περιτροπή の不可謬主義解釈 Fine (2003) Plato on Knowledge and Forms, Ch.8
- Gail Fine (2003) Plato on Knowledge and Forms: Selected Essays. Oxford University Press.
- Ch.8. Plato's Refutation of Protagoras in the Theaetetus. 184-212.
初出 Apeiron 32 (1998) 201-234.
I〔尺度説は不可謬主義だ〕
プラトンはプロタゴラスを相対主義者 (「いかなる信念も端的に真ではなく,それをもつ人にとって (for) 真である」) として描いている,としばしば思われている (e.g., Burnyeat 1976).だが,
- プラトンは修飾句「その人にとって」をしばしば省いている (Vlastos 1956).
- また,古代の解釈者は,「全ての信念が端的に真である」とする不可謬主義的 (infallibilist) 見解をプロタゴラスに帰している (アリストテレス,セクストス).また彼らの論駁はプラトンの論駁に似ている.
以下では,プラトン自身がプロタゴラスを不可謬主義者として描いていると論じる.
II〔不可謬主義の当座のもっともらしさ〕
以下では主に Burnyeat 説を扱う.Burnyeat によれば,プロタゴラス説は真理に関する尺度説である:「p が A にとって真である iff. A は p を信じている」.ここで「A にとって」は消去不可能である.
これに対して,不可謬主義解釈では,プロタゴラス説は:「(i) 全ての信念は端的に真であり,(ii) 信じられていない真理はない」.これは真理とは何かの説明ではなく,言明の真理条件の説明である.「A にとって」はつねに消去可能である.
不可謬主義解釈の利点は,プラトンの修飾句の省略を正当化する点にある.
不可謬主義解釈の欠点として,Buryneat は,PNC に明白に違反するという点を挙げる.だが明白な違反かは定かでない.Tht. 151-60 は流動説でプロタゴラスを支持する: 「風が冷たい」「風が冷たくない」という二つの発話の間で風が変化している,あるいは,そもそも別の風について語っている.
流動説を持ち出している以上,プロタゴラスは PNC を保存したいと思っている.また相対主義は対立する現れの解消に流動説を必要としない.
III〔論駁の第一段階の解釈〕
プロタゴラス論駁は以下の三段階からなる: 170a-c; 170c5-e6; 170e7-171d8.
ソクラテス 各人に思われることは,そう思われている人にとってありもすると,彼は主張しているのではないですか.
テオドロス むろんそう主張しています.
ソクラテス したがって,プロタゴラス,私たちも人間の,いな,全ての人間たちの考えを語ります.そして,次のように主張します−−ある場合には自分自身が他の人より知恵があると考え,別の場合には他の人が自分自身より知恵があると考えるということのない人は誰もいない.そしてこの上ない危険にいるとき,軍務のあいだや,病気をしている間,また海上にいるときに苦難に翻弄されている場合,ちょうど神々に接するように各々の場面で指導する人々に接します.彼らは加えて彼ら自身の救い主であると思いなされるのですが,彼らが異なるのは知っているという点をおいて他にないのです.そしておそらく,なべて人の世は,自分たち自身や他の動物や仕事についての教師と指導者を求める人々と,他方では教えるのに十分であったり,指導するのに十分であると思っている人々とに満ちているのです.そしてこれらすべての場合に,これらの人々自身が,彼らの世界のもとに,知恵と無知があると考えているのだというほか,私たちは何と主張するでしょうか.
テオドロス そうとしか言いません.
ソクラテス では彼らは,知恵とは真なる思考であると考え,他方で無知は偽なる思いだと考えるのではないですか.
テオドロス もちろん.
ソクラテス では,プロタゴラス,この論を私たちはどう扱いましょう.人間たちが思いなすことはつねに正しいと私たちは言いましょうか,それともあるときは真であり別のときは偽であると言いましょうか.それというのも,おそらくどちらからも,彼らはつねに真なることを考えているのではなく,むしろ〔真・偽の〕両方であるということが帰結するのです.というのも,テオドロス,プロタゴラスの一派の誰かにせよ,あなた自身にせよ,「他の誰も,他人を,無知である,つまり偽なることを思いなしていると考えていない」と,あえて主張しようと思うでしょうか.
論証I:
- (P): ものはある人に現れるとおりに,その人にある.
- 各人は,自分がある観点で他人より知恵があり,別の観点では他人の方が自分より知恵があると信じている.その際,知恵は真なる信念をもつことを伴い,無知は偽なる信念をもつことを伴う.
- (a) 全ての信念が真であるか,(b) ある信念が偽であるか,のいずれかである.
- (3a) ならば,(2) の信念は真であり,それゆえ偽なる信念がある.
- (3b) ならば,偽なる信念がある.
- それゆえ,全ての信念が真であるにせよ,そうでないにせよ,偽なる信念がある.
- それゆえ偽なる信念がある.
- ゆえに (P) でない.
2 は複雑である.知恵と無知の分析,人間のあいだの比較の主張 (A は B より知恵があると信じている),およびそれに対応する定言的主張 (A は何ごとかについて知恵がある/無知であると信じている),の三点を含む.ここには「偽なる信念がある」という主張は含まれていない.
「偽なる信念がある」という主張が含まれていない理由は,含まれていたら相対主義・不可謬主義のどちらに対しても論点先取となってしまうからだ.もちろんどちらも,ひとが「偽なる信念がある」と信じることとも整合しない.だがそれは「各人」からプロタゴラス (主義者) を除くことで対応できる:
- (2') ある人々は,自分がある観点で他人より知恵があり,別の観点では他人の方が自分より知恵があると信じている.その際,知恵は真なる信念をもつことを伴い,無知は偽なる信念をもつことを伴う.
しかし (2') は相対主義解釈に不利である.McDowell, 171 は (2') が相対主義に受け入れられる理由として,相対主義が「人々が判断の真理のみならず判断の対象についても権威をもつ」という考えを前提していると論じる.つまり (i) 信念の内容に関する事実があり,(ii) 各人はその内容について権威がある.だが,(i) はグローバルな相対主義にとっては受け入れがたい.他方で絶対的真理を受け入れる不可謬主義には問題がない.
(3) も修飾句がないので相対主義解釈に不利である.だが,(3) に修飾句をつけてしまうと,それを前提する以降の論証が相対主義の論駁にならない.不可謬主義論駁としては,この前提も,後の議論も,うまく読める.
IV〔論駁の第二段階の解釈〕
続いて論証Iの明確化がなされる.
ソクラテス というのも,テオドロス,プロタゴラスの一派の誰かにせよ,あなた自身にせよ,「他の誰も,他人を,無知である,つまり偽なることを思いなしていると考えていない」と,あえて主張しようと思うでしょうか.
テオドロス いや,そうは信じられません,ソクラテス.
ソクラテス しかし実際,万物の尺度は人間であると述べる言論は,まさにこのことへ至る必然性を有しています.
ひとが「他人が偽なる信念をもっている」という信念を持っている,ということは (P) と両立しない.
ソクラテス あなたが何かを自分のなかで判断し,何かについての考えを私に対して明らかにするとき,あなたにとってそれはプロタゴラスの論に基づいて真であるとしましょう.その一方で,他人である私たちは,あなたの判断について判断者となることができないのでしょうか,それとも私たちはいつでも,あなたが真なることを考えていると判断するのでしょうか.それとも無数の人々がそのつど,あなたが虚偽を判断しておりまた考えていると考え,反対の考えを抱いて,あなたに敵対するでしょうか.
テオドロス ゼウスに誓って,ソクラテス,ホメロスが言うには,確かに実に無数にいて,まさしくその人々が渡る世間の苦難を私にもたらすのです.
ソクラテス ではどうでしょう.「そのときあなたは,あなた自身にとっては真なること,無数の人々にとっては偽なることを思いなしているのだ」と,私たちが言うのをお望みですか.
テオドロス 論からすれば,それが必然だと思われます.
議論は次のように進んでいる.
移行部: 1. A は p と信じている. 2. (P). 3. それゆえ p は A にとって真である. 4. 無数の多くの人が,A の p だという信念が偽だと信じている. 5. それゆえ p は無数の多くの人にとって偽である. 6. それゆえ p は A にとって真だが無数の多くの人にとって偽である.
プロタゴラスは 4 を認めるが 6 は受け入れたくない.しかし 4 を認めるなら 6 も認めないといけない.
プロタゴラスが相対主義者なら,議論の眼目がわからない.プロタゴラスは 6 を斥けているとプラトンは示唆しているからだ1.一方で,不可謬主義解釈なら,6 は当然プロタゴラスにとって問題含みになる.
なるほど一方で,この箇所の修飾句の付け方は相対主義解釈にぴったりはまっているように見える.しかし,修飾句は単なる p is true in A's view という「判断する人」の与格として理解できる.そう理解すれば,修飾句は絶対的真理の存在を妨げない.
Fine 解釈では,ここで修飾句が強調されているのは,信念が真正に衝突する事例の存在の強調にある.
しかし,〈人々が信念が衝突すると信じている〉から〈信念が衝突している〉への移行はプロタゴラスのヘラクレイトス的戦略を不当に無視していないか,という疑問はありうる.そうかもしれないが,しかし少なくとも論証Iの論理的帰結ではある.加えて,Tht. 第一部でヘラクレイトス的戦略は一階の知覚的信念にしか適用されていない (cf. Tht 179c).知覚の領域への制限の考えうる理由として,ひとつにはプロタゴラスが教師たるためにはコミュニケーション可能性が確保されていないといけない.また感覚領域外で相対主義を維持するのはそもそも難しい (2+2=4 を考えよ).
V〔論駁の第三段階前半部の解釈〕
ソクラテス プロタゴラス自身にとってはどうでしょう.彼自身が「人間は尺度である」と考えていなかったのであり,多くの人々もそう考えていないなら−−多くの人々は実際そう考えていないのですが−−彼が著したこの「真理」は全くありはしないということが必然ではないでしょうか.その一方で,彼自身がそう思っているものの,衆人が一緒にそう考えていないなら,第一に,そう思う人々よりそう思わない人々の方がより多いというだけ,あるよりむしろいっそうありはしないのだということが,あなたに分かるのです.
テオドロス そうであることが必然です,考えの各々に即してありまたありはしないのである以上は.
ソクラテス 次いで次のことがもっとも精妙な論点です.彼の人は,自分自身の意見についての,反対のことを思いなす人々の考えが−−それによって彼の人は虚偽を考えていると彼らは考えるのですが−−おそらく真であることを認めるでしょう,誰もがあることどもを思いなしているのだと同意しているのですから.
テオドロス まさしく.
ソクラテス さて,彼自身の考えが虚偽であると認めているのではないでしょうか,彼が虚偽を考えていると考えている人々の考えが真であるということに同意しているのなら.
テオドロス そうであることが必然です.
ソクラテス 他の人々は彼ら自身が虚偽を考えていると認めないのではないですか.
テオドロス 認めませんとも.
ソクラテス 一方で彼は,彼が書いたことどもから,この考えが真であることも同意しています.
テオドロス そう思われます.
ソクラテス したがって,プロタゴラスに始まるあらゆる人々から争われるでしょう−−むしろ彼によって同意されるでしょう,反対のことどもを述べる人に対して彼が真なることを思いなしていると認めるときには.そのときプロタゴラス自身も,犬であれ,通りすがりの人間であれ,学んでいないようなことについての尺度になりはしないということに同意するでしょう.そうではないですか.
テオドロス そうです.
ソクラテス したがって,万人に争われるのだから,プロタゴラスの「真理」は真ではありえないのです.誰か他人にとっても,彼にとっても.
論証II: 1. 誰も (P) を信じないなら,(P) は誰にとっても真ではない. 2. プロタゴラスが (P) を信じている; 他の誰もこの見解を共有していない. 3. (P). 4. それゆえ,(P) が真か真でないかは個々人の信念に依存する. 5. それゆえ,(P) が真でないということが,(P) が真であるということよりいっそうある. 6. プロタゴラスは全ての信念が真だと信じている. 7. プロタゴラス以外の誰もが,「(P) が真である」というプロタゴラスの信念が偽だと信じている. 8. それゆえ,プロタゴラスは「「(P) が真である」というプロタゴラスの信念が偽だ」という他の人々の信念が真だと信じている. 9. それゆえプロタゴラスは,「(P) が真である」という自身の信念が偽だと信じている. 10. 他の人々は「「(P) が真である」というプロタゴラスの信念が偽だ」という自分たちの信念が偽だとは認めない. 11. プロタゴラスは「「(P) が真である」というプロタゴラスの信念が偽だ」という他の人々の信念が真だと認める. 12. それゆえ (プロタゴラスが (P) を信じていようといまいと)「「(P) が真である」というプロタゴラスの信念が偽だ」という他の人々の信念は真である. 13. それゆえ (P) は誰にとっても真ではない.
2-5 は移行部の例をなす.ここで修飾句が省かれている理由は相対主義解釈では説明できない.不可謬主義だと素直に読め,反転論証のもう一つの事例をなす.また論証Iとも並行的になる.
VI〔第三段階後半部の解釈〕
では「最も精妙な」議論はどうか.この箇所も相対主義に即して修飾句をつけると論駁にならない (8→9 の移行で躓く).不可謬主義解釈なら妥当な推論になる.この箇所では個人間の対立する現れが個人のなかでの対立する現れに導かれている.
VII〔第三段階後半部が特に優れている理由〕
最も精妙である理由は,第一に個人内の対立に帰着されている点,第二に (P) と,プロタゴラスが (P) だと信じているという主張の両方の反転論証になっている点にある.
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もちろん,この批判が有効なのは,移行部が独立の論証になっていると理解するときに限られる.↩