事実に関する相対主義としてのプロタゴラス説 Waterlow (1977) "Protagoras and Inconsistency"
- Sarah Waterlow (1977) "Protagoras and Inconsistency: Theaetetus 171a6-c7" Archiv für Geschichte der Philosophie 59 (1), 19-36.
RIP Sarah Broadie.
Tht. 171a6-c7 の論証構造を検討する.第I節では「プロタゴラス説がいくつかの否定しがたい前提と合わさると自身の否定を含意する」という一般的な解釈を斥ける.ただし同箇所がそういう試みに見えることは否定できない.第II節では代案を示す.この代案は一般的な解釈の欠点を補いつつ,そうした解釈の見かけ上のもっともらしさを説明する.
I
〔論拠1: D から矛盾は導けない〕
171a6-c7 のプロタゴラスの立場は以下からなる:
- (a) 教説 D:「全ての信念は真である」.
- (b) 「ほとんどの人がある信念が偽だと考えている」という否みがたい事実への譲歩.
これは矛盾ではない.なるほど,D が無制約に全ての信念に妥当するなら,「D が偽である」という信念が真だとプロタゴラスは認めることになる.しかし別々の意見は信じている人に相対的なので,別々の世界に関して D とその否定が成り立つというだけであり,矛盾はしない.
その無矛盾性は,プロタゴラスの意見を真にする世界が他人の意見を真にする世界と同じ形而上学的地位をもつかどうかと無関係に成り立つ: 等しく絶対的実在でないとすれば当然無矛盾だが,プロタゴラス自身の世界や信念 (就中 D) が端的に成り立つとしても無矛盾である.
ゆえに,171a6-c7 の議論は,かりに矛盾を示すものだとすれば,誤謬推論だということになる.このことは従来の解釈を拒否する一つの理由になる.そして理由は他にもある.
〔論拠2: 矛盾を示しても意味がない〕
そもそも,矛盾した立場がまずいのは,それが維持不可能 (untenable) だからだ.なぜ維持不可能かを説明するには,無意味さ (meaninglessness) または虚偽性 (falsity) の概念に訴える必要がある: (1) 矛盾した立場はそもそも全体として確定した意味を表現できていない,(2) 矛盾する立場は必然的に偽である,または充足不可能である.
だが,(1)「プロタゴラスの立場が矛盾していると証明すれば,無意味だと証明したことになる」とプラトンが考えていたとする証拠はない.たんに前提していたのだと考えるのはもっともらしくない: (a) さもなければ Met. Γ, K の意義が理解できない.(b) そもそも私たちにとってさえ矛盾と無意味さのつながりは判明とはいえない: 例えば,矛盾が無意味だとすると,いかにして帰謬法の主題となりうるのか.(c) プラトンは Sph. に至るまで意味の問題を真理や知識の問題と区別していないし,Sph. においてさえ最も単純な λόγος についてしか有意味性の問題を考えていない.
他方で,(2a) 矛盾する立場は必然的に偽であるという考えに基づいていたのだとすると,論点先取になる1.意見が偽でありうるかどうかが問題だったからである.
(2b) 「たんに偽であるというのではない意味で「充足されない」(unsatisfied) ということを示している」と言うこともできない.ここで問題になっているのはプロタゴラスの意見であり,命令や意図ではない.したがってプロタゴラスの主張は「全ての信念は充足される」とも再定式化できるのであり,反論は論点先取になる.(もちろんプロタゴラスは意見に善し悪しという価値の次元があると論じている.だが,この点をプラトンが利用しているのであれば,矛盾が悪さを導く点についての当たり前の立証責任をプラトンが果たしていないことになる.これはありそうにない.)
それと知りつつ矛盾する信念を抱くことは不可能だ,という異論はありえよう.だがプロタゴラスはそうと認めないだろう (抱きうると思われるなら,現に抱いていることになる).また不可能だとしても,それは「矛盾がともに真ではありえない」という先立つ信念に依存するのかもしれない.その場合やはりプロタゴラスには当てはまらない.
実際また,プロタゴラスが矛盾する信念を主張しうるとプラトンが考えていた徴表がある: Tht. 166b4-5, 167a7-8.
〔論拠3: ヘラクレイトス説によれば矛盾する信念が不可能になる〕
また,同一の主体が矛盾する信念を抱いているときにしか矛盾は生じない.だが,『テアイテトス』のプロタゴラスはヘラクレイトス主義者である.矛盾だと現れるものは異なる主体に帰属する別々の信念にすぎない.
したがって,ヘラクレイトス説を論駁するまでは,矛盾を質しても意味がない.そしてヘラクレイトス説の論駁は 171a6-c7 より後に位置する.
〔プロタゴラス批判は成功した議論として提示されている〕
プラトンは論証を矛盾を示すものとして提出しつつ,じつは満足いく論証だとは思っていなかった可能性はないか.なるほど 171d-3 はそうしたためらいを示しているものと思われるかもしれない.だが,そうではない.まず 179b7-9 のテオドロスの発言を参照.さらに,文脈を踏まえれば,171b1-3 自体アイロニックな言い回しによる結論の強化である.
II
以下では論証そのものを仔細に検討する.まず,プロタゴラスは「論敵に同意 (ὁμολογεῖν, συγχωρεῖν) させられる」とは言われているが,「D が虚偽だと主張する」とは言われていない.むろん通常,A が B の意見に同意するとき,A は B の意見 O と同一内容の意見を持っていると考えられる.だが,A はたんに O という意見を持っているわけではなく,「O は真である」という高階の意見を持っているとも考えられる.プロタゴラス説では両者は同一ではない.したがってプロタゴラスは反対論者の説を共有しているわけではなく,矛盾には陥らない.
もっとも一箇所だけ,プロタゴラスが反対論者の説を共有していると取れる箇所がある: "... ἐπειδὴ ἀμφισβητεῖται ὑπὸ πάντων, οὐδενὶ ἂν εἴη ἡ Πρωταγόρου Ἀλήθεια ἀληθής, οὔτε τινὶ ἄλλῳ οὔτ᾽ αὐτῷ ἐκείνῳ" (171c5-7). とはいえ,これも単なる同意の事実を示す言葉づかいとして理解できる: この与格はある種の所有を示すものであり,プロタゴラスの内的状態を示すものではない2.
以上の解釈が見逃されてきたのは,プロタゴラスの相対主義が真理に関する相対主義だと見なされてきたからだ.そうだとすると,そもそも「同意する」(agree with) とプラトンが言える理由が分からなくなり,同意を云々することが安易な論点のすり替えに見えてしまう.
実際には,プロタゴラスの相対主義は,真理ではなく事実に関する相対主義である3.つまり信じる者に相対的なのは信念を真にする実在である (157b1, 158a7, 160b8-c2, 166d4, d7-e4, 167c5).この見解は知覚理論を基礎とするが,「現れ」という語の拡大適用によって,質と感覚的現れの関係が事実一般と意見の関係へと暗黙的に拡張される.このとき現れと対象はともに主体に依存するが,現れと対象の関係がそれに加えてさらに主体に依存するわけではない; 現れが存在するというだけで現れは真になる.ゆえにプロタゴラス主義者は信念が (主体にとってではなく) 端的に真だと言える.そうした「真」は,現れと独立の真理だとか,異なる主体がアクセス可能な単一の真理とかを含意しない.プロタゴラスは D 自体たんなる彼にとっての現れだと認めねばならないが,そのことも D が端的に真であることを妨げない.
事実に関する相対主義には問題があるかもしれない.B が真だという事実がたんに相対的なら,B が真となるという関係も同様に相対的になってしまうように思われる.だがいかなる困難があるにせよ,プロタゴラス説が事実の相対主義であるというのがここで重要な点である.実際「真」(ἀληθής, etc.) にはほとんど与格がつかない.つく場合 (161d3, 170e7-171a1) も「相対的真理」のような特殊な概念を表しているわけではない.例外的なのは 170e4-5 だが,これも事実を相対化していると理解できる.
事実の相対主義は,同意があるとき同一意見の共有があることを含意しない.ゆえに 171a6-c7 はプロタゴラスの矛盾を示す論証ではない.論点は,プロタゴラスの立場を受け入れる者が当の立場を斥けねばならないということではなく,それを斥ける者にとって,それを受け入れることは考えることさえできないということ4.