パラドクスとは尤もらしい命題の矛盾する集合である Lycan (2010) "What, exactly, is a paradox?"

  • William G. Lycan (2010) "What, exactly, is a paradox?" Analysis 70(4), 615-622.

Quine (1966) 批判.正直先行研究の文脈を追わないと何がどう新しい論点なのかよく分からない.


1. Quine の見解

Quine (1966) によれば,パラドクスとは,明らかに偽・不条理に見える言明・命題を結論とする一見成功した議論である.そして,パラドクスを解消するとは,(i) 結論が真だと示すか,あるいは議論が誤謬推論だと示し,(ii) また前者の場合には見せかけの現れを説明によって取り去ることである.

Quine はパラドクスを三つに分類する:

  • 真理的パラドクス (veridical paradox): 結論が真.
  • 虚偽的パラドクス (falsidical paradox): 結論は偽で,誤謬推論を含む.
  • アンチノミー (antinomy): 解消の仕方がわからない場合.

奇妙なことに,Quine は真理的パラドクスの裏面をなすカテゴリーに触れていない: 「前提に欠陥がある」(premiss-flawed) パラドクス,すなわち一見問題ない前提が偽である場合.

2. 異論

だが Quine の分類は,ひとの知識の状態と,物事の理解に至る能力に依存しすぎている1

議論 (argument) P1, P2, ... \vdash C が妥当であることは,それだけで C が真だと信じる理由には全くならない.議論そのものには内在的な向き (intrinsic direction) はなく,特定の問答法的目的に応じてレトリカルに向きが付与されるだけである.内在的には矛盾した集合 \{P1,P2, ..., \lnot C\} でしかない.

Quine が真理的・虚偽的パラドクスの例として挙げているものは,どれも諸前提と結論のどれがより尤もらしいかについて見解の一致が見られる例である.だが,背景に異なる信念をもち異なる関心をもつ人は,パラドクスの同じ例を別の種類に分類するかもしれない.あるパラドクスを真理的だと分類することは,特定の解消の仕方を前提しているのである.

3. 私の見解

より一般的に言って,(私が提案する意味での)〈パラドクス〉(a Paradox) は矛盾する命題集合であり,かつ各々が非常に尤もらしいもののことを言う (4. で微修正する).〈パラドクス〉を解消するとは,特定の原理を根拠にどの命題を放棄するかを決めることである.Quine の「真理的」「虚偽的」は自然な対になっていない:〈パラドクス〉が真理的である場合とは,(a) メンバーとなる命題のどれかがより尤もらしくないとわかり,かつ (b)〈パラドクス〉がすでに等の命題の否定を結論の位置にもつ演繹的推論の形に成形されている場合である.他方で,「虚偽的」パラドクスは矛盾する集合にならず,ゆえに〈パラドクス〉ではない.

実際には,どれがまずい命題かわかる矛盾する集合 (「手に負える」〈パラドクス〉(tracable Paradoxes)) と,アンチノミーが存在するだけである.Quine の術語はやめたほうがよい.

話がややこしくなる場合が二つある: (a) 集合が矛盾しているのにそれと気づかない場合,(b) 集合が矛盾していると思われているがそうでない場合.これを避けるため,〈パラドクス〉は真理関数的に定式化されたものに限ることにする.

命題計算にさえ三点で異論の余地はありうる:

  1. 関連性論理学者は真理関数的計算を (選言的推論などを許し情報的な関連性のなさを導入する点で) 放埒なものとみなす.
    • だが,たとえ自然言語の分析においてこうした指摘が正しいにせよ,ここでは批判は当たらない.既に真理条件的イディオムで定式化された命題間の推論の真理保存のためにしか使っていないからだ.
  2. 真矛盾主義者はいくつかのパラドクスに「解消」の必要を認めない.
    • だが,これは〈パラドクス〉に対する一つの態度であり,〈パラドクス〉の特徴づけ自体に対する反論にはならない.
  3. Quine や Putnam は初等的な論理さえ量子力学におけるような科学的発展の結果として疑義に付されうると論じる.量子論理学者は,真理値が定義された結合子から定式化される標準的命題論理さえ非難する.かりにこの非難が正しく,虚偽的〈パラドクス〉の存在を認めなければならないにしても,私の定式化は論点をもっともよく明示するものとなるだろう2

4. 二つの印象論的異論

私の見解には二つの異論が提起されてきた.

  1. 「多くの人がパラドクスを議論とみなしている.ゆえに,パラドクスには内在的な向きがある」.
    • 前段は正しい.だが先述の通り向きは議論に内在的でない.
  2. うそつきパラドクスのような範例的パラドクスは単一の文からなり,命題の矛盾する集合ではない.
    • うそつきパラドクスは,{(L) は真,(L) は偽,(L) は真でも偽でもない} のような矛盾する集合として表せる.もっともどの命題も大きな直感的魅力があるわけではない.たかだかそれらを擁護する強い議論があるだけである.ゆえに,元の定義の「各々が非常に尤もらしい」を「各々がそれ自体で非常に尤もらしいか,あるいはそれを導く少なくとも一見決定的な議論がある」に変えればよい.

5. 決着

こうして見ると,「手に負える」パラドクスとアンチノミーの区別は程度問題にすぎない.


  1. パラドクスの定式化なんだからそれでいいような気もするが,要は扱われる命題の内実とそれに対する認識的側面をまず区別すべきだということ.

  2. この項は総じてよく分からない.