第一哲学は「自然学以後」ではありえない Aubenque (1962) Le problème de l'être chez Aristote, Intro., Ch.II

  • Pierre Aubenque [1962] (2013) Le problème de l'être chez Aristote: Essai sur la problématique aristotélicienne. Presses Universitaires de France.
    • Introduction. La science sans nom.
      • Chapitre II. Philosophie première ou métaphysique ? 45-68.

巧みで視野の広い議論だがいくつかの主張にはまだあまり説得されない.一定の発展史を前提して,認識的先行性の内実が思想の発展とともに変容したという可能性のみを考慮し,また νοῦς の役割を基礎付け主義的に理解しているために,擬似問題を立てている可能性があるように思う.この点 Irwin の議論とも並行的.

もちろんそうと結論づけるにはテクスト間の相違点とされる部分を分析しなければならないし,特に『プロトレプティコス』解釈などは検討したほうがよさそうだが,例えば Top. VI 4 と Met. Z で認識的先行性の内実が異なるという主張は疑わしく思える.


〔「第一」の諸義〕

  • 「なぜ第一哲学が自然学の後に学ばれるのか」という問いに,大半の注釈者は τῇ φύσει-ἡμῖν の区別によって解答してきた.だが,アリストテレスはそもそも「自然学以後」という性格づけを行ったのだろうか.
  • 実際のところ,アリストテレスが強調したのは,むしろ第一哲学の先行性である (cf. E1, 1026a10).
    • いかなる意味の先行性か?
      • Δ11 では πρότερος-ὕστερος の三義が区別される.
        1. ἀρχή との距離,
        2. 認識に即した (τῇ γνώσει) 先行性・後続性.これはさらに κατὰ τὸν λόγον と κατὰ τὴν αἴσθησιν に分かれる.
        3. 本性・本質に即した (κατὰ φύσιν καὶ οὐσίαν) 先行性・後続性 (= 存在論的依存関係).
      • 加えて Cat. 12 では (4)「よりよい・より貴い」という先行性,(5) 時間的先行性 (これが最も根本的とされる) が挙げられる.
    • 第一哲学の対象は,(3) 本性・本質に即して,(4) また「より貴い」という意味で第一である.また ἁπλῶς に (2) 認識上も先行すると思われる.
    • そして,これらは全て何らかの意味で時間的先行関係を参照する: 本質に即した先行性も認識の順序に帰着し,認識の順序は時間軸上に展開する.

〔「第一」哲学の認識論的先行性,およびその結果として生じる哲学の可能性への悲観〕

  • それゆえ,第一哲学は自然学より時系列的にも先行する1
  • デカルト形而上学を時系列的に第一のものとし,そのために明証性の規則を立てた (『原理』序文).
    • これは,原理以外の事物の認識が原理に依存し,その逆でないとき,原理の認識はいかにして可能か,という問題への解答である.
  • 同様に,アリストテレスは『プロトレプティコス』で,"ἀεὶ γὰρ γνωριμώτερα τὰ πρότερα τῶν ὑστέρων" であるがゆえに,哲学は学びやすい,と説いている.魂は身体より優れており,身体にかかわる学知として医術や体育術があるのだから,魂と魂の徳にかかわる学知もあり,私たちはそれを獲得できる.
    • こうした一見するところの楽観主義は,「諸原理が万物の存在根拠にして認識根拠である以上,それらは無媒介に知られねばならない」という,哲学成立の最小要件を示している.
  • このテーマは著作集に頻出する.
    • Met. A9 では学びの問題に関する Meno のミュートス的解答が批判される.
    • APo. II 19 でも原理認識の ἕξις を生得的とする説が批判される: そうだとすると私たちは不明瞭に原理を認識していることになる (99b27).
      • ここには原理自体に認識可能性が存するという考えが見られる.やはり明証性が論理的要件となっている.
  • つまり,アリストテレスが第一哲学を先行的としたのは,プラトンが真理の認識を前世に投影したのと同じ理由に基づく.
    • 認識の論理的・時系列的・認識論的順序は合致する (APo. I 2): 推論は実在の生成と同じ順序で展開する.
      • 運動の始点の問題と認識の始点の問題は類比的である: アリストテレスの前者への解答は不動の動者,後者への解答は論証不可能な原理.
  • 原理自体は学知の対象たりえない.それゆえ,より高次の知,すなわち直観だけが残されている (λείπεται).
    • デカルトと異なり,アリストテレスは直観を消極的に素描している.直観は原理の相関項でしかない.原理が可知的である保証はない.
  • 同様に,第一哲学が人間に可能である保証もない.
    • Met. A2 では原理・原因が μάλιστα ἐπιστητά とされる (982b2).ならば知恵は最も容易に得られるはずである.だが実際には χαλεπὰ καὶ μὴ ῥᾴδια ἀνθρώπῳ γιγνώσκειν である (a10).『プロトレプティコス』で πολλῷ ῥάστη とされていたのからも逆転している.
    • この理由も A2 で示唆される: 知恵は最も自由な学知だが,人間本性は多くの点で奴隷的であるがゆえに,知恵は οὐκ ἀνθρωπίνη と思われても当然である (b28-30).
      • 第一哲学は対象のみならず相応しい所有者の点でも神的である.
      • 同様のことは EN X 7 でも言われる: 観照的生は人間の条件を越え出ている.
        • EN の同箇所は人間が自らの条件を超出できるという楽観主義を示すものと考えられてきたが,むしろ反対に,人間である限りの人間は知的直観を欠いているという結論を引き出すこともできる.
          • 他方,直後では観照的生が人間に固有であるとも述べられる.Rodier はここに矛盾を見て取るが,直観は権利上の人間に属するにすぎないという仕方で理解できる.
  • 知恵は権利上容易だが事実上最も困難である.こうした〈認識自体/私たちのもとでの認識〉の懸隔はすでに Parm. 133cd に見られる: 知識が関係であり関係項が必然的に同類的であるなら,知識のイデアは真理自体のみを,私たちのもとでの認識は私たちのもとにある真理のみを対象とする.
    • パルメニデスはここから,神は私たちのもとにある事物を認識できないという逆説的結論を引き出す.アリストテレスは無造作にこの結論を受け入れている (Λ9).
  • それ自体として最も可知的なものが,私たちにとって最も知りがたいのはなぜか.
    • R. の太陽の比喩はこの問いに部分的に応答している: 真理の明瞭性と人間の認識の間に,一時的無能力 (「目のくらみ」) が介在する.
    • Met. α1 も同様の説明を繰り返している: 困難には原因が ἐν τοῖς πράγμασιν なものと ἐν ἡμῖν なものがあり,哲学の困難は後者である.
      • 日光にコウモリの目が眩むのと同様のことが,私たちの直観に生じる.この困難は偶然的・一時的である.
  • ただし,「目が眩んでいる」にしても,プラトンの場合にはイデアは既知である.それに対し,アリストテレスの場合,そうした目の眩みからは原理認識の無際限な延期が帰結する.
    • この帰結は明示されはしないものの,著作集に頻出する τῇ φύσει-πρὸς ἡμᾶς という区別に含意されている.α の ἐν ἡμῖν と πρὸς ἡμᾶς の関係は Kant の Erscheinung-Phänomen2 の関係と類比的である: πρὸς ἡμᾶς な困難はもはや除去すべき障害ではない.むしろ,理想的順序とは逆転した,人間固有の探究の順序を考慮に入れねばならない.
  • そうした問題の生成は Top. VI 4 に見られる.
    • いわく,定義項は被定義項よりよく知られねばならない.(これは先行する認識の要件の具体例である.)
    • そして,端的な意味においてそうである.(『プロトレプティコス』と同様の存在論的-認識論的先行性の一致.)
      • 点は「線の限界」ではなく,普遍の観点から "μονὰς θετός" (Δ6, 類+種差) と定義されねばならない.
    • 明敏な知性は,端的に知られる事柄から出発する必要がある.それゆえ πρὸς ἡμᾶς に知られることと ἁπλῶς に知られることは同一でありうる.
  • 他方でより後期の Met. Z になると,ひとはもっぱら πρὸς ἡμᾶς に知られることから出発して ἁπλῶς に知られることに至る.明敏な知性であれ,大衆と同じ条件を逃れることはできない.
  • Ps.-Alex. は,本性上可知的であることと,神にとって可知的であることを同一視した.ここにも知恵の可能性の条件の問題が再発している.

〔「メタフュシカ」と「第一哲学」の区別再考〕

  • Reiner は「メタフュシカ」という標題を seinem Sinn und Geist nach にアリストテレス的とするが,これは疑わしい.
    • Alex. や Ascl. は認識順序と存在順序を対照するが,両者を逆方向に置く考えはアリストテレスに無条件には帰属できない.τῇ φύσει-ἡμῖν の対照は,存在と認識の対照ではなく,権利上の認識と事実上の認識の対照である.前者の順序は論証的学知の順序である.
    • したがって,第一哲学 = 神学は,存在のみならず認識の順序においても第一であり,πρὸς ἡμᾶς にさえ自然学より後ではない.
  • とはいえ,「メタフュシカ」という標題は,「第一哲学」よりは実際の探究を反映しており,それゆえ全くの誤解ではない.
    • 注釈者たちの誤りは「メタフュシカ」を第一哲学の標題と見なしたことにある.
    • 「第一哲学」の先行性と,「形而上学」の後続性を真剣に受け止め,後者が前者に後続すると理解するなら,これら二つの名前が同一の思弁に当てはまることはありえない.
      • それゆえ,存在論と神学はやはり別の学知である.どう区別されるのかを以降で論じる.

  1. 誤謬推論を行っているように見える.〈第一哲学→自然学〉という順序が何らかの仕方で時系列に依存していることは,第一哲学が自然学に時系列的に先行することを含意しない.

  2. 原語は l'apparence et le phénomène.