概念工学への反論と答弁 Cappelen (2020) "Conceptual Engineering"
- Herman Cappelen (2020) "Conceptual Engineering: The Master Argument" in A. Burgess, H. Cappelen and D. Plunkett (eds.) Conceptual Engineering and Conceptual Ethics, 132-151.
概念工学が哲学一般・探究一般にとって大事である理由を論じる.
I. 背景と中心的語彙の説明
「概念工学」を私たちの表象的デバイスを評価し,その改善を展開するプロジェクトのことだとする.概念が中核的表象的デバイスだとすると,概念工学は私たちの概念の評価と改善のプロジェクトだということになる.例えば認識論・道徳哲学・形而上学・意味論の各々についてこれがなされるだろう.
これは規範的プロジェクトであり,現に持っている概念を記述しようとする記述主義的プロジェクトと対照をなしている.両者の対立は哲学史をつらぬいてきた.記述主義的な目標からすると,改訂主義的目標は意味不明ないしナイーヴである.後者からすると前者は妥協的でつまらなく怠惰である.ニーチェは改訂主義の範例をなす.ストローソンはこの区別をもとに哲学史を書くやり方を示唆している.
そしていまでもこの対比は残っている.一方で,道徳哲学,真理論や論理学理論,フェミニスト・人種理論などでは,改訂主義的プロジェクトが活発である.他方で,認識論や言語哲学,また「自由」「自我」「対象」などを記述する試みなど,哲学の多くの領域では記述的プロジェクトが支配的である.
II. 主論証
以下で提示する主論証 (The Master Argument) は,別にオリジナルなものではなく,多くの改訂主義的プロジェクトを動機付けてきた考え方である.とはいえ,一般論としてはしばしば暗黙的なものにとどまってきた.
主論証:
- 語 W が意味 M をもつなら,W は多くの意味 M1, M2, ..., Mn をもちうる.
- W がいまもっている (ended up with) 意味が,W がもちうる最良の意味だと考えるよい理由はない.典型的には,W の意味としてよりよいものが無際限にたくさんあるだろう.
- 私たちが話し,考え,理論をつくるとき,私たちの語が,できるだけよい意味をもっている1ようにしておくのは重要である.
- 系として: 哲学するときは,中核的な哲学的語彙によい意味を見つけようとしなければならない.そしてそれらは,典型的には,それらの語が事実もっている意味ではないだろう.
- それゆえ,哲学者がどんなトピックに関わるにせよ,中心的語彙の評価と改善を行わなければならない.
概念工学の一般理論の粗描は主としてこの種の議論の擁護となる.従来の概念工学の議論は領域限定的であり (例: 道徳的概念はどのようなものであるべきか?),その重要性は当の主題の重要性に依存していた.この主論証は領域限定的ではなく,ここに事例研究と独立の一般的研究プロジェクトがあることを示している.
III. 7つの異論への回答
主論証への異論を7つ挙げる.各々に答える際,(a) 概念工学の本性を明らかにし,(b) 概念工学の中心的課題を粗描するよう努める.
異論(1): 語 W が意味 M をもつとき,W に多くの似た意味がある,とどうして考えないといけないのか.
- 似た意味という考えについて. 主論証は,意味とはなにかという根本的問題に対して中立的である.が,どんな意味の説明も,「似た意味がある」という主張と両立可能である.例えば意味を内包 (外延への関数) と見なせば,関数を少しずらすと,似ているが異なる意味が得られる.
- 語がある意味から別の意味に変化しうるという考えについて. そうだとして,変化は可能なのか.答え: まず,例えば「婚姻」は何でも (例えばラクダのことも) 意味しうる (could).第二に,そういうのではない,概念工学がめざすような漸進的変化も,歴史的にはいつも起こっており,歴史 (通時的) 言語学がそれを研究している.
異論(2): いかなる意味で,ある意味は別の意味よりよいものでありうるのか.
語が表現する意味に欠陥がありえ,改善されうる,という考えには哲学的伝統がある.以下では20-21世紀のヴァージョンに集中する.ひとつの範例は,「知的作業は典型的には解明を伴う」というカルナップの考えである.すなわち,意味には欠陥がありえ,欠陥の主たるものは不確定性 (indeterminacy) と曖昧さ (vagueness) である.解明は改善のプロセスである.そしてカルナップによれば,改善は目的と相対的に測られる.(グプタの例: 真理関数的条件文は,日常的条件文とは本質的に異なるにせよ,特定の文脈における,特定の目的のための日常的条件文の解明に使える.) 同様の考えは Quine, Word and Object, 258-9 にも見られる.
この線で行くと,理論的美徳の決まった集合があると考える理由はない.ハスランガーのジェンダー・人種概念の改訂案もカルナップ路線の継承とみなせる.Clark and Chalmers の「信念」概念の改訂案も同じ形式を採っている: (i)「信念」概念の内包・外延を変え,(ii) 改訂の正当化を与えている.哲学にも哲学外にも (例:「拷問」「人」「結婚」「レイプ」の外延についての論争など) 同様の例は数多くある.
こうした人達の提案のいくつかが尤もらしいと思えるなら,主論証の前提 (2) を認める必要がある.
もっとも,意味の割り当ては評価できないという反論はありうる:
- 完全な中立性 意味の割り当てはつねに規範的に中立的である.
だが,これは尤もらしくない.意味の割り当ては,私たちが何を・どう考えられるかに大きく影響する.その影響が評価できないと考えるのはおかしい.
異論(3): 様々な語がもっている意味は,それらがもちうる (もつ必要がある) 最良の意味だと,どうして考えてはいけないのか
この異論はばかげていると思う.私たちの制御下にないぐちゃぐちゃでおおよそ理解不可能なやり方で生み出された文化的人工物が,私たちに改善できない何かを生み出しているとは思われない.
オースティンによれば,一方で日常言語は伝承された経験の具象化であり,何ごとかをしるしづけてはいるものの,他方でそれは決定版ではなく,原理的にはあらゆる場面で改善されうる.ニーチェは (愚か者の寄与を理由に) 概念的遺産についてより懐疑的である.目的が変われば意味も変わる必要が出てくるということは,ニーチェの態度を支持するさらなる理由になる.
異論(4): 表現の意味を変えてしまうと,大量の字面上の争いとトピックの変化をもたらさないか
懸念はこうだ.'F' の意味を改善すると,改善前の人たちが「F は G だ」と言い,改善後の人たちが「F は G でない」と言って,たんなる見かけ上の不一致が生じうる.また改善前の人たちが「F は G か」をがんばって探究していた場合に,改善によってその問いを見失ってしまう.(例: ストローソンのカルナップ批判,ハスランガーとレイルトン).
Cappelen 2018 の応答: 同じ文を,異なるが十分に似ている (relevantly similar) 意味論的内容で用いるとき,同じことを言う (say) のに S を用いることができる.すなわち,同じことを言っているということ (same-saying) が,様々な意味論的内容を通じて保存されうる.またそれによって,同じ主題・トピックが保存されうる.
異論(5): 意味するに値する各々のものが何らかの語で意味されるかぎり,意味の割り当ては規範的に中立ではないだろうか
すなわち,語 W に欠陥があるなら,W を使い続けず,新しい語を導入すればいいのではないか.すなわち,以下の選択肢に関して:
- 語彙の拡張 新たな意味が新たな表現の意味として導入される.
- 語彙の改善 新たな意味がすでに「使用中の」語彙項目の意味を置き換える.
以下が主張されうる.
- 常時拡張 新たな意味はつねに新たな語彙項目に付加されるべきだ.
常時拡張の動機として,Chalmers 2011 の「添字戦略」(the subscript gambit) がある.哲学的概念のはたいてい,クラスタをなす類似の諸概念に囲まれている.私たちが選びだした概念が特別に興味深い,ないし有用である,とは限らない.だから,例えば自由概念に関して添字を使って「自由1」「自由2」……と表していき,これら全てを語彙として保持しておくことで,より広い範囲の真理を表すことができる.チャーマーズいわく,「どれが本当の自由なのか?」はつまらない問いであり,「フェシティスティックな」価値システムに動機づけられたものでしかない.
これに応答する前に述べるべきこととして:
- まず,常時拡張は概念工学とは対立しない.概念工学の特定の方法の提案にすぎない.
- 語彙項目の選択は重要である2.
とはいえ,常時拡張は4つの理由で間違っている.
- 語彙項目のもつ語彙効果を保存したい場合がある.
- 新語を導入してしまうとトピック連続性のしるしがなくなってしまう.
- 特に: 個々の文脈や個々の会話を越えたトピック連続性.
- 「クラスタ」を特定するには,トピック連続性を測る係留点として,添字なしの概念が不可欠である.
- 語彙項目が社会的事実に寄与している場合,新たな語彙項目の導入では同じ効果が得られない.
異論(6): なぜ改訂主義的プロジェクトは記述主義的プロジェクトの重要性を掘り崩すと考えねばならないのか.なぜ二つのアプローチの間に緊張関係があると考えねばならないのか.両者は相互補完的ではないか
もちろん相互補完的ではありうる.だが,ゆるい意味で「緊張関係」があるとは言える:
- 興味関心が変わると研究の方向性と優先順位の付け方が変わる.
- 主論証より,「純粋な」記述主義は不可能である.
異論(7): 概念工学に携わるべきであるなら,意味割り当てが私たちの制御下にあると前提する必要がないだろうか.意味割り当てが制御下にないなら,一体いかにして概念工学に携わることが有意味でありうるのか
この異論は大事だ.たしかにメタ意味論的事実はたいてい制御下になく測りがたい:
- 語彙の導入は大昔に知らない人が行っているのが普通である.導入における直示の対象または記述内容,および導入の動機はわからない.
- ある外在主義的理論によれば,指示対象が保存されているかも定かでない.
- 別の外在主義者 (Williamson) は,意味は使用パターンに付随するが,このつながりは混沌としていて把握できない,と論じる.
また,内在主義なら概念を制御下に置けることになる (Burgess and Plunkett) わけでもない.意味や外延が私の属性に付随するとしても,当の特徴は私の制御下にないかもしれない.また制御下にあるものに付随するからといって制御下にあるとも限らない.
異論への応答: しかし制御下にないのはほかの規範的理論構築の場合と同じである.