北杜夫『どくとるマンボウ航海記』

1960年刊行.58-9年に船医として調査船に乗り込みユーラシア大陸を周遊したことを記したエッセイ.大半がほら話とやや乱暴な冗談で構成されていて,あげく「われ信ず,荒唐無稽なるがゆえに」と締め括るなど,どこまでも人を食っている.あとは当時の各地の習俗の知識やその他よくわからない雑学だけがどんどん深まる仕掛けになっている.さしずめ60年前の達筆な旅行ブログといった趣がある.

山口輝臣『明治国家と宗教』

明治期 (とりわけ宗教という観念が一定の定着を見た明治10年代以降) の日本における諸宗教をめぐる政策の形成・変容を,その背後にある「宗教」そのものの意味の変化まで見据えつつ,実証的に明らかにする研究書.年をまたいで読み終えたが,この本はかなり面白かった.

「はじめに」で語られている問題意識は,おおよそ以下のようなものである.「国家と宗教の関係」如何ということは,日本については国家神道の研究とイコールであった.だが現在この方面の研究は行き詰まっている.すなわちその核心を思想・精神面 (村上重良),神社非宗教論 (平野武),制度としての神社神道 (阪本是丸) に置く相異なる見解が併存する一方,この相違が充分自覚されないことが研究蓄積の妨げになっている.さしあたり素直な出発点として神社非宗教論を取り上げるとしても,そこでそもそも宗教とはいかなるものと考えられていたかということを,現代の我々の宗教観を形作った宗教学以前に遡って捉え,そこから国家と宗教の関係を見ていかなければならない.

最初の準拠点となるのは宗教の「語り方」である.「語り方」とは「ある事柄––例えば宗教––について議論を組み立てる際に繰り返し現れる問題設定,それへの接近法,その理由付け……いかにも常識的といった議論においてはもちろん,そうではないユニークな議論においてもそのユニークさへと至る道程に用いられているような,つまりその時点である事柄を論ずるにあたって,誰もが踏まえざるを得ないような問題設定や理由付け」(20頁) であり,「凡庸性」「匿名性」によって特徴付けられる.

宗教には19世紀的な語り方 (第一部第一章) と20世紀的な語り方 (第二部第一章) が存在する.おおよそ姉崎正治に代表される「宗教学」成立以前以後と言ってよい.19世紀的な語り方では,宗教は他のもの (e.g. 文明,道徳,学術) との比較において或いは弁証され或いは批判される.また「自然宗教から天啓宗教へ」といった仕方で時系列に沿った価値付けが行われる.そしてキリスト者のみならず,円了のような仏教者も同型の語り方を用いた.なお宗教の「進化」が語られる限り,宗教は一方で遍在し,他方で一定の「資格」を要求されることになる.結果としてはキリスト教と仏教がこの「資格」を得,他の例えば神道は––宗教の枠組みにおいて二教に劣後することを潔しとしない限りで––非宗教化することになる.これに対して,20世紀的な (宗教学に端を発する) 語り方では,宗教は普遍的な宗教的意識が社会に個別の形で現象したものと捉えられる.したがって他との関係に依存せず語りうるようになり,またキリスト教・仏教を中心とした規範的類型論は廃れる.こうした宗教の拡大によって,非宗教としての神社という従来の語り方は困難を孕んだものになる.

こうした見通しのもとで,明治期日本の宗教政策過程 (ただし当時必ずしも「宗教」という枠組みのもとで観念されていたわけではない) が検討される.大まかに言えば,伝統的に禁制が敷かれていたキリスト教の扱いについての初期の模索 (第一部第二〜四章),神社と国家の関係をめぐる綱引き (第一部第五章,第二部第二章以降) に注目する.後者については「語り方」の変容とともに民主化が政策の変化に影響を及ぼすありさまが描かれる.大きく言えばそれは,国庫から神社を切り離し「独立自営」方針を打ち立てた明治19年の「神社改正之件」に結晶する政策体系が,帝国議会設立以後の崩壊してゆく過程であったという.(簡単にまとめてしまったが,もとより政策過程研究パートが本論である.)

全体のおおよその内容は「おわりに」で振り返られており,一読した後の内容の再確認に役立つ.

森鷗外『近代小説集』第一巻

うたかたの記」(1890)「舞姫」(1890)「文づかひ」(1891)「ヰタ・セクスアリス」(1909),その他幾つかの小品を収める.前三者は『水沫集』(1892) 所収の短編で,いずれも擬古文体の洋行もの.「舞姫」以外は初読.

細やかで真に迫った心理描写ということではやはり「舞姫」が一頭地を抜いているが,「文づかひ」も捨てがたい.この小説は,一人称の文体を用いてはいるけれども,「洋行がへりの将校」の集まりで「小林といふ少年士官」が語った話であると冒頭に断られ,またその語り手はドラマのほとんど傍観者的な立ち位置にある点で,他二作とはやや趣きを異にする.筋はこうである.小林はザクセン軍団の演習の宿泊先となった城でイイダ姫と知り合いになる.イイダ姫はメエルハイム中尉−−「われ一個人にとりては」が口癖の,小林の気のいい友人−−の許嫁である.小林はあるとき頼まれて彼女の手紙をひそかにファブリイス伯爵夫人に届けることになるが,それはメエルハイムとの結婚を避けて女官へ転身する願いを綴った手紙であった.

イイダ姫が小林に事の次第と胸の内を明かす最後の語りは,時代の転換期に立たされた人間の心の機微の一端をみごとに捉えている (本書 122-124 頁).彼女の行動の芯は「貴族の子に生れたりとて,われも人なり.いまいましき門閥,血統,妄信の土くれ」という意識にある.(一方で「われ一個人にとりては」の「心浅々しき」メエルハイム男爵にはにべもない.彼の「一個人」は現実のしがらみの認識における捨象でしかない−−「イイダ姫われを嫌ひて避けむとすなどと,おのれ一人にのみ係ることのやうにおもひ做されむこと口惜しからむ」.)さりとて「いやしき恋」に身を投じるあてはない.思案の末に彼女は「礼知りてなさけ知らぬ宮の内」への隠遁を首尾よく成し遂げるが,この misanthropic な選択の結果として,ただ一つ痛切な喪失が自覚されることになる.それは「欠唇」の童とのあいだに保たれていた,か細い精神的紐帯の断絶であった.

ヰタ・セクスアリス」はやや読みあぐねた.全然つまらないというわけではないが,古典のような顔をして新潮文庫岩波文庫に収まっているのは解しかねる.どちらかといえば珍書奇書の類ではないかと思う.

月村了衛『機龍警察』

  • 月村了衛 (2017)『機龍警察〔完全版〕』ハヤカワ文庫.

初版2010年刊行.近未来日本の警視庁特捜部に設けられた部局 SIPD (ポリス・ドラグーン) による,全貌の見えない組織との暗闘を描く SF 警察小説.キャラの立っている登場人物たち,キャッチーな台詞回し,かっこいいメカ描写,かっこいいバトル描写,といった要素が揃っていて,まあ受けるのはわかる.ただ本作はストーリー上いまだ序盤に過ぎないからか,これらの要素にあまり奥行きが出ていない印象もある.初読なのでこの先どう転ぶかまだわからない.

土橋茂樹 (2019)『教父と哲学』

著者が 1995-2018 年に発表した教父関連の論考・書評を集成したもの.三部からなり,第I部「カッパドキア教父研究・序説」はとりわけ三位一体論 (「三一神論」) の成立過程をその根本概念であるウーシアー・ヒュポスタシス概念の内実の検討をつうじて描き出し,あわせて哲学 (アリストテレス,ストア,プロティノス) からの影響についても詳述する.第II部「ギリシア教父思想の諸相」はそのほか,東方教父による「洞窟の比喩」の換骨奪胎や「神に似ること」の概念,オイコノミア概念など,比較的多様な話題を扱う.第III部「マカリオス文書研究」は同文書の成立と受容を,とりわけメッサリアノイ・擬マカリオス・ニュッサのグレゴリオスという三者の複雑な関係 (「ボロメオの結び目」) を中心に据えて論じる.

アンナ・カヴァン『氷』

原書 Ice は 1967 年初刊.おそらくは核兵器の使用を原因として氷河期が到来しつつある地球を舞台とする.極地から熱帯域めざして迫りくる氷,およびそれが国々にもたらす政治的混乱と暴力の連鎖,が一人称の文体で淡々と描かれる.熱帯の国々はいまだ安逸を享受しているが,それもおそらく長くは続かない.この終末のなかで,語り手の関心はしかし専ら一人のアルビノの「少女」に向けられている.「私」は彼女を北へ南へと追うが,それはこの弱々しい少女を,所有し,支配するためである.一方で,或る小国の「長官」もまた同じように,少女を我がものとし,自らのもとに留めようとする.この奇妙な三角関係を軸に物語は進む.

決して読みやすい作品ではない.人々の動きは機械的だがとりとめがなく,文体は抽象的で,現実の描写にしばしば何の前触れもなく語り手の幻視が貫入する.だがそうした仕掛けによって,終焉をもたらす氷河,語り手と「長官」の冷酷なサディズム,死者のごとくに自由意志を奪われた銀髪の少女が,語りのなかである明確な像を結ぶことになる.「氷」という表題はこの映像の氷点下の美しさを端的に表していよう.

それからは何度も船を乗りつぎながらの旅が続いた.少女は強烈な寒さに耐えられず,ずっと震えつづけて,ヴェネチアンガラスのように砕けていった.その崩壊の過程は実際に見て取ることができた.少女は次第にやせ細り,さらに白く,さらに透明に,亡霊のようになっていった.この変容は何とも興味深いものだった.少女は完全にエッセンスだけの存在となり,動くことすらなくなった.あまりにも細くなってしまった手足は,とても使うことなどできそうになかった.季節は存在することをやめ,永遠の寒気にその場を譲った.至るところに氷の壁がそそり立ち,雷鳴の轟きを響きわたらせ,なめらかに輝くこの世のものならぬ氷河の悪夢を現出させて,昼の光は氷山の放射する不気味な幻の光に飲み込まれてしまった.私は一方の腕で少女を暖め,支えていた.もう一方の腕は死刑執行人の腕だった.(183-4頁)

宮本編 (2018)『愛と相生』

  • 宮本久雄編 (2018)『愛と相生: エロース・アガペー・アモル』教友社.

2017年のシンポジウムを元にまとめられた論文集.ギリシア教父 (オリゲネス,ニュッサのグレゴリオス,エイレナイオス) を扱う論考二篇,およびアウグスティヌスのテクストを「愛」の側面から読み解く論考三篇を収めるほか,前後に山本巍によるプラトン『饗宴』考,山本芳久によるアクィナスの説教 (というものが残っており,最近 edition が出たらしい) に関する論考が配されている.

読んでもわからんだろうという先入観も正直なところ手伝って,とりわけギリシアの教父思想にはこれまで全然触れてこなかったのだけど,神化思想を扱った本書所収の二論文−−土橋茂樹「エロース欲求エピテュミア: オリゲネスとニュッサのグレゴリオスの『雅歌』解釈をめぐって」*1,袴田玲「身体への愛は語りうるか: エイレナイオス『異端論駁』における「肉の救い」と東方キリスト教における身体観」−−は興味深く読むことができた.土橋論文は,あくまで理性的に示唆しうる限りで『雅歌』における「花嫁と花婿の交わり」のもつ霊的意味を説くオリゲネスと,幾つかの側面で彼の影響を受けつつ,『雅歌』が語る聖域を『雅歌』そのものと同一視し,これに参入するため議論をあえて謎めいた否定神学的な領域に移すグレゴリオス,という大きな構図を描いている.袴田論文は,東方キリスト教思想の本流をなす「ソーマはセーマである」式のプラトニズムの傍らに,身体もまた神化に与るとする潮流があり,キリスト教の最初期において,グノーシス主義との対決のなかでこれを明確に定式化しえたのがエイレナイオスである,と論じる.

*1:未完.おそらく最新版が土橋 (2019)『教父と哲学』に収録されているが,未見.