗教のもつ「行為への実践的起動力 praktische Antriebe zum Handeln」)・宗教そのもの・宗教の担い手となる社会層とそれを取り巻く社会的状況がいかなる関係に立つか,という問いを立て,特に経済的合理主義の解明という観点に (たとえば叙述のアクセントの付け方などが) 依存する仕方で,経済倫理と諸宗教の関係を類型論的に検討するという課題を設定し,それに必要なターミノロジーの設定を行っている,ように見える.宗教倫理を階級関係の「函数」とする反対説の一例としてニーチェの「ルサンチマン」説を挙げた上で事実に基づき論駁を加えているあたりは面白い.「伝統主義的 / カリスマ的」その他の分析概念もここで簡潔に説明される.Sekte / Kirche がどうやら元々ヴェーバーのタームであるらしいこともこれを読んで知った.

後半の二論はごくざっと目を通しただけ.「中間考察」は,続くヒンドゥー教の考察に先立ち,諸宗教の現世拒否的倫理の諸形態に関してごく抽象的に論じる.「儒教とピュウリタニズム」は表題の通り比較論で,両教のもつ非合理的基盤 (呪術 / 予定説) と,現世に対するこれに根ざした実践的態度 (外面重視,伝統重視 / 内面重視,現世改造) とが,政治経済の組織形態に大きな影響を及ぼしたと主張される.

Wiggins, SSR, Preamble #1 方法論と術語 (同一性,実体,個別化)

  • David Wiggins (2019) Sameness and Substance Renewed, Oxford University Press.
    • "Preamble, chiefly concerned with matters methodological and terminological". 1-20 [うち 1-7 (§1-3)].

前書きの前半1/3.こんなに読み進まないとは思わなかった.難しいとは予想していたが,その予想の倍は難しい.

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鹿子生浩輝『マキァヴェッリ』

君主論』を中心とするマキァヴェッリの入門書.マキァヴェッリの人物像を当時の政治状況とともに簡単に述べた後 (第1章),いわゆるマキァヴェリズムを説く書という『君主論』の通俗的イメージの誤りを指摘する (第2-3章).すなわち統治における「悪徳」の必要が強調されるのは,伝統に基づく正当性を有さない新君主国という例外状況が想定されているからであって,例えば人間本性に関する悲観的な見方などにもとづくわけではない.かつレトリックを捨象すれば,彼以前の政論家と根本的に異なる新しい態度と言うこともできないという.こうした例外状況への注目の背景には,当初マキァヴェッリが同書の献呈を考えていたジュリアーノ・デ・メディチが,実際に新たな国を獲得するだろうという見通しがあった.事実1515年にレオ10世はジュリアーノにロマーニァの諸都市を与えている.『君主論』第7章まではこれら教皇領の諸国が第一義的に念頭に置かれている.もっともどこを獲得するかという点で状況はやや不透明であり,前半の国家分類の複雑さはそうした不透明さを反映しているとも読める.

だがジュリアーノは病死し,献呈先はフィレンツェの統治者ロレンツォに変更される (第4章).第8-11章はこの変更に伴う挿入の可能性もある.これらの章では一転して明らかにフィレンツェが念頭に置かれており,論旨としても,残酷さを避け,公的利益を重視し,市民の好意に基づいて権力を維持する「市民的」体制を勧めている.語 'virtù' が従前の「武力」と異なり「有徳」の意味で用いられる語法の転換もこうした関心の違いを証し立てている.統治対象によって方針が異なるわけである.「市民的君主国」ということで「彼〔マキァヴェッリ〕がメディチ家に今後構築するよう求めている政体は,実のところ,共和政である」(152頁).

そして「市民的君主国」については『ディスコルシ』への参照を求めている (第5章).『ディスコルシ』から『君主論』への参照もあり,両作品はセットである.『ディスコルシ』に見られる共和政の理念は従来マキァヴェッリメディチ家支持と両立しないと解されてきたが,これは誤りであり,当時のメディチ家メディチ派の一部はむしろ共和政の枠組みを用いた統治を志向していたという.同書は現世的な価値を称揚する国家宗教の導入という提案をしており,こうした徹底した世俗性は他の人文主義者と一線を画した態度であると指摘される.総じて誤った「新規性」のイメージを掘り崩し伝統や同時代のコンテクストとの連続性を強調する本書にあっては,ささやかながら,目に付く指摘であろう.最終章では『君主論』最終章における「イタリアの解放」の主張を近代イタリアのナショナリズムと結びつける解釈が批判される (第6章).