古代における関係性の構成的解釈 Duncombe (2020) Ancient Relativity, Ch.1
- Matthew Duncombe (2020) Ancient Relativity, Oxford University Press.
- Introduction. 1-22.
1.1 本書の主題
関係性 (relativity),つまりものがものに関係するという現象,を古代の哲学者 (とくにプラトン,アリストテレス,ストア派,ピュロン主義者) がどう考え,分析したか,またその分析が広く哲学的思考にいかなる役割を果たしたか,を扱う.
このプロジェクトが重要である理由は,これまであまり深く扱われてこなかったという独創性,関係性が古代哲学の基礎をなすこと (例: イデア論とその批判),および古代の幅広い諸分析がことがらとしての関係性理解に資すること,にある.
本書が扱う範囲は7世紀に亘る.しかもそれらを深く立ち入って論じる.これが可能なのは,関係性を直接扱う文献は少ないぶん各々に紙幅を割け,また扱う見解の間に (家族的) 類似性があるからだ (このことは本書全体で論証する).手に負える範囲に留めるため,扱う哲学者は絞り,またトピックも相対性それ自体に関する思想に限った (相対的変化や相対主義に関する思想は扱わない).
本書の大きい主張は三つある:
- プラトン,アリストテレス,ストア派,懐疑主義者はみな「構成的関係性」(constitutive relativity) に与している.
- 各々の関係性の理論は,各々の哲学に影響されている.
- 各々の関係性の理論は,各々の哲学に影響している.
1.2 関係項・関係・関係的属性
「関係性」についてさらに敷衍する.第一に,関係 (relations) と関係項 (relatives) は異なる.「アキレウスはヘクトルより速い」の関係項はアキレウスとヘクトル,関係は「より速い」.後に論じるように,古代の哲学者は関係より関係項に注目する傾向にある.
現代の標準的な説明では,プリアモスがアキレウスの親であるとき,2つのもの (items) と1つの事態 (state of affairs) がある.さらにテティスがアキレウスの親であるとき,2つの事態には「の親である」という関係が共通しており,4つのものはこの関係の「領域」(domain) に含まれている.外延には <テティス,アキレウス> および <プリアモス,アキレウス> が含まれる.要するに関係は属性の一種である.
関係項とは,領域内のもののことである.関係と関係項は相互に定義される.
関係的属性とは,関係項が,当の関係ゆえにもつ一項属性である.例えば「親である」はテティスの関係的属性である.関係的属性の領域は関係の領域と共外延的である.
1.3 関係性の諸理論
以上の諸概念を用いて,「古代における関係性」への三つのアプローチを論じる: (1) 関係に訴えない関係性理論,(2) 関係性は不完全述語から説明するのが最善だとする理論,(3) 関係が関係項に構成的であるとする理論.
1.3.1 関係なき関係性
この解釈によれば,古代の哲学者は関係に訴えることなく関係性を説明しようとした.つまり関係的属性の間の非関係的なつながり (non-relational tie) として分析した.
この解釈はさらに分類できる.(a) 関係的属性は存在論的に相互依存しない.例: Castañeda のプラトン解釈.彼によれば,「プリアモスがアキレウスの父である」はプリアモス,アキレウスと「イデア連鎖」(Form-chain)〈父-息子〉をもつ.プリアモスとアキレウスが各々実例となるところの〈父〉と〈息子〉はイデアなので存在論的に相互依存しない.
(b) 関係的属性は存在論的に相互依存する.例: Marmodoro のアリストテレス解釈.彼女によれば,関係的属性は,その相関項の現実化 (activation) に反事実的に依存する単項属性である.父であることと息子であることは,対として現実化されるべき力である.−−しかし反論として,この場合,本当には相互依存的でない (娘であることも父であることを現実化しうる).Marmodoro は「父と息子は真正な関係的属性ではない」と再反論するかもしれないが,これは直観に反する.
また関係的属性の存在論的相互依存は関係性にとって十分ではない.ラオメドン-プリアモス-ヘクトルの親子関係を考えたとき,父であるというラオメドンの力が息子であるというヘクトルの力に依存することを,何が排除するだろうか.排除しないなら,ラオメドンはヘクトルの祖父であると同時に父であることになるが,これは偽.
これに対して,父であることは息子であること,祖父であることは孫であることという別々のものに依存するのだという応答はありうる: ラオメドンが祖父であるのは,祖父であることが孫であることに「向けられている」(point towards) からだ.−−だがこの場合,存在論的依存は説明に必要でなくなる.また「向く」というのは排除したかった二項関係にほかならない.(二項関係でないとすれば無限背進する.)
以下ではこの見解はこれ以上検討しない.だが Marmodoro 説は存在論的依存関係に訴えるという重要な着想を含んでいる.もっとも筆者の見解では,相互依存するのは関係的属性ではなく関係項である.
1.3.2 不完全性としての関係性
多くの研究者は古代の関係性を不完全述語だと考える.よく引かれるのは DL 3, 108-9 である.よくある例は「より大きい」(larger)「愛する」(loves) など.また SE 181b25-34 もアリストテレスが関係を不完全述語と考えていた証拠と見なされることがある.
不完全述語の概念をより明確にしよう.二項述語とは Rαβ の形をとる述語である (例: α は β より速い).不完全述語とは座 (subject places) が一つだけ名で埋まっている述語を指す (例: α はヘクトルより速い).より一般に,不完全述語とは ∃y(Rαy) の形を取る述語である.
不完全解釈によれば,関係項は以下の同値式で与えられる:
- (不完全性 incompleteness) α が関係項である iff. ∃y(Rαy) が真.
このとき例えばアキレウスは関係項となる.
この解釈にはいくつか問題がある.第一の問題はいくつかの関係項が拾えないこと.例えば親は関係項だが,「α は親である」は ∃y(Rαy) の形をしていない.これに対し Barnes は,この述語は省略的 (elliptical) であるか,あるいは「誰かの親である」という不完全述語と同義的 (synonymous) だとする.だが,どちらの選択肢もうまく行かない.まず「テティスは親である」は何ら省略的ではない (文脈なしに理解可能).また「親である」と「誰かの親である」が同義的なら,「誰かの誰かの親である」とも同義的になってしまう.
また,不完全述語は外延が適切でない.不完全性によれば,関係項とそれに対応する関係とは共外延的である.だが,「x が男である iff. x はある y の息子である」としても,「男」は非関係的であるはずだ.それゆえ共外延性は十分ではない; 関係と関係項にはより強いつながりが必要である.そこで Mignucci は意味の点でつながりを説明する: 「息子」は「誰かの息子」を意味し,「大きい」は「何かより大きい」を意味する.−−だが,「大きい」を「何かより大きい」と同一視することはできない (どう解釈しても反例が作れる).
不完全解釈には以上の哲学的問題がある.またこれらを無視したとしても,後述するように,古代の関係性の適切な解釈とは言えない.この正統派解釈は二点で誤っている: 古代の哲学者たちはむしろ関係性を,第一に,関係項の観点から分析している.また第二に,それについて真である特定の述語を持つこととしてではなく,関係項の特定のあり方として分析している.要するに関係によって構成される関係項の問題だと理解していたのだ.
1.3.3 構成的関係性
あるものが非構成的なのは,それがただ何かに関係しているだけのときである:
- (つながり link) すべての x について,x が関係項である iff. x がある y に関係する.
このとき関係項はふつうの対象であり,ある関係でつながっているということのみによって関係項である.(つながり) は関係を制限しない: 万物が関係項となるし,同じ関係項が異なるものと異なる諸関係をもちうる.
不完全解釈は非構成的解釈である: 不完全述語が x に帰属できるために x を別の y とつなげる関係が存在する必要があるとしても,当の関係が x を構成する必要はない.
これに対して構成的解釈は以下を主張する:
- (構成 constitution) すべての x について,x が関係項である iff. x が y ともつ関係が x を構成する.
例: 兄であることは「……は……の兄である」という関係をもつことに依存する.より詳しく分類するなら:
- 構成は直接的な場合もあれば間接的な (関係項を構成するものを構成する) 場合もある (ch.10).
- 関係項はタイプでもトークンでもありうる.また類的タイプ (generic type. 例: 親) でも種的タイプ (specific type. 例: 母) でもありうる.
構成解釈では,非構成解釈のときと異なり,ヘクトルが関係項でない.何かと関係することがヘクトルであることではないからだ.人間も同様.さらに構成解釈では,同じ関係項が異なる諸関係のもとで出会われることはない.
構成解釈は直観的ではない.私たちが慣れているのよりきめ細かい存在論を措定しているからだ.例えばヘクトルは関係項ではない.むしろ「ヘクトル」の指示対象はともに置かれる (co-located) 構成的関係項の集合となる (例えば兄それ自体,息子それ自体など).便宜上関係項 a に関係するもの b を相関項 (correlative) と呼ぶことにする.もちろん相関項も関係項である.このとき相関項についても同様の論点が成り立つ: パリスも相関項ではありえない.兄 (brother) の相関項はきょうだい (sibling) である.構成解釈では,非構成解釈と異なり,関係項-関係-相関項は一対一対一で対応する.
以上の見解は,他の意味で「構成的関係性」を含む見解と区別されねばならない.例えば Mignucci はアリストテレスにおいて関係が関係的属性を構成すると述べる.私の見解では,構成されるのは関係項である.また Marmodoro は二つの関係的属性が存在論的に相互依存すると述べる.これも相関項については何も述べていない.
古代の哲学者は関係性を様々に描写してきたが,しかしいずれにせよ構成はその内骨格にあたる.
1.4 構成的関係性の形式的特徴
構成が構成的関係性の内骨格だとすれば,その形式的特徴は腱や靭帯にあたる.以下ではプラトンが認識していた (ch.2-4) 4つの基本的形式的特徴に言及する.古代にはこれより多くの特徴が認識されていた (就中アリストテレスにおいて.ch5-8).
1.4.1 排他性
- (排他性 exclusivity) 全ての x とある1 y について,x が y の関係項なら,x は y のみと関係する.
非構成的見解では排他性は偽である: アキレウスがヘクトルより速いことは,アキレウスがオデュッセウスより速いことを排除しない.構成的見解では x と y に入るのは「より速いもの」「より遅いもの」などであり,より速いものはより遅いものと以外は関係しない.
1.4.2 相互性
- (相互性 reciprocity) 全ての x とある y について,x が y の関係項なら,y は x の関係項である.
これは (構成) + (逆) から導かれる:
- (逆 converse) 全ての R について逆関係 R-1 が存在する.
1.4.3 対他関係性
自分自身と関係する関係項はあるか.プラトンのソクラテスは態度を決めていない.アリストテレスとセクストスはないと考えている.後者の考えを対他関係性と呼ぶことにする.
- (対他関係性 aliorelativity) 全ての x とある y について,x が y の関係項なら,x と y は同一でない.
対他関係性は構成から帰結しない.これを単なる歴史的奇癖とみなす研究者もいる.だが,多少前提を足せば,対他関係性は帰結する.一つは構成は同一性と異なり非反射的であるというもの (何ものもそれ自身を構成しない).構成関係とは基礎づけ関係 (grounding relation) だというのは魅力ある仮説である.愛する者は愛される者との関係ゆえに愛する者であり,愛する者であることは自身との関係によって基礎づけられない.
1.4.4 存在的対称性
- (存在的対称性 existential symmetry) 全ての x とある y について,x が y の関係項なら,(x が存在するのは,y が存在するとき,そのときのみである).
これは相関項が関係項を構成するという考えから直接に従う.もっとも特にアリストテレスは関係項と相関項のあいだに優先関係がありうることに気づいている.ある種の優先関係は構成的見解と両立可能である.
結論
古代の関係性に関する見解を3つに分類した.とりわけ本書の主な論敵となるのは関係性を不完全述語と見なす解釈であり,これは非構成解釈の一種である.
いくつか注意しておく.まず本章は構成的見解の骨組みを示したにすぎず,後に見るように著作家たちによる肉付けの仕方はおどろくほど多様である.また古代哲学には構成的関係項しか見いだせないということではない (「アキレウスはヘクトルを殺した」のような主張は古代哲学者も行っている).
さらに本書は次のような歴史的主張は行わない:「x がこれこれの見解を抱いたのは y がこれこれの見解を抱いたからだ」.特定の見解に関する影響関係を証明するのはおそろしく難しい.たかだか影響があったのかもしれないと言えるにすぎない.
また関係性を構成的関係性として理解すべきだとも思っていない.それは解釈上の道具にすぎない.
2章ではプラトンが構成的見解を持っていたと論じる.3章ではその結果を Parm. のイデア論批判の解釈に適用する.4章では三部分説における構成的見解のはたらきを見る.5章ではアリストテレスが構成的見解を明記しその形式的特徴を明らかにしたことを見る.6章ではアリストテレスが構成的見解を否定しないまでもそれにニュアンスを付け加えている次第を見る.7章では Met. の関係性論を見る.8章はアリストテレスのイデア論批判における関係性とイデアを扱う.9-10章はストア派における構成的見解の存在を示す.11章はセクストスが構成的見解の一ヴァージョンを前提していたことを示す.
-
「全ての」ではなく? 以下同様.↩