目的論と月下の世界の必然性 Delcomminette (2018) Aristote et la nécessité, ch.10
- Sylvain Delcomminette (2018) Aristote et la nécessité, Vrin.
- 3ème partie. La nécessité et le devenir.
- Chapitre X. Nécessité et contingence dans le devenir. 279-322.
- 3ème partie. La nécessité et le devenir.
付帯性
- 193 「必然 ⇔ 永遠」なので,生成するものは偶然的である.では,生成の学知はいかにして可能なのか.
- この問題は E2-3 で扱われる.Γ1 で「探求される学知」が「ある限りのあるものの学知」と定義され Δ7 で「ある」の諸義が区別されてから,ここで付帯的な〈ある〉が学知の対象から排除される (「真」も同様 (E4): §366-367).
- だがここで,付帯的な〈ある〉について τίς ἡ φύσις αὐτοῦ καὶ διὰ τίν᾽ αἰτίαν ἔστιν が問われる (E2, 1026b24-27).
- これらは正しく学知的な問いであるだけに驚きである.
- 194 問いには続く 1026b27-33 で答えられる.応答は必然性と「大抵の場合 ὡς ἐπὶ τὸ πολύ」の区別に存する.付帯的なものとは,必然的でなく大抵の場合にあるのでもないものである (否定的定義.1027a19-26).
- 付帯性は狭義のウーシアーをもたないがウーシアーと相関的に (πρὸς ἕν 関係を通じて) 形相因を与えられる.
- 195 だがアリストテレスは,付帯性をむしろ質料因だとする (1027a13-15).質料は矛盾する事柄の能力であり (§173, 355),単なる可能性の条件である.
- それがあの時点ではなくこの時点で・あれではなくこれになるには,別の諸原因 (始動因) が必要である.
- それら (特に自然本性・技術) が質料の現実化を (規則的な仕方で) 導く.ただしときには付帯的原因によって例外が生じることもある (1027a7-8).
- 196 「付帯的原因」は Phys. II 5 では「自体的原因」と対置される.
- 「自体的」を「それ自体である限りでの」と読み替えるなら (cf. APo. I 4),自体的原因は以下のように定義できる: A が B の自体的原因である ⇔ A である限りの A が,B である限りの B の原因である.
- 反対に: A が B の付帯的原因である ⇔
- a) 他のものである限りの A が B の原因である,または
- b) A は他のものである限りの B の原因である.
- 例: (a) 建築家が誰かを治療する (E2, 1026b37-1027a2),(b) 嵐で迂回したために人がアイギナにたどり着く (Δ30, 1025a25-30).
- アリストテレスにあって,原因-結果の必然的な結びつきは「原因性」概念に分析的に含まれてはいない.必然性はむしろ「自体的」という規定によって導入される.
- 必然性は PNC に基づく: A が B の自体的原因なら, A があり,かつ B がありはしない(ないし生成しない)ことはありえない.
- 197 アリストテレスは「付帯性の生成消滅はない」と付け加える (1026b22-24).これは「生成消滅の過程がない」(瞬時に生成消滅する)ということを意味する (Ross).
- 全ての変化した・しつつあるものは,既に変化してしまっている (Phys. VI 6, 236b19-237b9).生成消滅(= ウーシアーに即した変化)についても同様である (b9-22).
- だが,付帯的な事柄の場合: the musical が grammatical になりゆくのではなく,the man who is musical が grammatical になりゆくのであり,その過程が終わったときに the musical が grammatical になっているだけ (Ross).
- ゆえに,付帯的なものの発生は,その原因が付帯的であることに存する.
- the man が grammatical になるプロセス自体は,技術によるのであり,付帯的ではない.
- 全ての変化した・しつつあるものは,既に変化してしまっている (Phys. VI 6, 236b19-237b9).生成消滅(= ウーシアーに即した変化)についても同様である (b9-22).
- 198 以上が重要なのは,付帯性のみならず原理・原因も生成消滅の過程なしに生成消滅するとされるからである (E3, 1027a29-b14).この箇所は Kirwan 以来活発に論じられてきた.
- 199 この箇所では「原理・原因が生成消滅の過程なしに生成消滅する」という最初の文のテーゼの論証が期待されるが,それは行われず,むしろ付帯的原因の存在が論証されている (cf. K8, 1065a6-8).
- 生成消滅の過程なしには何も起こらない,とすれば,付帯的な事柄も「大抵の場合にある」事柄もありえない.
- だが,付帯的なものの原因はそれ自体付帯的である.ゆえに付帯的な事柄がなければ (棄却すべき仮定),全ての原因はある結果を必然的に導く.
- 200 この仮説からは全面的な自然学的決定論が導かれる.
- アリストテレスの挙例は一見問題含みである (cf. ps.-Alex. In Met. 454.35-38): どの段階で付帯的原因が入り込むかが問われているのに,すべての段階が付帯的に見える.
- だが,仮定より付帯的なものは存在しないので,全てが必然的になっている.それゆえこの例も付帯的原因の存在を示す帰謬法になる.
- 201 なぜ決定論を取り得ないのか.
- 例からすると倫理学的考慮にも見える.
- だが自然学的理由もある: 偶然 (τύχη) に原因が帰せられる月下の世界のなかでは,付帯性の可能性を認めなければならない.
- 喉が渇いていたという事実は,それ自体として死を招いたわけではなく,敵に出くわさせた限りで死を招いただけである.
- 当の事実は,殺人の瞬間に・過程抜きで,死の原因になる.
- 202 ただしこうした「大抵の場合」の例外はあらゆるレベルで起きるわけではない (1027b8-11): その人のその死は偶然でも,死それ自体は本質に属する.
偶然と自発性
- 203 E3 の最後で次のように言われる: "ἀλλ᾽ εἰς ἀρχὴν ποίαν καὶ αἴτιον ποῖον ἡ ἀναγωγὴ ἡ τοιαύτη, πότερον ὡς εἰς ὕλην ἢ ὡς εἰς τὸ οὗ ἕνεκα ἢ ὡς εἰς τὸ κινῆσαν, μάλιστα σκεπτέον" (1027b14-16).
- 付帯性の原因如何についてはすでに形相因・質料因が示されたが,ここでは付帯性自体の本性が問われる.この問題は Phys. II 4-6 で検討される.
- 204 II 4 では偶然 (τύχη) および偶発 (αὐτόματον) 相互の関係およびそれらと四原因の関係が問われる.
- まずそれらの〈何であるか〉(4, 195b35) および〈あるかどうか〉(b36) が問われる.
- 後者には肯定的に答えられる (ἔστι τι, 5, 196b15): つねにあるのでも大抵の場合にあるのでもない事柄があり,それらは偶然的と呼ばれる.
- この応答は E2 と完全に並行的.
- 205 〈何であるか〉に関しては一連の分割が行われる.
- τὰ γιγνόμενα には τά ... ἕνεκα του とそれ以外がある.
- 前者には προαίρεσις ないし διάνοια によるものと φύσις によるものとがある.
- だが,これらの目的となりうるものが,単に付帯的に生じることがある.これを偶然・偶発と呼ぶ (特に選択・思考による場合に偶然と呼ぶ).
- ここから定義が得られる (5, 197a32-35).
- 偶然・偶発は始動因であり,E3 末尾で問題とされた付帯的原因である.
- 206 Cf. 偶然アゴラに出かけて借金を取り返した例 (196b33-197a5).
- 207 ある出来事が偶然・偶発的だとは,それに確定的な原因がないということだ.
- 偶然を ἀόριστον とする点で先行者は正しい.ただ付帯的には原因でありうることを見逃して存在を全否定した点でのみ誤っている (197a8-21).
- 208 付帯性や偶然が世界において役割を果たすことは,他方で,世界が自然と知性の産物であることを含意する (6, 198a5-13): それらが「標準的」原因であり,偶然・偶発はそれの代わりをするだけである.偶然・偶発は世界の合目的性を排除しておらず,むしろそれを前提する.
目的と条件的必然性
- 209 合目的性と必然性は一見対立するように見える: 必然的に生じることは,これこれの質料がこれこれの属性をもつ・ふるまいをすることで生じる (エンペドクレスの例: Phys. II 8, 198b10-32).
- これはいくつかの理由から誤りである (II 8).
- ここで重要なのは第一の理由である (198b34-199a8):
- 合目的性を否定する人も,「自然によってある」ものとはつねに,ないし大抵の場合にあるものだということは認める.
- 彼らの誤りは,彼らの考える必然性が偶然・偶発と両立可能だと考える点にある: つねにあるのでも大抵の場合の場合にあるものでもないものしか,偶然とは呼べない.
- むしろ,合目的性があるがゆえにこそ,自然は必然性をも含むのである.
- 210 合目的性と必然性の関係は II 9 で検討される.
- 自然学者は質料の諸性質だけで運動を必然的なものとして説明できると考える.
- それが誤りであることは,技術との類比から明らかである (200a1-13): 壁の素材の諸性質は壁の建設の必要条件だが十分条件ではない.
- 211 何かを生み出す技術は,目的から出発して,必要条件へと (それを実現する最初の段階まで) 遡ってゆく.
- 例: 医学は健康のエイドス・ウーシアーであり,これが目的であって治療の出発点となる (Met. Z7, 1032a32-b14).
- ここでは形相因・始動因・目的因が合致している.原因の諸種は異なる観点から見られたエイドスにほかならない.
- Phys. でも自然はテクネーをモデルにして考えられる.自然は自然的事物のエイドスである限りで形相因・始動因・目的因である.
- テクネーと自然には,前者のみが熟慮の過程を含むという違いがあるように思われる.
- だがこの違いは見かけ上のものにすぎない: 技術自体が熟慮するわけではない (Phys. II 8, 199b26-32); 技術の担い手たる技術者が熟慮するだけである (Sedley).
- 例: 医学は健康のエイドス・ウーシアーであり,これが目的であって治療の出発点となる (Met. Z7, 1032a32-b14).
- 212 自然が熟慮しないとしても目的論的原理は成り立つ.
- 213 質料のレベルに必然性があるという自然学者の考えは正しい.
- だが,質料は結果を必然化するのではなく,むしろ目的によって必然化される.
- 他方,目的の現実化自体は必然的ではない.それゆえ,質料の必然性は条件的である (200a13-15).
- 214 同じ考えは PA でも表明される (I 1, 639b21-30).
- 215 PA の上記の節は,条件的に必然的な事柄が,単なる質料の現れではなく変容でもあることを示す点でも重要である (cf. Phys. II 9, 200a30-32).
- この区別が生物学著作を二分する: PA は生物の「部分」を扱い,GA はそれら諸部分が組成されていく一連の過程を扱う.
- 後者の段階で初めて時間性が登場する.ただし「過去から未来へ」ではなく目的から出発する.
- この区別が生物学著作を二分する: PA は生物の「部分」を扱い,GA はそれら諸部分が組成されていく一連の過程を扱う.
- 216 Cf. Phys. II 9, 200a15-30: 自然学とその他の理論的諸学 (esp. 数学) は,論理的観点からは同じだが,自然学の場合は前提が目的であり結論が質料となるため,ある意味で前提が結論に後続する (原理が τὸ ἐσόμενον となる).
- 217 ゆえに目的論は,目的から出発するがゆえに,未来ではなく過去の説明である (cf. APo. 95a24-b1; §118).
- 自然物の目的とはその本質にほかならない.
- 目的論的論証は,定義を第一の前提とし,非同時的な出来事を第二の前提とする.
- この推論は APo. の論証の要件を満たす.これが可能である以上,生成の学知も可能である.
- 218 したがって生成における必然性の源泉はふたたび本質と定義に求められる.
- 論証の形式を用いる場合,対象は永遠の相のもとで考察される.
- ただし,本質を,質料を必然ならしめる目的として捉えるとき,本質の必然性は,まさしく生成しているときの (dans son devenir même) 生成するものに伝達される.
- これは Phlb. に見られるプラトン的本質観と対立せず,むしろそれを前提している.
- ただしこうした必然性の時間化は過去方向に限られる.
未来の必然性
「大抵の場合」の緩い必然性
- 219 「大抵の場合」を導入することで,過去から未来への端的に必然的な道筋はなくなる.だが,それは単なる付帯性とも異なる.
- 「大抵の場合」も偶然・偶発と同様に,合目的性の観点から出発して考察される:「大抵の場合」とは,始動因と結果のつながりを,目的因の観点から特徴づけたものである (cf. Phys. II 7, 198b4-6).それゆえ「大抵の場合」と「自然的」はしばしば同一視される (passim).
- 220 「大抵の場合」は純粋に外延的か,時間的か,様相的か,を問いうる (cf. Barnes, Mignucci, Judson).
- だが,ここまでの解釈からすれば,これら全てであるとわかる:「大半の事例において」かつ「大抵のときに」かつ「おそらく probablement」2.
- 量化であれ (§41) 様相や (§63) 時間性であれ (§22) コピュラを規定するが,「大抵の場合」も同様にものや出来事とその属性の結びつきを特徴づける.
- 学知的な普遍は外延的であるのみならず様相的であり (§128),また自然学の領域では時間的である (§188): 普遍的な結びつきは必然的かつ永遠である.
- ゆえに「大抵の場合」概念は,自然的学知の枠組みのなかで考察されねばならない.
- だが,ここまでの解釈からすれば,これら全てであるとわかる:「大半の事例において」かつ「大抵のときに」かつ「おそらく probablement」2.
- 221 「大抵の場合」の領域まで学知の領域を拡大すると (APr. I 13, Met. E2),以下の問題が生じる: が大抵の場合にあるとき, は大抵の場合にありはせず,単に偶然的3.だがそうすると,様相推論理論の枠内では単なる偶然性として扱う必要があり,学知性を欠くことになってしまう.
- むしろ,条件付きの必然性とみなすべき (Striker 1985).
- これを認めることで,自然学の射程は未来まで伸ばせる.
- そうした学知は数学ほど厳密ではないが,自然学 (就中生物学) の基礎づけには十分である.
- また倫理学も可能になる (EN I 1; III 5).
円環的必然性
- 222 GC II 9-10 ではまた別の仕方で未来に射程が伸ばされる.
- ここで生成消滅の四原因が確立される.
- 目的因は,ある意味で形相であり,別の意味では――生成消滅の円環全体を考えるなら――〈あるもの〉の永遠性の模倣である (336b27-337a37).
- 月下の世界においても,生成消滅の円環性は,生成の世界における〈あるもの〉の永遠性の置き換えとして理解できる (cf. Symp. 207c9-208b4; DA II 4, GA II 1).
- 223 II 11 では「必然的な将来の事柄が存在するか」が問われる (337a34-b13).
- 224 そこでアリストテレスは (突然) 条件的必然性を再導入する (337b14-25): 先行する事柄は後続する事柄の必要条件だが十分条件ではない.だが,後続する事柄が端的に必然的なら,入れ替え可能である.
- だが,これは生成における端的な必然性を前提しており,論点先取になっている.
- 225 アリストテレスは未来の出来事の系列を三分類する.
- 第一に,無限に続き,各々は続くものに条件づけられる場合.この場合,未来の出来事は単に条件的に必然的である.
- 226 第二に,未来の系列に端点を認める場合 (337b29-338a3).テクストの解釈は分かれるが (cf. S. Mansion contra Williams),以下のように読める.
- 終点の端的な必然性を認めると,それが生じるということはつねに真であったことになる.だが条件的必然性は単に回顧的であり,後続者がつねにあることは認められない.ゆえに終点の端的な必然性はありえない.
- 227 第三に,無限に反復する場合 (338a4-17).これが問題の突破口になる.
- 必然的 ⇔ 永遠.だが生成が永遠なのは無限に反復する場合に限られる.現在の A の生成がそれと同一な過去の B の生成を含意し,それが未来の C の生成とも同一なら,A は C を条件的必然性によって含意する.だが A は所与なので条件は満たされている.ゆえに C は端的に (ただしこの現在が現在であるという自然学の基礎をなす前提のもとで) 必然である.
- 228 ここで出来事 A B C の同一性は種的である (338a17-b5).
- 個別者に関わる必然性 (この人があの人を生む) は過去の局面にはあるが,それは円環の一部をなさず,ゆえに未来にはない.
- 消滅不可能なウーシアーだけが数滴同一性を保ちつつ円環的に運動する.ただしその変化は生成消滅ではなく単なる場所運動である.
- 個別者に関わる必然性 (この人があの人を生む) は過去の局面にはあるが,それは円環の一部をなさず,ゆえに未来にはない.
- 229 この円環的な捉え方は:
- 第一に,§183 のアポリアを解決できる.
- 第二に,「大抵の場合」のカテゴリーと両立可能である.「大抵の場合」は弱い必然性であって,その例外は個別者に関わりエイドスには関わらない.
- 最後に,目的論に基礎づけられている.円環的規則性はそれ自体でよいものであり,自然全体の目的因となる.自然の必然性は自然学者の方法論的措定にすぎず,規則性の永続は,規則性がよりよいということによってしか保証されない.
- 230 だが機械論ではだめなのか (Phys. II 8, 198b16-21)?
- アリストテレスは「大抵の場合にある」ことからして偶然・偶発ではありえないと反論する.
- だがそうすると,機械論者が持ち出す降雨の事例もナイーヴな目的論で説明されてしまうのか (cf. Furley, Sedley, Wardy, Johnson, Judson, Scharle, Leunissen)?
- これまでの解釈を踏まえれば,次のように応答できる.
- まず,降雨にも目的論的説明が可能でなければならない.
- だが,目的論的説明は機械論者が斥ける種類のものではない (収穫の増大に資する etc.): そうした説明は,(a) 現象を外在的な合目的性に服せしめ,(b) 回顧的でなく展望的である点で,アリストテレス目的論と相反する.
- むしろ: 降雨の規則性が内在的目的として考えられる.
- 231 〔まとめ.〕以上の仕方でアリストテレスは必然性を生成の世界に (月下の世界にも) 再導入する.
- 必然性の源泉はふたたび (もののエイドスに対応する) 定義が示す本質であるが,生成の領域ではこれは形相因のみならず (質料とその運動の条件的必然性を導く) 目的因としても登場する.
- だが繰り返す現象においては (種的なレベルで) 条件的必然性が未来にも伝達される.
- こうした時間性という論理外的次元を考慮することで,新たな説明様式が可能になる.だが必然性の源泉は新しいものではなく,依然としてウーシアーと PNC である.