ストア派による関係性の応用事例 Duncombe (2020) Ancient Relativity, Ch.10

  • Matthew Duncombe (2020) Ancient Relativity, Oxford University Press.
    • Chap.10. Relativity in Stoic physics, metaphysics, and ethics. 202-225.

土地勘がないのでやや理解に自信がない.


序論

差異に基づく関係項と関係的様態との区別の動機は何か1.これを問う理由は,ストア派のいわゆる4カテゴリーにも関係的様態が登場することにある.研究者たちは,差異に基づく関係項を重視してこなかった.

10.1 では差異に基づく関係項が自然学 (の特に能動的/受動的原理) に関わることを示す.10.2 は関係的様態が形而上学とくにストア派のカテゴリーに登場する仕方を説明する.10.3 は関係的様態の私の解釈で徳の統一性に関する周知の議論を解明する.10.4 で異論に応答し,10.5 でより古い関係性理解と対比する.

10.1 差異に基づく関係項とストア派自然学

差異に基づく関係項はアカデメイア派的背景の一部をなすとされたり,またストア派の反懐疑論的手筋だとされたりする.だが,これらの説は特にストア派が関心を示した理由を説明できていない.以下ではストア派自然学との関連を示す.

ストア派によれば全存在者は物体である.このことは以下の帰結である:

  1. 存在する ⇔ 作用しうるか,または作用を被りうる.
  2. 作用しうるか,または作用を被りうる ⇒ 物体である.

この物体主義 (corporealism) について二つのことが問える.

  • 物体の本性とは何か.(cf. 10.2)
  • 基礎的な物体は何か.

自然学的に基礎的な物質はストア派の原理として知られる: 作用するもの (神) と作用を被るもの (質料) (SVF2.300=LS44B).これらも (2 より) 物体であり,かつ各々はその力によって構成される.ただし両者は物理的には分離可能でない.私の解釈では,それは,神と質料が差異に基づく関係項だからである: 両者は絶対的差異を欠いており,ある相関項との関係によってのみ当の関係項となる.

アレクサンドロスストア派が3つの相容れない主張を行っていると論じる (De Mixt. 226, 31-33b):

  • (混合) 混合において,混合の諸要素は相互に作用する.
  • (基本) 基本的自然学において,神と質料はそうした混合をなす.
  • (神) 神は作用するのみである.

だが,ストア派は (混合) に与する必要はない.

差異に基づく関係項は能動的/受動的な力〔という理論〕を下支えする.このことが,ストア派が差異に基づく関係項と関係的様態を区別する理由となる.両原理は関係によって構成されるのではありえない.関係が構成するのだとすると作用/受動の力たりえなかっただろうから2

10.2 関係的様態とストア派形而上学

関係的様態は4カテゴリーのひとつである:

  • 基体 (substrate, ὑποκείμενον),
  • 性質的形容 (qualified, ποιόν),
  • 様態 (somehow disposed, πῶς ἔχον),
  • 関係的様態 (somehow disposed in relation to something, πρός τι πῶς ἔχον).

これらの意義の解釈は分かれる (最も有力なのは Menn 1999).以下では関係的様態の役割を論じる.

  • 「基体」は基礎的素材 (basic material) のこと.第一に非限定の素材を指し (SVF 1.87, 2.317),第二に共通の限定を受けた素材を指す (LS28E).自然学的には流動かもしれないが,形而上学的には (物体的) 存在者である.
  • 性質的形容も物体的であり,それゆえ相互作用する.性質的形容からはどのようなタイプのものが存在するのかが分かる (トークンが一つしかない場合でも).例: 木片であることは硬いという性質的形容をもつことを意味する.
  • 様態には時間 (昨日),場所 (アカデメイアで),行為,長さ (3キュビット),色 (白) が含まれる.
  • 関係的様態には,明確には物体的でないものが含まれる.徳や組成 (constitutio) など.また Cf. SVF2.550=LS29D.

Rist 1969 の説明: "a is F" を真にするのは a (基体) と F (性質的形容) であると説明できることもある (例: "onion is sugary" は玉ねぎと糖が真にする).だが "Achilles runs" や "Achilles is a son" の説明は同様にはいかない.それゆえ πῶς ἔχον や πρός τι πῶς ἔχον が登場する.

後二者は何か? アキレウスそのものだとは言えない (矛盾命題が説明できない).むしろ Menn 1999 は πῶς ἔχον を状況を表す分詞として分析する.ストア派存在論では ὄν と τι が区別され,後者は作用したり作用を被ったりする必要はない.様態は後者でありうる.そして4つ目のカテゴリーは前章のシンプリキオスの報告する関係的様態と同一である.

結果,「プリアモス」といった個体を指す名辞は,同一の場所に位置する四つの対象の束を指すことになる (物体,人間,立っている人,父).父としての (qua) プリアモスは,ヘクトルの父である.このようにして関係的様態はストア派形而上学に位置づけられる.

10.3 関係性とアリストンの徳

シンプリキオスの分類とストア派のカテゴリーにおける関係的様態が同じであることは,徳の統一性をめぐるクリュシッポスとアリストンの論争に関する独立の諸資料から裏付けられる.アリストンは徳が一つであり,ただ異なる関係的様態によって様々な名前で呼ばれると考える.

ἀρετάς τ᾽ οὔτε πολλὰς εἰσῆγεν, ὡς ὁ Ζήνων, οὔτε μίαν πολλοῖς ὀνόμασι καλουμένην, ὡς οἱ Μεγαρικοί, ἀλλὰ κατὰ τὸ πρός τί πως ἔχειν. (DL 161, 2-4)

このほか:

νομίζει γὰρ ὁ ἀνὴρ ἐκεῖνος μίαν οὖσαν τὴν ἀρετὴν ὀνόμασι πλείοσιν ὀνομάζεσθαι κατὰ τὴν πρός τι σχέσιν. (Gal. PHP 7.1.14=LS29E)

Χρύσιππος Ἀρίστωνι μὲν ἐγκαλῶν ὅτι μιᾶς ἀρετῆς σχέσεις ἔλεγε τὰς ἄλλας εἶναι (Plu. Stoic. Rep. 1034d=LS61C33)

これら πρός τι πῶς ἔχειν/σχέσις は同じカテゴリーを指す.アリストンによれば,単一の心的状態 (いわば知識) が異なる状況下で異なる徳 (節制,有機,正義,知恵) に対応する.この一対多関係の措定においてクリュシッポスと相違する.

論争をカテゴリーで分析したときに,諸家の解釈は分かれる:

  1. 単一の心的状態は別々の状況への関係的様態であるか,
  2. 単一の心的状態は別々の状況に関係するだけなのか.

類比的に,徳も質か様態かが争われる.この点に関するクリュシッポスの立場は論じないが,アリストンへの応答については言うべきことがある.(2) を取るとガレノスやプルタルコスの証言に説明が必要になる.もっともクリュシッポスによるアリストンの特徴づけが影響した可能性はある.しかしそれでも,アリストンが徳を関係的様態に分類したということはもっともらしい.そうでないとクリュシッポスの批判が的外れになるし,また論争に大した対立がなくなるから.

ただしこれはアリストンに関するプルタルコスの別の証言と衝突する (LS61B).そこでプルタルコスは知識と視覚の類比に訴えている (視覚は白を見ることでも黒を見ることでもありうる).だが,徳が内在的に相違するのでなく,ただ外的事物との関係に依存しているのに対し,視覚の内在的特徴は外的対象とともに変わるため,関係的様態には当てはまらない.それゆえこの類比に訴えれば,徳も関係的様態ではなくなってしまう.

だが,関係的様態を関係が構成する対象と考えれば,ジレンマは解消する.プルタルコスの証言によれば,関係的様態によって魂が異なる同一性をもちうるというのがアリストンの主張である.例えば白を見ることと黒を見ることは別の能力である.視覚が端的に存在しないことを考えれば,これは意味をなす.「徳」も同様に別々の能力のクラスとなる.そしてこれに対するクリュシッポスの批判も意味をなす: そうした考えは徳の統一性というストア派の考えに違反する.それゆえ,上記の仮説は論争の理解に資する4

10.4 異論をさばく

いくつかの資料が,以上の解釈に対する見かけ上不利な証拠となる.だが,それほど問題にはならない.

ストア派の οἰκείωσις 理論に関するヒエロクレスの記述:

ὅλως γὰρ ἕκαστος ἡμῶν οἷον κύκλοις πολλοῖς περιγέγραπται, τοῖς μὲν σμκικροτέροις, τοῖς δὲ μείζουσι, καὶ τοῖς μὲν περιέχουσι, τοῖς δὲ περιεχομένοις, κατὰ τὰς διαφόρους καὶ ἀνίσους πρὸς ἀλλήλους σχέσεις. (Stob.4.671,10=LS 557G (part))

これらの円は互いとの関係によって構成されているわけではない.だがここでヒエロクレスが σχέσις と呼ぶのはむしろ関係である.ゆえに反対論拠にはならない.

また Tht. の無名の注釈者は,やはり οἰκείωσις 理論の文脈で,関係項と関係的様態を厳密に区別しない (LS 57H).しかしそこで論点になっているのはやはり関係であって関係項ではない.

シンプリキオスの関係項の例に甘さ・知識・所有・感覚が入っており,これらがむしろ性質的形容に入りそうなこと,も問題にはならない.それらは力によって構成されるので,性質的形容には入らない.

以上をもとに歴史的思弁をめぐらしてみるなら: 差異に基づく関係項がストア派自然学に登場するなら,自然学において差異に基づく関係項と関係項一般が区別されていたとするのは尤もらしい.例えばアカデメイア派などから,能動的な力/受動的な力は単なる関係項であるとすれば,何が一方を能動的,他方を受動的にするのか,という批判が来ていた場合,ストア派は上記の区別に訴えることができたであろう.

10.5 ストア派プラトンアリストテレスの関係性

他の古代思想と比較してみる.

10.5.1 相互性

相互性はストア派の関係的性向の顕著な特徴ではないが,しかし相互性を排除する資料もない.そして差異に基づく関係項は相互的である.

10.5.2 対称性原理

ストア派は存在的対称性を主張するが,父と息子に本当に存在的対称性が成り立つのか,という疑念が提起されてきた.しかし,10.2 で論じたように,関係的様態が qua 対象だと考えれば問題は生じない.

認知的対称性はアリストテレス (Cat. 7) に顕著だが,シンプリキオスの報告には出てこない.だが,認知的対称性のより弱い (「確定的に知っている」の「確定的」を取った) ヴァージョンとして認識的対称性を定式化するなら,ストア派はこれを受け入れると思われる:

(認識的対称性) 全ての x, ある y について,x と y が相関的な対なら,a が x を知っているとき,a は y を知っている.

裏付ける資料として Mignucci が提示した Scholia Marciana がある.ただし8世紀の資料であるなど色々な留保は必要.

存在的対称性が認識的対称性を裏付ける: 父それ自体が子それ自体にその存在が依存しているなら,「父」が子に関係する何かを意味するのだと知っていなければ,「父」の意味を本当には知っていない.その他の資料として S.E. PH 2.117-118.

10.5.3 対他関係性

資料からは全関係項に対他関係性が成り立ちそうな強い印象を受ける.実際また,もの能動的な力と受動的な力の両方から構成されるということはありそうにない.

関係的様態の場合はより微妙だが,非対他的な関係的様態は単なる様態となるように思われる.したがってこちらも対他関係性が成り立つとするのが自然である.


  1. 訳語は基本的に SVF の邦訳 (水落・山口訳『初期ストア派断片集 2』) に依った (ため前章から変えている).ただし本書の relative/relation の区別などに鑑みて一部変えている.

  2. いまいちどういう理屈なのか分からない.アリストテレスとかだと問題なく関係項になるわけなので.

  3. D2-4 とあるのは誤り.

  4. 結論は理解できるが,元々のジレンマの何がおかしかったのかよく分かっていない.