「真理条件は意味の理論にとって中心的でない」説としてのデフレ主義 Field (1994) "Deflationist Views of Meaning and Content" #1
- Hartry Field (1994) "Deflationist Views of Meaning and Content" Mind 103(411) 249–84. [うち p.260 (§3) まで.]
1. 意味と内容についての二つの見解
- 言語哲学や志向的状態を扱う心の哲学には二つの伝統がある.相違点は,意味の理論や志向的状態の内容の理論において,「真理条件」という観念が果たす役割である.
- フレーゲ-ラッセル的伝統 (そのほか初期ウィトゲンシュタインやラムジーなど) 意味や内容の理論において中心的なのは真理条件.
- 動機の一つは,意味や内容が that 節を通じて発話や信念などに帰属されること.この帰属は要するに真理条件の帰属である.
- デメリットは,真理条件が果たす役割を正確に言いにくいこと.
- 意味の検証主義を含む伝統 中心的なのは検証条件.
- フレーゲ-ラッセル的伝統の中には,「検証主義が取り落としているのは,真理条件というよりは,命題的内容 (propositional content) である」という言い方を好む人もいる.これはある意味で正しいが,ミスリーディングでもありうる.
- とはいえ,検証主義者も真理条件について語れないわけではない.実際,二通りのやり方で語ることができる.
- 一つ目は (非常にまずいやり方だと思うが),認識的な真理条件概念を導入して,真理条件を検証条件から派生的に定義することだ (e.g.「長い目で見れば検証される」).以後これには触れない.
- 二つ目は,真理のデフレ主義的な見方 (deflationary conception of truth) を用いることだ.これには幾つかのヴァージョンがあるが,特に純粋な引用符解除的真理 (pure disquotational truth) というヴァージョンを以下で検討する.
- 理解を促すための大雑把な言い方をするなら (as a rough heuristic),「純粋な引用符解除的真理」の見方によると,
- 誰かがある発話 を「真である」と言うことは, を「自分が理解する通りでは真である」と言うことであり,
- (a) (その人が理解する通りで) が真であるという主張は,その人にとって,(b) (その人が理解する通りの) そのものと認知的に等価である.
- 厳密に言えば,(a) は (b) と異なり (c) という発話が存在することにコミットする.
- したがって,「(a) かつ (c)」が「(b) かつ (c)」と認知的に等価.
- 言い換えると,(c) に相対的に (i.e. (c) を前提 (presuppose) する限りで) (a) と (b) は等価.以下概ねこのことは暗黙の了解とする.
- 「 は引用符解除的に真である」が と認知的に等価であると主張すると,他の非引用符解除的な真理 (条件) 概念と独立に,引用符解除的な真理を理解できる1.
- 引用符解除的な真理概念を用いれば,検証主義者も真理条件について語ることができる.
- デフレ主義とインフレ主義という二つの立場の区別は,意味と内容の理論に関するもっとも根本的な区別といえる.
- どちらも捨てがたいものの,デフレ主義を採用する.本稿では,ラディカルなデフレ主義を定式化し,動機づけ,明白な反論のいくつかに答える.またここで回答できないより深刻な反論のいくつかにも言及する.
- フレーゲ-ラッセル的伝統 (そのほか初期ウィトゲンシュタインやラムジーなど) 意味や内容の理論において中心的なのは真理条件.
2. インフレ主義/デフレ主義の区別の敷衍
- ところで,デフレ主義は検証主義を必要とするわけではない.必要なのは,意味や内容において中心的役割を果たすものに,真理条件 (を内含する命題への関係) が含まれないことだけである.
- もっとも,「真理条件が意味や内容において中心的役割を果たすかどうか」という問いはまだ明晰とはいえない.具体的には:
- 意味・内容という観念が明晰でない.「意味」「内容」に真理条件を含める/含めないことを明示的に約定する (legislate) と,デフレ主義の問題は全く興味のないものになる.ここでは,「真理条件を含む」と明示的に約定しない範囲で,これらの観念をなるべく広く解釈する.
- 「中心的」という観念も明晰でない. これを明晰にするために,真理条件が果たす/果たせない役割を明示的にしたい.ただし本稿は紙幅の都合上これを完全に果たすことはできない.
- 〔真理条件が他のものに還元され,意味・内容理論がそれを含む場合を考慮すると,還元の度合いに応じて「デフレ主義」度合いも変わる.〕 デフレ主義が面白みをもつためには,「意味や内容において中心的役割を果たすものに,その記述のもとでの 真理条件が含まれない」のみならず,「真理条件の他の物理主義的な語彙への還元を構成しうるいかなるものも含まない」とも主張する必要がある.だが周知の通り,還元と消去はくっきり区別できない.ある意味・内容理論が,真理条件を用いない代わりに,真理条件を緩い意味で還元する物理主義的関係を用いている場合,その理論はデフレ主義とインフレ主義の間にあることになる.これをどう記述するかは好みの問題となろう.
- デフレ主義に検証主義が必須ではないとすると,検証条件の代わりに/に加えてどんな要素が入るだろうか.
- 一つは概念的・計算論的 (computational) 役割である.すなわち,行為者の信念・欲求 etc. がどう生じるかに関する計算論的心理学において果たす役割である.これは検証条件を含むが,他にも色々なものを含む.
- 一方で,概念的役割だけでは十分でない.概念的役割は「内在主義的」「個人主義的」だが,説得力のあるデフレ主義は「外在主義的」「社会的」諸側面に内実を与えなければならない.
- それらの側面を記述する上で,以下を前提したい:
- ある言語の使用者について,「彼・彼女は,その言語の文 (の類比物) を信じ,欲求している」と語ることができ,
- その関係は,「信念や欲求の内容」や「文の意味」という先行する観念なしに理解できる.
- 最も明白な「外在主義的」要素の一つは徴候関係 (indication relations) である: ある文 (e.g.「自分の頭上で雨が降っている」) を信じていることが,ある世界の状態 (e.g. 自分の頭上で雨が降っていること) と相関する.この単なる相関関係を観察し,それを「内容」の要素と見なすことは,デフレ主義者を含め,誰にでも可能である.
- もっとも,これによってデフレ主義者が「S は真理条件 p をもつ」という (非引用符解除的) 関係を認めねばならなくなるわけではない.
- なぜなら,真理条件を徴候関係に還元することはおそらくできないから.信念が真理条件を反映しない場合がある (例: 系統的に高さを大きく見積もるので,「高さ フィートだ」という信念が フィートの高さであることに対応する場合).
- デフレ主義者は徴候関係を認めてよく,それに重要性を帰してよい.また,非引用符解除的図式を用いて,信念が信念の真理条件の徴候となる場合と,それ以外の徴候となる場合との区別を定式化してもよい.だが,その区別に説明上の重要性を認めてはならない; それを認めると心の理論において真理条件に中心的役割を認めることになる.
- もっとも,これによってデフレ主義者が「S は真理条件 p をもつ」という (非引用符解除的) 関係を認めねばならなくなるわけではない.
- 他方で,内容を「社会的」にするには,以下のように言えばよい.
- 我々のもつ最重要の信念の多くは,我々の言語の文に対する態度である (vid. p.254).
- 信念状態の内容は文の意味に影響され,文の意味は部分的に共同体の他のメンバーの状態に影響される.
- 就中,「他の人々の特定の文を信じているという状態の概念的役割と徴候関係が,私がその文を信じているという状態の内容に関連する」という仕方で,「内容」を理解できる.
- 「内容」のこうした理解は,文についての信念に関する人々の間の影響関係を考えれば,自然でもある.
- また真理条件を内容の根本的な特徴付けに入れていないので,デフレ主義と両立する.
- それらの側面を記述する上で,以下を前提したい:
3. 論理演算子の意味論
- デフレ主義・インフレ主義というラベルは幅が広く,両者とも様々な見解を内含する.以下では,両伝統の間の対比を明確にするために,内容の理論のいくつかの問題がデフレ主義とインフレ主義の各々からどう見えるかを示す.
- 第一の問題は,「「または」「でない」「全ての」といった論理演算子の「指示対象」を何が確定するのか」(i.e. 論理演算子が,それを含む文の真理条件になす寄与を,何が確定するのか) という問題である.
- インフレ主義者にとって最善の応答戦略は,二段階よりなる.
- 第一に,「または」の「概念的役割」を詳しく説明する.問題の大半は演繹推論,およびおそらく帰納的・実践的推論における役割である (e.g. 導入則,から は出るが逆の推論はできないこと,またおそらくは〔信念の度合い (degree of belief) を で表すとき〕 であること; 実際 は とほぼ等しくなる傾向にある).
- このとき,概念的役割と真理関数を表すことはどう関係するのか.〔これを説明するのが第二段階.〕
- 「または」の概念的役割は,まさにその意味で,その真理関数を表すことを確定する (determine) のかもしれない: 任意の言語的共同体の任意の語は,その概念的役割をもつとき,その真理関数を表す.――だが,これは理由の説明になっていない.
- より自然な説明は以下の通り: 我々が「または」「でない」に関する特定の規則に従って文に真理条件を割り当てるとき,またそのときに限り,「または」を含む演繹的推論が真理保存的になり,帰納的推論の信頼性が高くなる.
- だが,この説明には二つの落とし穴がある.
- 第一に,真理関数でない場合に推論が同等に信頼可能になる可能性を考慮できていない.
- 第二に,「でない」の真理条件への寄与が独立に確立されえない限り (この可能性は疑わしい),「でない」を使って「または」の寄与を説明できない.したがって,「でない」に言及せずに「または」を説明出来ない限り,信頼性について考慮することがいかにして「または」と「かつ」についての真理性の規則を一度に与えうるのかを説明しなければならない.
- また,パッケージ全体を比較する必要が生じることで,第一の落とし穴もより深刻になる.
- かりに第二の落とし穴を免れえたとしても,量化子のようなより込み入った演算子の場合,第一の落とし穴はより大きな問題になる.
- 例:「ある (some)」を無制限の対象的 (unrestricted objectual) 量化子としても,制限付き (restricted) または代入的 (substitutional) としても推論が真理保存的で同等に信頼可能であるかもしれない.
- だが,この説明には二つの落とし穴がある.
- では,各々の語が真理条件になす寄与を,何が確定するのか.インフレ主義者の取りうる選択肢は三つである.
- 「と同一である (is identical to)」(およびそこから定義可能な「まさに2個ある」のような数量子) にも同じ問題がある.
- この述語を支配する諸公理 (i.e. 代入可能性が成り立つ等価関係) は,(信頼性にもとづいて) この述語が合同関係 (congruence relation) を表すことを確定する.
- だが,それだけでは,真正の同一性 (あらゆるものが,それ自身に対してのみもつ関係) を表すかどうかは確定できない.
- 特に他の述語の外延が定まっていない場合は特にそうである.クワインが指摘した通り,我々についてのいかなる事実が,「「ウサギ」がウサギを指し「と同一である」が同一性を指すのであって,「ウサギ」がウサギの時間的断片 (stages) を指し「と同一である」が同一対象の時間的断片であることを指すのではない」ことを決めるのかを言うのは簡単ではない.
- この事例を除外する事実が見つかったとしても,語の用法に関して全ての非標準的な合同関係を排除するような事実を見つけるのはできない相談である.
- インフレ主義者の取れる選択肢はやはり三つ: そうした事実を見つけるか,語が真正の同一性を指すというなまの事実を認めるか.論理的語彙の驚くべき不確定性を認めるか.皆どれも取りたくないはず.
- デフレ主義の主な動機は,そうした選択を回避すること.
- 「真」が純粋に引用符解除的に用いられる場合,「'' は真である」はに認知的に等価.結果,以下の図式の諸事例は概念的に必然的に (i.e. 両辺の認知的等価性より) 成り立つ:
- (T) "" は真である iff.
- 任意の文 についても,同様に,以下の諸事例が概念的に必然的に成り立つ:
- 「 または」が真 iff. または
- が真 iff.
- が真 iff. .
- ここから,以下の諸事例が概念的に必然的に成り立つ:
- (TF) 「 または」が真 iff. が真,またはが真.
- 諸事例の概念的必然性だけでは,「または」が通常の真理値表に従うことは言えない.以下の一般化が必要:
- (TFG) 我々の言語の任意の文 について, または が真 iff. が真,または が真.
- これは (T) を以下の通り一般化すれば簡単に得られる:
- (TG) ("" が真 iff. ).
- 他にもやり方はある.例えば,図式の文字 (schematic letter) を言語に組み込み,変項付きで推論するやり方.このとき二つの推論規則を用いることになる: (i) 図式の文字への文の代入を許す規則.(ii) 図式 A("p") (i.e. 図式の文字 の任意の出現が引用符に囲まれている図式) から への推論を許す規則.
- この形式化は代入的量化子をもつ言語のごく弱い断片に対応しており,おそらく完全な代入的量化子を用いるより好ましい.
- この形式化によれば (T) や (TF) はそれ自体言語の部分であり,(T) から (TF) が,そしてそこから (TFG)が導出できる.
- このような純粋なデフレ主義的説明によれば,「または」が真理値表に従う理由の説明において,「または」の意味 (e.g. 概念的役割) が明示的に言及される必要はなくなる.特定の規則が「または」に結びついているということは,説明上の役割をもたない.
- デフレ主義者も,「または」のもつ概念的役割のゆえに (because of)「または」が当の真理値表に従うという考えに意味を通せないわけではない.「「または」の演繹的推論規則が,「または」が特定の真理値表をもつことの説明に用いられる」という意味では,「特定の推論規則に従うがゆえに (because) その真理値表に従う」と問題なく言える.
- だが,この「ゆえに」は反事実的条件文を支持しない.つまり,推論規則が異なっていたら,真理条件に異なる寄与をしただろう,という結論は導けない.実際,「真理条件」を純粋に引用符解除的な意味で理解すると,この反事実的条件文は受け入れられなくなる.(これは純粋な引用符解除的真理観念への反論に見えるかもしれないが,そうではないことを後述する.)
- ここまで論理結合子について述べてきたことは,「うさぎ」のような他の語にも当てはまる.
- インフレ主義者は,私や共同体の他のメンバーに対して「うさぎ」のもつ概念的役割や,「うさぎ」文についての信念と何が相関するかによって「うさぎ」の表すものが確定されると主張する.その場合,どう確定するのかを説明できなければならない.
- 同一性に関する問題が解かれても,「「うさぎ」が〈うさぎまたは本物のような模造品〉を指さないのはなぜか」といった問題は残る.デフレ主義に説明できないと言うつもりはないが,適切に説明しうる可能性についての懐疑論の余地はある.
- 他方,デフレ主義的見解によれば,そこに説明すべきことはない.それは単に「指示する」(ないしは「について真である」) の論理の一部にすぎない.
- 「真」が純粋に引用符解除的に用いられる場合,「'' は真である」はに認知的に等価.結果,以下の図式の諸事例は概念的に必然的に (i.e. 両辺の認知的等価性より) 成り立つ:
- 以上のデフレ主義的見解は,我々が理解する語や文にしか当てはまらない.これがまずそうに見えるのは当然である.本当にまずいかどうかは後ほど検討する.だがその前に,デフレ主義とインフレ主義の対比をさらに追究する.
-
原注2.「認知的に等価」には色々な意味がありうる.Field は次のように解釈する: ある人にとって と が認知的に等価であるとは, を (引用符や志向的態度の文脈外に) 含む任意の文から, を で置き換えた対応する文に推論することを,当人の推論手続きが認可する (license) ことである.また認知的に等価であると主張することは,この推論が無効化できない (indefeasible) ことを含意する.↩