真理の還元的分析としてのプロタゴラス説 Chappell (2006) "Reading the περιτροπή"
- T. D. J. Chappell (2006) "Reading the περιτροπή: Theaetetus 170c-171c" Phronesis 51(2), 109-139.
プロタゴラス説が通常の解釈で「Truth simpliciter なるものはなく truth for A があるだけだ」と理解されるところ,そうではなく「Truth simpliciter は truth for A に還元的に分析できる」と理解すべきだ,という趣旨の論文.
1. セクストスと περιτροπή
セクストスはプラトンの議論を以下のように理解した (M 8.389-90):
- 私が「全ての信念は真だ」と信じ,かつ「「全ての信念が真であるわけではない」という信念がある」と認めるとする.このとき当の信念も真になり,引用解除によって全ての信念が真ではなくなる.ゆえに私は私自身に矛盾することで自己論駁している.
だが,(1) この議論が Tht. のプロタゴラスを論駁しているという考え,および (2) この議論をプラトンに帰属できるという考えには,多くの学者が反対している.
(1) プロタゴラスの論駁になっていない理由としてよく主張されるのは,それが論点のすり替え (ignoratio elenchi) になっているという点である (Chappell 1995; Chappell 2005; cf. Bostock 1988, Burnyeat 1976b, McDowell 1973): プロタゴラスは「全ての現れは真である」などとは言っておらず,「全ての現れはそれが現れている人にとって真である」と言っているにすぎない.
2. περιτροπή の相対性解釈
(2) セクストスの議論と Tht. 170c-171c の議論が同じものか,については,それほど意見が一致しない.一方で,Bostock や Mcdowell らは同じだと考える (相対性解釈 relativity reading).この場合プラトンはプロタゴラスの自己論駁を示せていない.とはいえしばしば,プロタゴラスは語用論的に自己破壊的 (pragmatically self-undermining) だと付記される (通常の主張と異なり他の人に信じさせる力を持たない).
他方には Burnyeat, Denyer, Sedley らの別解釈がある (多世界解釈 many-worlds interpretation).こちらのグループは相対性解釈に疑義を呈する.すなわち,プラトンの眼目がプロタゴラスの自滅性にあるなら (cf .Crat. 386c, Euthyd. 287a-b),それを自己矛盾と混同しなかっただろう.また自滅性が眼目なら Tht. 161d の論点の繰り返しになってしまう.相対性解釈では,相対主義の取り扱いに当然必要な慎重さがプラトンに欠けていたことになる.修飾句が欠けていることこそ 160e-168c が誤謬推論として斥けられている理由であり,また 152c-160e は相対性を出発点として認識論・流動の形而上学を組み立てている.
3. περιτροπή の多世界解釈
相対性解釈がうまくいかないなら,Burnyeat らの多世界解釈はどうか.Burnyeat 1976b の新規性は,プロタゴラスのスローガンが「主体の思考世界」についての教説として理解されるべきだとしたことにある.プロタゴラス説が私にとって真でないとは,私の世界で真ではないということだ.そして,プロタゴラス説はすべての世界で真であることを企図するものなので,真ではない.Denyer, Sedley も同様に論じる.
この解釈は洗練されているが問題もある: Bostock が言うように,実際にはプロタゴラスは真理を相対的観念として用いていないのである.より詳しく言えば,多世界解釈は諸々の私的世界のうちでの相対性を認めるが,私的世界については相対主義的主張は成り立ちえない.諸私的世界についての真理はどの世界で成り立つのか,と問うことができ,答えは「私的世界」でも「端的な世界」でもありえないのである.したがって,「プロタゴラスは相対性についての自分の客観的思考をどこで持ちうるのか」という問いに,多世界解釈派は答えられないのだ.
また「なぜ修飾句を繰り返せないのか」という問題もある.Burnyeat は判断との結びつきから説明するが,問題もある.まず些末な点として,無限の繰り返しの結果「結論される命題のほとんどを把握できない」点を論拠とするなら,端的な真理もそうである.Denyer や Sedley は「そもそも一度も繰り返せない」と論じており,こちらの方が擁護しやすい.
だが本質的な問題として,Burnyeat の議論は論点先取である.Burnyeat が主張する原理は相対主義を認める仕方で様々に迂回できる (cf. Wright 1993).Burnyeat の議論は真理の実在論以外のまともな代案はないと再度主張しているにすぎない.しかし実在論こそプロタゴラスが最初に否定した立場なのだ.
要するに争点はこうである.多世界解釈は「プロタゴラスは修飾句を繰り返すべきでない.繰り返すと真正な主張ができなくなるから」と言う.相対論は「プロタゴラスは現に修飾句を繰り返しており,ゆえに真正な主張ができていない」と言う.不毛な膠着状態であり,第三の道を探す必要がある.
もう一つ論点を付け加えると,Sedley は繰り返すべきでない理由を説明して,「繰り返すとある人の世界を他の人の世界の中に入れることになる」と述べる.「X にとって (Y にとって p は真)」かつ「Y にとって (X にとって p は真)」とすると,X の世界は Y の世界の一部になり,Y の世界は X の世界の一部になるが,これは不条理 (二つのものが互いの真部分になってしまうから).これは一番うまい擁護論だが,やはり失敗している.相対化に必要なのは X の世界のある部分を Y の世界に入れることだけだからだ.
さらに,相対化が一回しかできないとすると,二階の信念も不可能になってしまう.といって,Burnyeat がこの問題に Denyer や Sedley よりうまく対処できるわけではない.三階や四階の信念は不可能だと言うことが,全ての高階の信念は不可能だと言うより問題含みでないわけではないからだ1.
4. περιτροπή の第三の解釈
Burnyeat が言うように,περιτροπή 理解の鍵は流動説理解にある.流動説と尺度説の関係は密接であり,両者は同じ基本的発想を,各々,実体と真理に適用している.
冷たい風の事例 (152b) について,3つの応答可能性がある:
- 矛盾が生じるというのは見かけ上のことにすぎない.同じ風についての判断であり,一方だけが正しい.
- 矛盾が生じるというのは見かけ上のことにすぎない.同じ風についての判断でない.
- 矛盾は真正のものであり,どちらも正しく,矛盾が可能である.
ほとんど全解釈者が同意するように,c はプラトンにとって魅力的でない.「ありかつありはしない」という判断を認める場合,むしろ引き出される帰結は,当の領域で真理が可能でないというものだ.感覚と知識という二つの領域が区別される.知られる通り,プラトンは彼の哲学の擁護論全体を真なる矛盾の不可能性に基づけている (R. 479a-d).そしてそれは実はプロタゴラスもそうである (cf. Fine 2003: 189): vid. 152b2-8. ここでは (a) と (b) が提示され (c) は出てこない.
真なる矛盾のありえなさをプロタゴラスとプラトンの両者が認めていることは二つの点で重要である.第一に Tht. の戦略の理解に必須である.その戦略とは,プロタゴラスをなるべく (b) から (c) に駆り立てることである.また第二に,多くの才能ある解釈者が,プロタゴラスが真なる矛盾を認めていると考えてきた.例: Cornford 1935: 33-4; Kerferd 1947; Waterlow 1977. また Priest はおそらく Waterlow の影響下で「アリストテレスはヘラクレイトス,プロタゴラスやその他のプレソクラティクスを瑣末主義者として扱った」と述べる.だがそんなことはない (e.g., 1005b25).Waterlow は「プロタゴラスの追随者が LNC を否定した」と述べるが,これも疑わしい.せいぜいプロタゴラスの立場が「矛盾の主張に追いやられる」と述べているだけである.つまりアリストテレスは Tht. と同じ戦略を用いているということだ.
περιτροπή と流動説のつながりに話を戻すと,プロタゴラスは,常識的には実体と呼ばれるものが「対する現れ」(appearances-to) であるという分析を行った.そこから安定した客観的な事物がないという結論になる (160b4-c2).これは「実体として誰もが語るものが「対する現れ」でしかありえない」という還元的分析である.
だとすると,プロタゴラスはまた真理を「にとっての真理」に還元する分析を与えていると理解すべきなのだろうか.私はそうだと思う.すでに 152a2-10 の議論からして,「対する現れ」(ないし「にとっての真理」) が真理の尺度だという議論として理解できる.この論点は 170a2-4 で強調される.
もちろん「還元的分析」にあたる語をプラトンは持っていない.だがその概念は持っている.例えば R. I の議論は「正義」の諸々の還元的分析に対する批判として理解できる.同様に: Eutyph.; Tht. 151e3.
プロタゴラスが真理を「対する現れ」/「にとっての真理」へと還元的に分析するとき,それが成功しているなら,真理と「にとっての真理」の同一性が確立できているはずである.ここでジレンマが生じる.確立できていなければ分析は失敗である.確立できていれば,一方が言えるとき,他方が言えなければならない.だから,プロタゴラス自身が確立できていると主張するなら,相対性解釈における致命的な同一視を,プロタゴラス自身が犯していることになる.
この致命的な同一視に,プロタゴラスは修飾句の付加によって対応するわけにはいかない.そうすると「真理」と「にとっての真理」が異なる属性を持つ (したがって分析は失敗している) と認めてしまうことになるからだ.
加えてこの解釈が正しければ,「論敵にとって真」から「端的に真」を通って「プロタゴラスにとって真」へと移行できるので,περιτροπή の議論にプロタゴラスは反対できない.そしてそれゆえ (b) プロタゴラス説から (c) 自己矛盾が帰結する.
結論として,修飾句の使い方の甘さ (permissiveness) はプラトンの議論の問題ではなく,プロタゴラスの問題である.そしてプラトンはその甘さをプロタゴラス批判に用いているのだ.
次に,この解釈に対する異論を二つ考察する.
5. 二つの異論
第一の異論として,上述のジレンマはムーアの疑わしい「分析のパラドクス」にあまりに似ている: 被分析項と分析項の同一性を分析の成功要件とするのは強すぎる.類例として,心の哲学には,「民間心理学の概念を科学の概念に置き換えるとき,前者の概念はもはや必要ない」という論点がある (Rorty; Churchland).このとき科学的概念は近似に過ぎない.
しかしプロタゴラスが行ったのはこうしたことではない.彼は真理の本性について何ごとかを言おうとしたのであって,真理概念をなくしてしまおうとしたのではない.なるほど実体の場合はこれと同様でなく,むしろ消去主義的である (Tht. 160b-c).彼が支持しているのは真理に関する同一性理論 + 実体に関する消去主義である (非対称なのはおそらく,真理に関する消去主義が,実体に関する消去主義よりなお困難であることによる)2.
また彼が仮に真理に関する消去主義者だったとしても,なお「なぜそのような置き換えが必要なのか」と問われうる.ありうる論拠の一つは流動説だろう.この場合でもやはり περιτροπή には一定の効力がある.これは相対性解釈にほかならない.
第二の異論は,なぜプロタゴラスを矛盾に導くことに意味があるのか (Waterlow) というものだ.ここまで述べたのは,「プラトンもプロタゴラスも矛盾はだめだと考えている」ということだけだった.だが,157c-160e の「夢見る人に関する異論」(the Dreamer objection) を考えてみよう.これに対するプロタゴラスの批判は,「私たちが夢見る」というのは間違いで,異なる経験をする人は別々に個別化される,というものだった (159b8).また 166b4-7 (目を覆う場合に関する異論) の議論を比較せよ (人は同じことを知っておりかつ知らない.人に関する慣習的な同定方式は誤っているから.それゆえ慣習的に同一人物と言われるものによる矛盾する知覚は可能である).より一般に,Waterlow によれば,プロタゴラスはヘラクレイトス主義者なのだから,矛盾する信念を持ち得ない.
Waterlow 解釈は 151-160 と整合している.実際よく見れば Waterlow 解釈は結局のところプロタゴラスが矛盾を斥けているということを含意している.それゆえ Waterlow が正しいなら,περιτροπή は自己矛盾に陥らせる議論をできていない.自己分割によって論駁を免れうるからだ.Waterlow によれば περιτροπή の眼目を自滅性を示すことにあるとするが,むしろ自己矛盾か自己分割かのジレンマに追い込んでいるとみることもできる.自己分割の議論はたしかにアリストテレスが言うように "τοῦ λόγου ... τοῦ ἀκράτου καὶ κωλύοντός τι τῇ διανοίᾳ ὁρίσαι" 〔Γ4, 1009a3〕である4.
自己分割によってプロタゴラス自身非常に捉えがたくなる."ἄγαν, ὦ Σώκρατες, τὸν ἑταῖρόν μου καταθέομεν" (171c7) とテオドロスが言うのは理由のないことではない."ἁλισκόμενος" (179b4) という形容も同様.それゆえ自己分割する人は "dialectical nothing" (Waterlow) になる.これはヘラクレイトス的な不安定性である.Mackie 1964 の区別に基づくなら,プロタゴラス批判は,絶対的自己論駁ではなく操作的自己論駁となる.
というわけで,περιτροπή がプロタゴラスに提示するジレンマはうまくいっており,自己矛盾に陥らせるというプラトンの目的は (完全ではないが) ほとんど達成されているといえる.
プラトンの περιτροπή から取り出すべき最後の眼目は,信念の理由の基本形式に関わる: p を信じる基本的な理由は,p が私にとって真であるということではありえず,むしろ p が端的に真であるということでなければならない.この眼目は未来に関する議論で確証される (177b-179b).
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この節の批判は−−とくにこの辺りの議論は−−あまり公平でないように思う.↩
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この点を踏まえてなお “Burnyeat’s fruitful suggestion that a good reading of the περιτροπή will also be a good reading of the theory of flux” (p.125) の敷衍になっていると言えるだろうか.知覚理論と流動説論駁に関する Chappell 2005 の議論を併せて参照する必要がありそう.↩
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“it would equally be a kind of moral indiscipline to use self-division, if we could, to evade character-defining moral choices [see Chappell (2003)].” (p.136)↩