「隠喩的意味」は存在しない デイヴィドソン (1991)「隠喩の意味するもの」

原論文 1978 年,原書は 1984 年刊行.


  • 本論文の主張: 隠喩には字義通りの意義・意味以外の意義・意味はない.
    • これは一般的な見解ではない; 様々な立場がこれと反対の見解を共有している.
      • 反対の立場のなかには,隠喩からの言い換えが可能だとする立場も,そうでない立場もある.また隠喩が特殊な意味を伝えるという立場もある.
  • 一方で本論文は,隠喩に認知的内容を認めない人々が採ってきた,「隠喩が混乱した・情緒的な・真剣な議論に適さないものだ」という立場は採らない; 隠喩は正統的な技巧である.
    • むしろ,隠喩には認知的内容を認める人々が考える以上の効果がある.
  • 本論文の主張: 語の意味と,語が何をするために使用されるかとは異なる.隠喩はもっぱら後者の領域に属し,語の通常の意味にのみ依存する.
  • 隠喩の効果を説明する際,「隠喩的意味」には説明力がない.一方,特定の使用脈絡とは独立に語の意味・文の真理条件は割り当てられるので,字義通りの意味には説明力がある.
  • 以下ではいくつかの対案を斥けた上で積極的な主張を論じる.

  • 説明1: 隠喩は相似性 (likeness) に注意を向けさせる.例えば「トルストイは偉大な徳高き幼児だ」という隠喩を解釈するときには,幼児全体と大人のトルストイが共通に持つ性質を探すことになる.そしてこの目標は,隠喩としての「幼児」の意味と正確に同じ意味の言葉を見つけたとき,完全に達成される.−−このようにして,隠喩的意味という概念が隠喩の分析に入り込むことになる.

    • 問題点: この説明は,隠喩と,新たな語句を導入することとの違いを無視している (隠喩の導入が意味の拡張に他ならないことになり,トルストイが字義通りに幼児であったことになってしまう).
  • 説明2: 隠喩の文脈では言葉は新たな意味と本来の意味のどちらかを持ち,隠喩の力は私たちが両者のどちらなのかをためらうところに存する.
    • 問題点: そもそも言葉の多義性は文脈によって生じる〔ため,文脈が決まれば意味も決まるはずだ〕.また,ためらいなしに隠喩だと分かる場合もある.
  • 修正案: 二つの意味がともに使用される場合がある.例: ネストルの "Our general doth salute you with a kiss" という台詞 (総大将 / 一般大衆).
    • だが,これ自体は地口であって隠喩ではない.
  • 説明3: 隠喩のキーワードは字義通りの意味と隠喩的意味を持つ.前者は潜在的にのみ意識され,後者は直接私たちに作用する.そして隠喩の場合には二つの意味を結びつける規則があり,かつその規則によれば,典型的には隠喩的意味は字義通りの意味より適用範囲が広い.
    • 類比: フレーゲは様相や命題的態度の文脈における指示を,通常の文脈における意味〔Sinn〕と同一視した.
    • 問題点: 言語の学習者にとって,言葉が隠喩的に用いられているか,未知の字義通りの意味で用いられているのかが区別できない.
      • 例: 地球で土星人に「床」という言葉を教えていた人が,今度は同じ人に土星で地球を指して「床」と言ったとする.これが反復練習の一環なのか,それとも比喩的用法なのか,は異なるはずである.
        • 反復練習の場合,私たちの注意は言語に向けられる.一方で,隠喩の場合は言語が関わるものに向けられる.
      • 別の例: 生きた隠喩と死んだ隠喩.
        • 生きた隠喩の隠喩的意味を,それが「死んだ」ときに特定できるとは言えない; 'He was burned up' の往時の比喩的意味は「すごく怒った」というもの以上であったはずだ.
  • 説明4: 隠喩の比喩的意味とは,直喩の字義通りの意味である.(例:「キリストは経線儀であった」の比喩的意味は,「キリストは経線儀のようなものであった」の字義通りの意味である.)
    • ただし実際には,直喩に書き下すのが難しい場合もある.例: a highbrow is "a man or woman of thoroughbred intelligence who rides his mind at a gallop across country in pursuit of an idea" (ウルフ).
    • なお,この説明は,「隠喩とは省略された直喩である」という理論とは異なる; この理論だと両方の字義通りの意味が同一であることになってしまう.
    • 問題点: 実際には,隠喩の隠された意味は,直喩の字義通りの意味ほど容易に接近できるものではないはずだ.「A は B のようだ」は陳腐にすぎる (任意のものは任意のものに似ているから).
  • 説明4が受容されてきたのは,隠喩に対応する直喩と,さらにその直喩が示す類似性のリストを敷衍したものとが混同された結果である.

    • 実際には,「幾何学の証明はネズミ捕りのようなものだ」といった直喩の字義通りの意味は,そうしたリストによって与えられるわけではない.
    • かつ,そうした直喩に隠された第二の意味があるというのは尤もらしくない.
      • 直喩の作者は,何らかの類似性を気づかせようと意図することはあるにせよ,それは言葉を通じて作者が成し遂げることであって,言葉の意味そのものではない.
    • そして,直喩において言葉にできることは,隠喩においてもできるはずである; 隠喩も直喩同様,文字通りの意味以上のものを必要としない.
    • また,字義通りの意味のみによって類似性に注意を向けるということは,直喩や隠喩以外によっても可能である.Cf. エリオットの 'The Hippopotamus.'
  • 結論: 隠喩はもっぱら字義通りの意味から説明でき,かつ説明すべきである.

    • したがって,隠喩が出現する文も,字義通りの仕方で真・偽になる.
      • それゆえ,隠喩はたいてい偽になる (cf. 直喩はたいてい真になる).
      • そして一般的に,偽だと見なされるときに限って,文は隠喩として受け取られる.
        • Cf. 明白に真な発話にもこれと同様の効果がある.例:「仕事は仕事だ」.
  • 隠喩と嘘は似ている: 嘘も話し手がそれを偽だと考えていることを必要とする (それが偽であることを,ではなく).
    • 相違点は,言葉の意味ではなく,用法に存する.
      • 両者の用法は非常に異なるため,かえって,一方であることが他方であることを排除しない.(cf. 〔舞台での〕演技であることは嘘であることを排除する.)
    • 隠喩を際立たせるのは用法である,という点で,隠喩は主張・ほのめかし・嘘・約束・批判に似ている.
  • 従来の見解は,一方で隠喩が平易な散文に不可能なことを成し遂げていると言おうとし,他方で隠喩がある認知内容があると言おうとしている.両者は緊張関係にある.
  • 解決策は後者の考えを捨てることである.従来の理論は,隠喩の解読方法を提供しているわけではなく,あくまで隠喩の効果について語るものなのだ.
    • 隠喩はある事実を気づかせる効果を持つことはあるが,ある事実を表現するわけではない.
  • 実際,隠喩の「内容」が何かを正確に決定するのは,単純な隠喩の場合でさえ困難である.
    • 現実には,隠喩が私たちの注意を向ける対象は無際限であり,かつ多くは非命題的である.
  • 以上のことは,隠喩の解釈や解明を妨げるものではない: 言い換えることによる明確化や心象の再現は可能である.