ウーシアーの学知としての第一哲学 Delcomminette (2018) Aristote et la nécessité, ch.11

  • Sylvain Delcomminette (2018) Aristote et la nécessité, Vrin.
    • 4ème partie. Fondation métaphysique de la nécessité.
      • (introduction.) 323-326.
      • Chapitre XI. Nature et objet de la métaphysique. 327-360.

  • 232 学知的必然性の源泉は定義と PNC である (§141).このことは生成の世界でも成り立つ (§231).だが両者の関係はいかなるものか.別々なのか,結局は同じことなのか.以下ではこのことを Met. から検討する.
    • 以下で示すとおり,Met. は強い統一性を示す.ただし学知論の延長で読まないと理解できない.
    • 必然性概念が導きの糸として有効である.学知の学知性は究極的には諸原理に存するが,Met. はまさにそれら諸原理 (正確には原理を原理たらしめる諸特徴) を扱う.この意味で Met. は,諸学知が前提する必然性を,その端的な起源にまで遡ることで,基礎づける.この起源とは神である.
  • 233 語「メタフュシカ」に対するロドスのアンドロニコスの寄与は疑われてきた (Moraux, Barnes).また Menn は編纂者の介入が思われていたより少ないと論じる.
    • 以下では,Met.アリストテレス自身の単一のプロジェクトに概ね対応する論考だという仮説を立てる.統一的解釈が可能なら,分裂を想定する (Natorp, Jaeger 以来の) 解釈よりよい.
      • ただし以下の整理が必要である.
        • α と K は除けておくべき.
        • Δ は Γ-E のあいだの割り込みに見えるものの,Γ で予告され E で前提される内容を含む.ともかく Met. に入れて問題はない.
        • MN は明らかに結論ではない.むしろ Λ の前に置くべき.
      • すると ABΓΔEZHΘIMNΛ の配列になる.これが本部で提案する配列である.

第11章 形而上学の本性と対象

A巻と『ニコマコス倫理学』における知恵

  • 234 "πάντες ἄνθρωποι τοῦ εἰδέναι ὀρέγονται φύσει" (A1, 980a21) はなんらありふれた主張ではなく,アリストテレスのプロジェクトに反プラトン的かつ倫理的側面を与えるものである.
    • プラトン的であるのは,人は知を欲する (= philo-sophie) ことが少ないという就中 R. VI で展開されているテーゼと対照をなすからである.この欲望は (感覚という基本的なレベルにおいてではあるが) 全ての人に潜在している (A1).
    • 他方でこの主張は,(φιλοσοφία の達成であるところの) σοφία が同時に人間本性の達成である限りで,この企ての倫理的射程を示している.
      • 人間を駆り立てる知への欲望は,それ自身のための欲望であり,(動物と共通の) 効用や快楽ではなく,単に驚きによって引き起こされる (2, 982b12-21).
      • この欲望を充足するのは完全に「無関心な désintéressée」学知のみである.知恵はそうしたものであり,それゆえ自由である (982b24-28).
        • 「(他の) すべての学知はより必要だが,どれもより優れてはいない」(2, 983a10-11): ここで「必要」とは,それなしには生きられない (Δ5, 1015a20) こと.
      • 無関心性は生へのインパクトがないことを含意しない.それどころか,以前驚いていたことが完全に自然に思われるという深い変容をもたらす (A2, 981a11-21).
    • なお人間を完全な人間性にもたらす学知が同時に「神的」でもあるという逆説がある (983a5-10).この点は後に触れる (§443).
  • 235 認識には感覚-記憶-経験-技術-知識という諸段階がある.後ろのほうが σοφώτερος (981b29-982a1).これは一種の純化の階梯とみなせる.
    • 就中,経験から知識への以降において知恵に固有の対象が現れる: 普遍 = エイドス = ロゴス = 原因 =〈何ゆえに〉.
      • 原理・原因は τὰ μάλιστα καθόλου すなわち τὰ πρῶτα でなくてはならず,ゆえに μάλιστα ἐπιστητά であり,そこには τὰγαθὸν καὶ τὸ οὗ ἕνεκα が含まれる (A2, 982a8-b10).
  • 236 「原理」「原因」の内実は APo. の原理論を参照すべきである.これは EN VI への参照 (981b25-27) から明らかである.
    • 知恵は原理とそこから導かれる事柄を対象とする (7, 1141a17-20).この原理は何ら人間の認識と独立のものではない (contra Owens).
    • 原理には共通原理と (定義に帰着する) 固有原理がある.定義は (形相因ないし目的因たる) ウーシアーの論弁的表現であり,したがって Met. が公理とウーシアーをともに研究することが予期できる.実際これが Met. の主目的であり,また両者には根本的な結びつきが確立される (§278).
      • 原理の学知は,固有原理を各々の固有性においてではなく,共通性において探求する.すなわち原理を原理たらしめるもの = ウーシアーである.
  • 237 EN: 知恵は学知と知性の特徴を併せ持つ.一方で知者は論証をもつが (VI 7, 1141a17-18),他方で知恵が端から端まで論証的というわけではない.
    • しばしば後者を強調して Met. の問答法的性格が言われる.
    • だが,哲学と問答法で用いられる能力は同じでも,哲学のみが真理に向かっている (§160): 哲学のみが原理から出てくる事柄を論証できる.
    • 知恵のこの二股の性格 (calactère bifide) は「探求される学知」の種々の特徴づけの理解に資する.
  • 238 Met. A では四原因が検討される.
    • このことは探求対象の原理が学知の原理であるという解釈と衝突しない: Cf. APo. II 11 (§116-117).
    • また A の結論は,リストが四原因で完全となること,および先行者が原因を曖昧にしか把握せず,それとして認識しなかったことであった (7, 988a18-b19; 10, 993a11-24).後者の認識は経験から学知への移行に対応する.
    • A における四原因への集中は,知恵の領域を固有原理に限定している印象を与える.この印象は B で修正される.

B巻における「探求される学知」

  • 239 B巻冒頭ではアポリアの予備的検討が必然だとされる.
    • 知恵の無関心的性格からして,探求は驚きから始まらなければならない.驚きとアポリアは緊密に結びつく (A2, 982b17-18).
    • δεσμός etc. の比喩は R. の洞窟のミュートスを思い起こさせる: アポリアの道行きはプラトン的想起の役割を果たす.
  • 240 ゆえに Met. での応答は決して二者択一の一方に存するのではない.むしろ大抵は両者の中間に存する.
    • 対象としては,B ではウーシアーの問題と公理の問題が導入される.

Γ巻における〈ある限りのあるものの学知〉とその拡張

  • 241 Γ巻冒頭では〈ある限りのあるものの学知〉の存在が肯定される.すでに構築されたということではなく,正統性があるということである.
    • 厳密には,探究対象は (i)〈ある限りのあるもの〉と,その (ii) 自体的付帯性および (iii) 第一原因である.
      • (i) (ii) は基礎に置かれる類,(iii) は (知性が認識する) 原理を指す.
  • 242 τὸ ὄν は「もの」(chose, l'étant) ではなく「あること」を指す: 「ある」はまずもって結びつきを指し,第二義的にのみ述定を指す (§25).
    • では「ある限りの」とはいかなる意味か.
      • これを「観照する」に係るとする解釈者もいるが (cf. Crubellier, Pellegrin),その解釈は,〈学知の対象〉を指す語であることと衝突しない.
      • また明示的な係り先の動詞がない場合もある (cf. 1003a23-25; E1, 1025b3-4).
    • 〈ある限りのあるもの〉は,最も普遍的な対象を指す.
      • "οὐδεμία γὰρ τῶν ἄλλων ἐπισκοπεῖ καθόλου περὶ τοῦ ὄντος ᾗ ὄν, ἀλλὰ μέρος αὐτοῦ τι ἀποτεμόμεναι περὶ τούτου θεωροῦσι τὸ συμβεβηκός" (1003a23-25).
        • τούτου は μέρος ではなく ὄν を指す (Cassin & Narcy).
  • 243 この点は「〈ある〉が多様に語られる」ため単一の類をなさないことと衝突する.ウーシアーを中心とする帰一構造によって解決が図られる.
    • この一節に関する Aubenque 以来の問題には立ち入らない.
    • 健康は医学の類のうちに位置を占めるわけではないが,それでも医学の研究対象である.それは,医学が栄養摂取 etc. をそれとしてではなく,もっぱら健康との関係で認識する必要があるからである.
      • そしてそのためには,健康そのものを認識すれば十分である.
      • 言い換えれば,〈健康〉はただ一つの意味をもつが,「健康」という語は様々な仕方で様々なものと関係づけられる.
    • 同様に,狭義の「ある」とはウーシアーであり,他のあるものどもはただウーシアーと関係づけられる限りでのみ「ある」と言われる (cf. Z, 1028a29-30).
      • すでに APo. I 4 で「自体的」「付帯的」が区別され,「自体的」が「それである限りで」と同じだとされていた.また cf. Γ1, 1003a27-28; 30-31; E1, 1026a32; 125b9-10. ゆえに τὸ ὂν ᾗ ὄν = τὸ ὂν καθ᾽ αὑτό = ウーシアー (§25).
  • 244 Γ で哲学がウーシアーの学知と同定されていること (2, 1004a2-9, 1004a31-b1; 3, 1005a20ff.) も,以上の解釈を補強する.
    • この解釈は全ての〈あるもの〉を探究するという普遍性と衝突しない.
      • 第一に,厳密な意味での (au sens propre)「ある」にはウーシアーの意味しかない.ゆえにウーシアーの研究は厳密な意味での〈あるもの〉全ての探究である.
      • 第二に,ここでの普遍性とは Λ におけるそれと同義である: 他の〈あるもの〉がウーシアーの属性・運動である限りで,ウーシアーの原理は他の〈あるもの〉の原理でもある.というのも,他の〈あるもの〉はウーシアーから離在しないからである (5, 1070b36-1071a2, 1071a34-35) (§389).
    • この学知はウーシアー以外のカテゴリーを探求できないわけではない.むしろウーシアーとの関係でそれを説明するということである.
      • 例えば量である限りの量の探究を行う数学と異なり,MN 巻における数学的対象の存在論的地位の探究 = 〈ある限りの〉量の探究は,正しく形而上学に属する.
  • 245 他方この学知は〈ある限りのあるもの〉の「自体的属性」も探究する.
    • 自体性1と自体性2の両方が関連する.
      • 公理も自体的1とみなせる.
      • 〈一〉と〈ある〉の自体的属性である反対者 (Γ2; cf. Δ, I) は自体的2である.
  • 246 Kyle Fraser によれば: (i) ウーシアー以外のカテゴリーは〈ある限りのあるもの〉の自体的属性である,(ii) この学知は論証的学知の全特徴を備えている.――これは正しいか.
    • (i) 実際,ウーシアー以外のカテゴリーをウーシアーの自体的2属性として考えることはできる.
      • だが,Met. でそのように論じられてはいない.
      • また APo. における自体的2属性と異なり,ウーシアー以外のカテゴリーは種差とみなすことはできない.
    • (ii) また仮に他カテゴリーをウーシアーの自体的2属性と見なせるとしても,〈ある限りのあるもの〉の学知はウーシアーへのその帰属を論証するわけではない.ただそれが何であるか (1003b33-36, 1004a25-b8),およびウーシアーとの結びつき (1004b8-10) を探究するだけである.
  • 247 「論証的」側面に対応するのは,自体的属性の導出ではなく,むしろ,τοῦ ὄντος ᾗ ὂν τὰς πρώτας αἰτίας からの〈ある限りのあるもの〉= ウーシアーの導出である.
  • 248 Γ2 末尾の〈先行と後続,類と種,全体と部分 etc.〉(1005a16-18) という列挙は,形而上学が他の諸学知の概念的骨格全体を探究するということを示唆する.形而上学が学知の全対象の (したがって全学知そのものの) 可能性の条件を探究する.この意味で形而上学は究極の学知である.
  • 249 つづいてアリストテレスは公理へと探究対象を拡張する.
    • 他の諸学知はあるものをある限りでは探究しない.だが,全学知に共通の事柄を探究する学知は,〈ある限りのあるもの〉を探究しなければならない.それゆえこの学知は公理を探究しなければならない (Γ3, 1005a19-29).
  • 250 公理は〈ある限りのあるもの〉に自体的1に属する (§278).
    • つまり,〈ある限りのあるもの〉の定義に含まれている.
    • つまり,「ある」の全ての用法に当てはまる.
    • つまり,まずもって (任意の命題の) 主語と述語の結びつきに関わる.
    • 他方,すると PNC とウーシアーという必然性の二源泉に何らかの結びつきがあることになる (§141).
      • ただし帰一構造により公理はウーシアー以外にも妥当する.

E巻における「第一哲学」と「神学的学知」

  • 251 E でも Γ の「〈ある限りのあるもの〉の探究」/「その原理・原因の探究」という二重性は保存されている (E1, 1025b3-4; 1026a31-32).
    • 他方,E では「神学的」「第一哲学」という新たな呼称も導入される.
  • 252 E1 の前半ではこの学知と他の諸学知との違いが語られる:
    • 他の諸学知は端的な「ある」に関わらない.加えて,(a) 対象のウーシアー (「何であるか」) のロゴスを生み出さず (b10-16),かつ (b) 当の対象があるかありはしないかを問わない (b16-18).
      • 逆に言えば,〈ある限りのあるもの〉の学知はこれに答えるということである.
    • 明らかにここでの原理は APo. の意味で理解されねばならない.伝統的諸学知にあっては原理把握は知性に対応する予備的探究に属する.
    • 「何であるか」と「あるかどうか」が同じ思考に属するという主張 (b16-18) は,基礎措定と定義に関する先述の解釈を確証する (§132, 138-9).
  • 253 つづいて自然学が産出的/実践的学知から区別される.自然学は理論的諸学に属し,エイドスを探究するが,ただしそれを質料のうちで考察する.
  • 254 つづいて数学を導入する (1026a8-10).ここでの言葉づかいは,問題が,対象が実際に不動で離在するものであるかどうかではなく,学知がそれをそうしたものとして扱うかどうかであることを示している.
  • 255 最後にもう一つの学知が導入される (a10-16).14行目は (質料からの完全な離在の否定としての) ἀχώριστα を読むべきである (pace Schwegler, Ross, Jaeger)1
  • 256 それ自体として考えられたエイドスは離在し不動で永遠である.
    • "ἀνάγκη δὲ πάντα μὲν τὰ αἴτια ἀΐδια εἶναι, μάλιστα δὲ ταῦτα" (1026a16-17) はたんに第一原因について言うものではなく (cf. Berti),文字通りに全ての原因のことである.質料とエイドスはともに不動である限りで永遠であり,始動因と目的因はエイドスに帰着する.
  • 257 この学知 (第一哲学) が探究するのは (質料から離在する限りの) エイドスである (cf. Γ2, 1004a2-4; 3, 1005a33-b2; Z (第一ウーシアー = エイドス)) .
    • 実際とりわけ Z 以降ではエイドスが主題になる.(複合体のエイドスは質料から端的に離在しないにしても,τῷ λόγῳ には離在する.)
  • 258 むろんアリストテレスがこの学知を「神学的」(a19) と形容していることは問題である.
    • "οὐ γὰρ ἄδηλον ὅτι εἴ που τὸ θεῖον ὑπάρχει, ἐν τῇ τοιαύτῃ φύσει ὑπάρχει" (1026a19-21).
    • 一般には,τὸ θεῖον が星々を指し,その原因が知性であり,「神学的」学知は Λ 後半で扱われる不動の動者のみを対象とする,と考えられている.
    • だが,それは理解が狭すぎる.何であれ何らかの複合体のエイドスを τὸ θεῖον で指していると見ることもできる.
  • 259 このように理解するならば,「第一であるがゆえに普遍的」という特徴づけも難なく理解できる.
    • もとより以上の解釈は多くの非自明な前提に基づいており,残りの論考の深い分析によってしか正当化できない.

  1. Cf. 西岡千尋アリストテレス『メタフュシカ』E1, 1026a14のἀχώριστα」『フィロロギカ』(15).