様相と時間 Delcomminette (2018) Aristote et la nécessité, ch.9

  • Sylvain Delcomminette (2018) Aristote et la nécessité, Vrin.
    • 3ème partie. La nécessité et le devenir.
      • (introduction.) 243-244.
      • Chapitre IX. Modalités et temporalité. 245-277.

第3部 必然性と生成

  • 169 アリストテレスの論理学・学知論は,学知は必然的な事柄のみを対象とすること,および,必然性はすべて PNC と〈何であるか〉に根ざすことを示している.(この二源泉が独立か否かは後の Met. 論で検討する.) 以下では,この学知観と生成の学知の両立可能性を検討する.
    • 生成の学知 = 自然学の創設はアリストテレスの最重要の貢献であり,プラトンからの最大の離反である.
    • とはいえ,Anal. の学知観は多くの点でプラトン的であり,数学を範例とするだけになおさらそうである.
      • であれば,そのなかで生成の学知はいかにして可能なのか.とりわけ必然的な事柄を対象としうるのか.
      • また必然性を導入すると (倫理学にとってはまずいことに) 自然学的決定論が帰結しないか.
    • 以上の問題を扱うには様相と時間性の関係を考察する必要がある.この主題は Hintikka 以来様相論の中心にあった.これをここまで扱わなかったのは,自然学の領域に限定するのが適当と思われたからである.時間性の問題は論理学・学知論の範囲外であった.

第9章 様相と時間性

必然性と世界の永遠性

  • 170 様相と時間性に関する最も基本的なテクストは DC I 12 である.この章は宇宙の有限性・単一性・永遠性 (= 不生不滅性 sempiternité ≠ 無時間性) を示す文脈にある: 世界が生成しかつ消滅しないとする Tim. に反対して (I 10),生成しかつ消滅しない (ないしその逆) であることはありえないと論じられる (I 11-12).
    • アリストテレスは 10 章で φυσικῶς に先行者を論駁し,以後 καθόλου に問題を検討すると言う (10, 280a32-34).
      • Williams: 自然学を出て論理学に移行している.
      • Judson (contra Williams):「より抽象的」というだけで自然学には属している.
      • アリストテレス自身の説明:「περὶ οὐρανοῦ μόνον から περὶ ἅπαντος へ」.ただしこの「万物」は生成消滅するものの領域に限られている.ゆえに議論は純粋な論理学の領域にない.
  • 171 アリストテレスはまず ἀγένητον, γενητόν, φθαρτόν, ἄφθαρτον の諸義を区別する.まず可能性/事態の二義がある (ingénérable/inengendré etc.).
    • つづいて「最大限原理」が導入される: 能力は最大限と相対的に (πρὸς τὸ τέλος καὶ τὴν ὑπεροχήν / καθ᾽ ὑπερβολήν) 考えられる (281a7-17).
      • 他方,最大限もつねに能力と相対的である (視力の場合「最大限」は最小の対象).
  • 172 I 12 冒頭は最大限原理を応用する (281a28-b2).ここでは「〜である/ありはしない」(≠ 実在) 能力が問題にされる.この能力も最大限の時間を越えて現実化することはできない.
    • これを言うには「可能なものの可能な現実化の原理」(可能なものの現実化は不可能な事柄を含まない) が用いられる (281b21-22; cf. Θ3, 1047a24-26 etc.): 無限だとして,「ある」「ありはしない」両方の可能性が最大限まで現実化したなら,同時に現実化されざるをえない.
      • 可能性は必然的に現実化されるわけではない (例: 外套が切られないまま破壊される場合; ただし切られない能力が無限であるわけではない).
      • だがウーシアーの場合は生成消滅が「ある」「ありはしない」に対応する.それゆえ両方の可能性が必然的に現実化する.
  • 173 ウーシアーの「ありはしない」は絶対的な無ではなく,当のウーシアーの質料に回帰することを意味する.この質料自体ひとつのウーシアーと考えられる.それゆえ質料が,ウーシアーの「ありはしない」能力を保存する.
    • 後にアリストテレスはこの過程の必然性 (絶対無の不可能性) を示す (III 2, 301b32-302a9).「離在する」空虚は不可能であり (Phys. IV 6-9),この不可能性から端的な生成の不可能性も導かれる.
  • 174 可能なものの必然的限界を示した後,永遠なものが (a) 消滅不可能かつ (b) 生成不可能であることが示される.ここには解釈問題がある.
    • まず不可能と偽が,次いで条件的な不可能/偽と端的な不可能/偽とが区別される (I 12, 281b2-15).
    • 不可能は矛盾を含意し,ゆえに偽であるが,逆は成り立たない.
  • 175 「条件的な偽/不可能」とは,命題とその条件のあいだの結びつきの特徴づけではなく,単に帰結の命題が端的に偽/不可能ということである (さもなければ「偽」の場合が説明できない).真/可能も同様.
    • 「これこれの条件下では三角形が 2R であることが不可能だ」という命題は,帰結 (「三角形が 2R であることは不可能だ」) が内在的に矛盾するために,条件的に不可能である.
      • 「三角形が通約可能」は帰結ではなく条件の側として理解すべき: 内在的に不可能な命題の条件のうちには,必然的に内在的に不可能な命題がある.
        • 帰謬法はこの原理に依拠する (§89).命題計算における対偶と類比的.
  • 176 二箇所との並行性が以上の解釈を裏付ける.第一に Θ4, 1047b13-30.
    • この箇所のテーゼ・議論は多くの注釈者に批判されてきた.だが問題は,注釈者たちが,ここで働いている (cf. APr. I 15) 推論理論の必然性 (§101) を,実質含意をモデルに考えたことにある.
      • "καὶ εἰ τοῦ Α δυνατοῦ ὄντος ἀνάγκη τὸ Β δυνατὸν εἶναι, εἰ ἔστι τὸ Α ἀνάγκη εἶναι καὶ τὸ Β" (b26-27) に対する異論 (Notes on Theta):「保守党が選挙に勝つことが可能なら,労働党が選挙に勝つことも可能である」から「保守党がこの選挙に勝つなら,労働党もこの選挙に勝つ」は導かれない.
        • だが,アリストテレスがここで念頭に置いている条件的必然性は,こうした関係ではない.
      • "ἅμα δὲ δῆλον καὶ ὅτι, εἰ τοῦ Α ὄντος ἀνάγκη τὸ Β εἶναι, καὶ δυνατοῦ ὄντος εἶναι τοῦ Α καὶ τὸ Β ἀνάγκη εἶναι δυνατόν" (b14-16) は以下のように解釈できる:
        1. B が A から条件的必然性により導かれ,B の可能性が A の可能性から条件的必然性により導かれないなら,可能な A から不可能な B が導かれうる.
        2. そこで可能なものの可能な現実化の原理を適用すると,A が可能なら,A の実現は不可能な事柄を含みえない.ゆえに B は必然的に不可能ではなく,可能的に不可能である.
        3. そこで可能なものの可能な現実化の原理を B の不可能性の可能性に適用すると,B は不可能になる.B は A から必然的に導かれるので,A は可能ではない.
        4. ゆえに,B が A から条件的必然性によって導かれ B が不可能であれば A も不可能である.これは仮定に矛盾.
        5. ゆえに B が A から必然的に導かれ A が可能であり B が不可能であることは不可能である.
      • ここでは可能なものの可能な現実化の原理が用いられている.問題になっているのはあくまで端的な不可能性である.ただし帰結と前件のあいだに条件的必然性がある限りで,不可能性は条件的と呼べる.
  • 177 第二に APr. 34a25-33. ここでも偽・不可能・可能なのは命題間の関係ではなく各命題そのもの.
  • 178 DC I 12 でアリストテレスが示そうとしているのは,永遠なものは単に事実上消滅しない・生成していないだけでなく,内在的に消滅・生成不可能であるということである.
    • ひとは座る能力と立つ能力を同時にもつとしても,座ると同時に立つ能力はもたない (それが可能なら,可能なものの可能な現実化の原理より,矛盾する事柄が同時に真でありうる).だが或るものが永遠に (10カテゴリーのどれかの意味で)「ある」とき,同時にありはしない能力をもつなら,その現実化は「ある」ときに同時に生じることになる.ゆえにそれは不可能である.ゆえに,つねにあるものが消滅しうることは不可能である (281b15-25).
  • 179 ありうる反論:「X が存在しなくなると想定するなら,X がつねには存在しないと想定している.したがってそのとき,X が現に存在しているとは想定できない.想定に拘らず「X がつねに存在している」と考えるのは論点先取である」(Judson).
    • 既存の応答: この反論は端的な不可能性と条件的不可能性を混同している (van Rijen).
    • だが反論も応答も条件的不可能性を誤解している.この場合,仮定 (i)「X は無限に存続する」(ii)「X は消滅可能である」の連言から,可能なものの可能な現実化の原理を通じて矛盾 (端的に不可能な事柄) が導かれる.それゆえ元々の仮定が端的に不可能である.この連言を条件文に書き直しても端的な不可能性と条件的不可能性を混同することにはならない.
    • 結論はトリヴィアルに見えるかもしれないが Tim. (41a7-b6) 批判として読めば意味がわかる (世界の外在的原理としてのデミウルゴスは措定できない).
  • 180 次いで永遠は生成不可能でもあることが示される (281b25-282a4).議論は本質的に前項と同じである.
  • 181 ある能力もありはしない能力ももつものは,永遠にあることも決してありはしないこともできない.
    • つねにある能力は,つねにありはしない (toujours ne pas être) 能力の反対であり,つねにあるわけではない (ne pas toujours être) 能力の否定である.RCP より1全てのものには述語かその否定のどちらかが帰属する.ゆえに,つねにある能力も決してありはしない能力ももたないものは,各々の能力の否定 (=生成・消滅可能性) によって特徴づけられる.ゆえに,つねにあるものはつねにある能力をもつ限りで,決してありはしないものは決してありはしない能力をもつ限りで,生成・消滅不可能であり,その逆も成り立つ.
  • 182 また生成していないという事実,ないしは消滅していないという事実,から永遠性が導かれる (一方が他方を含意する) (282a25-283a3).
  • 183 これに反対する立場 (Tim.) に対していくつかの対抗論証がなされる (283a4-24).
    • あまり説得的な議論ではないが,それらが同時に,非存在から生じて一定期間存続し,また永遠に非存在に帰する事物という考えにも当てはまる議論になっている点は興味深い.
    • だが「ある」「ありはしない」が網羅的選択肢であり,時間が無限であるとすれば,いかにして「ある」能力と「ありはしない」能力の両方に最大限がありうるのか.――唯一の解決策は,それらの期間が無限回繰り返されるということである (cf. §229).
  • 184 章末は混乱している.Moraux の正しそうな再構成によるなら,283a24-29, b5-17 が「普遍的」議論をなし b17-22 が「自然学的」議論をなす.これは誤って挿入された b3-5, a29-b2 の後に置かれるべきである.難読の前者のみを検討する.
    • 以下のように解釈できる: 何かが消滅可能だが決して消滅しない場合,つねにある能力とつねにあるわけではない能力をともに帰属しなければならない.これらがともに現実化すると矛盾するので,消滅可能なものはある時点で消滅することが必然である.生成可能なものについても同様である.
    • 新しいことが言われるのは続く b6-17 である.ここでは a4-24 に対する異論に応答しているように見える.
      • 異論: 何かが生成し以後永遠にあるとき,「ありはしない」能力は過去においてしか現実化されないため,いかなる矛盾も生じない.逆も同様.
      • 応答1: それは過去にものが〔現在形で〕ありはしない (ないしある) と述べるのが真だとすることにほかならない.だが実際にはこの能力は過去ではなく現在に存する.
      • 応答2: 能力は過去ではなくもっぱら現在と未来に存する.
        • 過去は必然的だからだ,という説明も可能である.
        • だが (その説明と補完的に),アリストテレスにとっておよそ能力は日付をもたない (non datée),とも説明できる.時間の一方向性を前提するなら,真の能力は能力の前に開かれている時間のなかでしか現実化しえない.ゆえに,もっぱら過去にしかこれこれでないとき,これこれである能力をもつと言うことは意味をなさない.

時間的諸局面と充満原理

  • 185 時間性と様相の関係は二重である: (i) 時間的諸局面 (過去・現在・未来) と様相の関係,(ii) 様相一般を時間的な語で翻訳できるか否か.
    • (i): 過去は必然的である (不可逆性).
      • DI に戻ると,この必然性 (例えば「昨日海戦があった」ことの必然性) は事実相対的な条件的必然性である.
      • これが絶対的に見えるのは,「その過去が過去である」という極めて弱い条件しか置いていないからである.
        • だが,当の命題の真理値が何か,あるいは真理値をもつこと自体さえ,論理外的な前提である.それゆえ過去の必然性は純粋に論理学的ではない.
        • 他方,過去の必然性は純粋に事実的でもない (そのような必然性がありうるとして).むしろ論理の論理外への適用の結果 (RCP と過去の事実の連言) である.
        • つまり: 過去の必然性は論理に基礎を置く (fondée) が,論理から導かれはしない (n'en découle pas directement).
  • 186 DC では「現実的にあるものは,〈ある〉ときに,〈ありはしない〉能力をもたない」とされる (283b9-10; cf. DI 19a23-24).
    • 多くの解釈者はこれを結局のところ時間的に限られた絶対的必然性であると解する (Frede, Waterlow, Kirwan).
    • Judson はこれに反対して,283b13-14 では過去と現在・未来で異なる様相的地位が与えられている と指摘する.
    • だが,現在の必然性は過去の必然性と同様に条件的である (cf. §56).ゆえにそれは,現在の端的な偶然性と両立する.
  • 187 過去と現在・未来との対立は,アリストテレスの時間概念 (Phys. IV) から説明されねばならない.
    • すなわち:
      • 時間は「先行と後続に即した運動の数」であり,連続している.
      • 連続性は過去の終わり・未来の始まりであり一個同一である「現在」によって与えられる (11, 220a4-26; 13, 222a10-20).
      • 連続であるとは,それ自体分割可能である諸部分に分割可能であることである (cf. VI 2, 232b20-233a10).
      • 現在は分割不可能であり (VI 3, 233b33-234a24),ゆえに時間の部分ではない.
      • だが,狭義の現在に近い過去・未来を含む広義の現在も考えられる (cf. IV 13, 222a21-24).
    • 以上の時間論を踏まえるなら,現在の様相的両義性は,それを過去と未来のいずれに振り分けるかの問題にすぎない.
    • したがって,諸局面の様相的非対称性は,単に時間の一方向性への論理法則の適用として理解できる.
  • 188 (ii) 時間の流れ全体と様相の関係はどうか.
    • 「〈ある〉もの (X) は〈ある〉ときに〈ある〉ことが必然である」という命題について,「〈ある〉ときに」が必要条件でもあるとするなら,以下の三通りが考えられる.
      1. X はつねにある.このとき「〈ある〉ときに」はつねに充足されるので,「X があることは必然である」と結論できる.
      2. X は決してありはしない.このとき「X があることは不可能である」と結論できる.
      3. X は,つねにではないが,ある場合がある.このとき「X がある」は偶然的命題である.
    • 以上の「必然」「不可能」「可能」は条件的である.就中,一定期間におけるある命題への真理値の帰属という論理外的仮定に依拠している.したがって,必然的な事柄とつねにある事柄の同一視は,様相の自然学的翻訳であり,自然学的領域にしか妥当しない (contra Hintikka).
  • 189 Hintikka は「充満原理」(Lovejoy) に訴え,証拠に corpus の多くの箇所を引く.だが Barnes, Judson, van Rijen はそれらが決定的でないと論じる.
    • ただし Barnes は必然性とつねにある事柄の等価性が GC II 11, 337b35-338a2 で明言されていると認める.
    • DC I 12 の上記の解釈もこれを確証する.ゆえに,自然学の枠内で彼の思想から充満原理が帰結することは認めざるを得ない.
  • 190 だが充満原理は,切られうるが決して切られない外套の例 (DI 9, 19a12-16) と矛盾しないか.
    • Hintikka は,充満原理は個体ではなく種にしか妥当しないと論じる.
      • だが,外套にしろ海戦にしろ,個体が考えられているのは明らかである (Sorabji).
    • むしろ,時間全体との関係で問題になるのはもっぱら端的な (i.e., ウーシアーで)「ある」ことあり,「切られる」のような他のカテゴリーの述語はウーシアーがある限りでしか帰属されない.ゆえに,そうした述語がつねに属することは,永遠性を含意しない.
  • 191 充満原理は未来に限定されることもある.
    • これは過去の必然性から導かれるかもしれない.だが,過去の必然性は条件的であり,端的な偶然性と両立する (§185).ゆえに,過去に実現され現在や未来に実現しない可能性はありうる.
    • むしろ: 能力が日付をもたない (§184) ことを認めるなら,現在何かに能力を帰属するとき,それは未来にしか現実化しないことを含意する.
  • 192 要約すると,アリストテレスは以下の条件付きで充満原理の一ヴァージョンを認めている:
    • もっぱら自然学の文脈において,
    • もっぱらウーシアーの変化に関して,
    • 未来の可能性に関して.
      • このヴァージョンは何ら決定論を含意しない (contra Hintikka): いつ・いかにして生成消滅するか etc. はなんら決定されない (cf. ディオドロス・クロノス).

  1. “en vertu du principe de non-contradiction” (263).