構造をプリミティヴに取るべき理由 Sider (2011) Writing the Book of the World, Ch.2

  • Theodore Sider (2011) Writing the Book of the World. Oxford: Oxford University Press.
    • Chap.2. Primitivism. 9-20.

「構造」はふるまいや他の概念との関係や要求される語り方等々から特徴づけられる.だが,定義はできない.7.13 では構造が完璧に基礎的だと論じる.

2.1 理解

こうしたプリミティヴィズムを哲学者は警戒する.「いったい「構造」って何なのか」と著者は何度も訊かれてきた.

だが,哲学的概念が還元的に定義されることは稀であり,哲学的概念の理解 (understanding) が定義に依拠することは一層稀である.

哲学的概念の理解は何に存するのか.知覚に基づく場合もあろうが,一般にはむしろ私たちの思考において果たす役割の理解に存する.

哲学的概念は,不明瞭な場合もある.だが「構造」は相対的に明瞭な役割を持っている.そしてそれ以上は必要ではない.哲学は,既存の概念のみならず新たな概念をも理論構築に用いることを通じて,当の新たな概念を構築するのだ.

もっとも意味と指示に関わるのは推論的役割だけだと言うつもりはない.構造概念の推論的役割をきちんと指定しても,それが空虚なことはありうる.そうではないことを祈る.

2.2 プリミティヴィズムの擁護

かつ,本書の議論全体がそうでないことの論証になっている.構造は措定 (posit) であり,この措定は私たちの諸理論を改善できることから正当化される.

措定が最も正当化されるのは,それがものごとを統一する (unifying) ときである.例えばニュートン力学には2つの統一化する特徴がある.第一に同一の「質量」概念が  ma=F と [tex: F=G{Mm/r2}] に含まれている (アイデオロジーの統一).第二に惑星軌道が基本法則から導出される (原理の統一).前者の統一は後者の統一とともに追求されてきた.

この点を形而上学も見習うべきだ.構造概念の諸々の「応用」が,それぞれに構造概念が適用されるという以上のつながりをもたないとすれば,構造の措定は正当化されないだろう.だが,実際には諸応用は互いに結びついている.

2.3 認識論

「いったい「構造」って何なのか」には「どうやって私たちは構造について知るのか」と続く.構造をより身近な語で定義できなければ,構造に関する事実は認識的にアクセス不可能になるのではないか.またそうだとすると,構造についての語りは推論的に孤立し,そうした語りの理解も脅かされるのではないか.

だが,プリミティヴィズムがそうした強烈な認識的帰結を持つと考えるべき理由はない.ここにあるのはありふれた弁証法だ.「実在論者」はある領域の事実の削減に反対し,その結果,事実が不可知になるという批判を受ける.これに対して実在論者は,論敵が代案として示す主観的・還元的事実が,彼女が増やした事実 (upsized facts) への可謬的な導きとなるのだと応じる.

多くの哲学者はバークリ的観念論・現象主義・外界への懐疑等々に対しては同様の実在論的立場を取るが,話が形而上学的になるとそうでなくなる.理由は簡単で,(可謬的だが) 合理的な信念のモデルの多くは,形而上学的信念には素直に当てはまらないからだ.例えば私たちは形而上学的事実には日常的事実と同じ仕方では因果的接点を持たない.だがそれを言えば論理学・数学・素粒子論的事実だってそうだ.だから,モデルを洗練すれば,形而上学的信念も認められるかもしれない.

確かにどういう認識論を取るべきかはごく不明瞭だ.著者は「形而上学は科学と連続的だ」という大雑把な (大雑把にクワイン的な) 考えを支持する.形而上学の外側で用いられるのと同じ基準が形而上学の理論選択にも使える.なるほど形而上学の場合同じ基準がはっきりした指示を与えてくれるとは限らない.だが,それは形而上学自体が思弁的で不確かだからなのだ.

こうしたクワイン的考えは,特に構造に関するある認識論を示唆する.クワインは「最善の理論の存在論を信ぜよ」と述べる.そして,ことに構造を信じる人は,良い理論は単に真であるだけでなく,そのアイデオロジーが関節を切り分けているはずだ,と考える.したがって,「最善の理論のアイデオロジーが関節を切り分けているものと見なせ」と付言できる.成功した理論の概念的決定が実在の構造に対応すると考えうるのだ.

「アイデオロジー」(Quine 1951a; 1953) という名前は良くない.私たちの考えイデアに関することではないからだ.クワインは,「私たちは証拠を説明する最良の理論を探索」と考えた.私は,「その探索は見解に関わる (doctrinal) だけでなくアイデオロジーにも関わる (ideological)」と付け加える.私たちはアイデオロジー I と それによる理論 T_I の最良かつ最も説明力のある対 \langle I, T_I \rangle を解くのだ.多くの科学の進歩が新たなアイデオロジー (e.g., ミンコフスキー時空) の導入に基づく.(時には \langle I, T_I \rangle が証拠から決まりうるのかどうかわからない場合もある.cf. 10.2.)

このクワイン的な考えは,何が根本的かについての信念と,その変化とを合理的なものとして説明する.

存在論についてのクワイン的な考えは,「最良の理論に不可欠な存在者を信ぜよ」という仕方で述べられることもある.これと同様に,「最良の理論に不可欠なアイデオロジーを関節を切り分けるものと見なせ」と言える.不可欠性 (indespensability) は「理論的美徳を損なわずに放棄できない」という意味に理解できる.〔存在論の例:〕数学的プラトニズムはどんな唯名論的代案によっても論駁されうるわけではなく,代案には同等の単純さと説明力が要求される.〔アイデオロジーの例:〕同様に,質量に変わって「質量もどき」(schmass) を導入し,「負の電荷を持つときその質量,そうでない場合質量の二倍」と定義するなら,これは元の理論の統語論的単純さを損なうだろう.

存在論とアイデオロジーの間にはトレードオフ関係がある.アイデオロジーが心理化されてしまうと,このトレードオフ関係は比較しようがなくなる.だが上記のアプローチによれば,両者はどちらも世界の複雑さに関わるのだ.

「最良の理論の存在論とアイデオロジーを信ぜよ」はいくつかの点で図式的だ.特に,特殊諸科学は必ずしも「最良の」理論に入らない.特殊科学に関する事実はより基礎的な事実「のおかげで」(in virtue of) 成り立つからだ (ch.7).

以上で構造の認識論は一応手に入った.

2.4 還元への反対

構造が還元可能なら,プリミティヴィズムは不要だっただろう.以下では若干の還元的アプローチを手短に批判する.

還元を斥けるやり方は二通りありうる: 外延的なものと体系的なもの.(1) 還元によって「構造」の尤もらしい外延を生み出せない,(2) 構造そのもののほうが還元先の概念より基礎的である.

例えば,構造的属性・関係を自然法則に還元しようとすると,構造概念と同じくらい関節で切り分けている論理的・集学的概念は同様に還元できないという問題が生じる (外延による異論).また,法則といった様相的概念の説明力は疑わしい,という問題もある (体系的異論).また,これと似た外延的・体系的理由から,因果概念から構造を定義するのもうまく行かない.近年の研究を一瞥すれば,因果概念がいかに恣意的・バロック的概念かがわかる.

付随性 (supervenience) から構造を定義するのはどうか.すべての属性・関係がそれに (大域的に) 付随する属性・関係の集合を完全 (complete) と呼ぼう.そして完全な部分集合を含まない集合を最小限に完全 (minimally complete) と呼ぼう.「構造的属性・関係とは最小限に完全ななもののことだ」というのがここでの批判対象である.

ここでも体系的異論が当てはまるが,他にも外延的異論がある (cf. Sider 1996b).まず構造的属性・関係が完全かどうかは不明である (サイダーと同一であるという属性は付随しなさそう).第二に,構造は少なくとも最小限に完全ではないかもしれない (「より早い」と「より遅い」の両方が構造的関係でありうる).第三に,構造的属性・関係の集合だけが最小限に完全だとは言えない (「質量もどき」などを含むグルー化されたヴァージョンも最小限に完全にはなる).

ただし,第三の議論には以下のような応答が可能である: 構造的属性・関係を,「最良のルイス的法則を可能にする」最小限に完全な集合として取り出せるのではないか.ルイスは自然性概念を用いて還元主義的「ヒューム的」理論をk剤そうした.彼は法則を「最良の体系」における一般化として定義する.最良の体系というのは,諸述語が,自然的属性・関係を表す言語で表せ,強さと単純さの美徳の釣り合った,演繹的体系である.強さは含意される情報の多さで,単純さは可能な公理化の単純さで決まる.さて,ルイスは自然性をプリミティヴ (に近いもの) として取る.だが,構造的属性・関係を演繹的体系と付随性の良さをもとに還元的に定義するという考えもありうる.演繹的体系がある属性・関係の集合に基づく (based on) iff. 体系内の各プリミティヴな述語がそれらを表す.集合 S_1S_2 よりよい法則を可能にする iff. S_1 に基づく体系が S_2 に基づく体系より強さと単純さをよく釣り合わせている.この意味で最良の集合のメンバーを構造的属性・関係として定義できるのではないか.

この応答は考察に値する.だが,これが正しくても,他の二つの異論は残る.

非基礎的なものとしての法則・原因・必然性に還元するのはどうか.それなら体系的異論は回避されよう.だが,それらの概念が構造に還元されるとすると循環する.そしておそらく循環は避けるべきである.

2.5 主観性への反対

構造が私たち (人間言語,生物学的なあり方,歴史,心理) に結びついているとすれば,やはり構造は不要になる.これは還元,あるいは表出主義・非認知主義と見なせる.

個人的見解として,これは信じがたい.また,構造が主観的である場合,構造が適用される事柄 (類似性,内在性,自然法則 etc.) もそうだということになり,そのことも信じがたい.

本書では一種の「条件反射的実在論」(knee-jerk realism) を前提する.この前提を共有しない人は説得しようがないように思える.

2.6 物理的な事柄のもつ特権

もう一つ,条件反射的実在論からプリミティヴィズムを擁護する.Γを完全な物理学の言語の真な文の集合とし,各文が意図された解釈のもとで表す命題の集合を P とする.そして Γ の非論理記号を対象全体の恣意的並べ替え \mu のもとでうまく再解釈した命題の集合を S とする.このとき S のメンバーは全て真になる (3.2).

条件反射的実在論は P が S より客観的によいことを示す必要がある.物理的概念が間接で切り分けているというのが,その自然な説明になる.