でたらめ Cappelen and Dever (2019) Bad Language, Ch.4

  • Herman Cappelen and Joch Dever (2019) Bad Language, OUP.
    • Chap.4. Bullshitting and Deep Bullshitting. 52-72.

本章では (1) でたらめ (bullshit) と (2) 深いでたらめ (deep bullshit) を導入し,両者を探究しつつ両者の違いを精査する.

4.1 でたらめ

でたらめは嘘とは異なる.(本章前半の議論は Frankfurt 2005 に基づく.) オバマ在任中に,「オバマアメリカ出身ではない」と言う人がたくさんいた.そう信じて言った人もいたかもしれないが,多くの人は信じてさえいなかった.2016年の選挙では,レストランチェーンと民主党員に関する記事を性的人身売買に結びつける人たちがいた.これも多くの人々はそう信じてではなく,他の目的でそう言っていたのだ.

何が起きていたのかに関するありそうな説明: この人々は自分の言っていることを信じていなかったが,不信の念を抱いていた (disbelieve) わけでもなかった.真か偽かが単にどうでもよかったのだ.この人たちはまた,この主張に有利・不利な証拠を探さないことを選んだ.

フランクファートによれば,でたらめを言う人は単に注意不足なわけではない.むしろ,「現実の正確な表象を与えようとする努力が課する諸制約にほんとうには服することなしに,特定の事態を叙述する.その過ちは,ものごとを正しく把握していないということではなく,そうすることを試みてさえいないということなのだ」(Frankfurt 2005: 32).

でたらめを言う人は嘘つきとは異なる.フランクファートによれば,でたらめを言う人は自分が真理を知っていると想定していない.したがって,それが真である・ないという信念に基づいたものではない.こうした真理への配慮を欠いていることが,でたらめの本質である.

したがって,でたらめは,多くの理想化する条件に違反している:

  1. でたらめは非協調的である (理想化1に違反している).
  2. でたらめはグライスの (質・量の) 格率 (理想化2) に違反している.
  3. でたらめを言う人は知識の共有を目指していない.したがって理想化3に違反している.
  4. でたらめを言う人は,自分の知らないことを言う (理想化6に違反).そして,でたらめを言う人が共通の基盤に付け加えることは,知られていない (理想化4, 5 に違反).

4.1.1 「でたらめは嘘より大いなる真理の敵である」

フランクファートによれば,でたらめを言う人は嘘つきより悪い.嘘つきは真理と事実に注意を払うからだ.一方で,でたらめを言うことに慣れると,事実に注意を払う習慣が失われ,ひいては現実感覚を失う.

4.1.2 でたらめはどうして世に溢れているのか

「私たちの文化の最も顕著な特徴の一つは,でたらめが世に溢れていることだ.誰もが知っている通り」(Frankfurt 2005: 1).なぜか.でたらめを言う人には何らかの目的がある.政治家の場合は票を動かすなど.

フランクファートはでたらめを生み出す構造的要因があると指摘する: 自分が知らない話題について話す必要がある場合があり,そうしたときにでたらめが避けがたくなる.政治問題やSNSのコミュニケーションでは特にこうした圧力がかかる.

4.1.3 フランクファートによるでたらめの定義に関するいくつかの問題

フランクファートによるでたらめの説明への異論: でたらめを言うことを物語ること (storytelling) と区別できていない.物語る人もある意味では真理を顧慮していないからだ.

というわけで,追加の区別が必要である.でたらめを言う人と物語る人は以下のように区別できる:

  1. でたらめを言う人は,自分がでたらめを言っていることを隠し,通常の会話のパートナーであるふりをする.フィクションの場合,典型的にはそうではない.
  2. 物語る人はある意味で真理を顧慮している (「フィクションにおける真理」).これに対して,でたらめを言う人は,整合性に制約されることさえない.

4.2 嘘・ミスリーディング・でたらめからフェイク・ニュースへ

現代の政治論争で「フェイク・ニュース」概念は大きな役割を果たしている.だが,以下で論じるように,嘘・ミスリーディング・でたらめと違い,フェイク・ニュースは有用な概念ではなく,むしろなしで済ませるべきである.

ジャーナリストが嘘をつき,ミスリードし,でたらめを言うというのはなんら新しい現象ではない.一方で現代で「フェイク・ニュース」と呼ばれる典型的な例は 2018 年の Vanity Fair の記事に挙げられている.「フェイク・ニュース」に関しては以下のような定義が提案されている (cf. Habgood-Coote 2019):

  • 「フェイク・ニュース」は,偽でありかつニュースであるという属性を表す.
  • 「フェイク・ニュース」は,(完全に) 偽であり,欺く意図があり,かつ金銭的利得のために作られるという属性を表す.
  • 「フェイク・ニュース」は,故意に作られる虚偽のニュースであるという属性を表す.
  • 「フェイク・ニュース」は,ミスリードし拡散する意図で流布される虚偽のニュースであるという属性を表す.
  • 「フェイク・ニュース」は,フェイクのニュースソースから来る主張であるという性質を表す.

このうちどれが正しくどれが誤っているかを言うことができるだろうか.「正しい」が実際の用法に沿うことを意味するなら,実際の用法が多様すぎて定めようがない.Habgood-Coote は,「フェイク・ニュース」はそれゆえ言語的に欠陥があり,放棄すべきだと主張する.レポーターの Silverman 2017 も,トランプがこの語を自分が気に入らないニュースの意味に用いたことで終わりを迎えたと述べる.つまりこの表現は全く記述的役割を持たない.同様に Tallise は (i) この語が中傷語 (slur) であり,(ii) かつ不要な中傷語であると主張する.

「フェイク・ニュース」が余分な語であることは,以下のように論じうる.

  1. この表現は多様かつ部分的には不整合な仕方で用いられる.
  2. この表現は記述的にも表現的 (expressive) にも用いられ,かつどちらで用いられているのか明らかでない.
  3. 「フェイク・ニュース」という表現で述べうることで,他の表現では言えない事柄は存在しない.

4.3 深いでたらめ

Cohen 2002 は,フランクファートが扱っていない 'bullshit' の用法があると指摘した.すなわち,単に真理に気を配らないだけでなく,意味をなすことにさえ気を配らない場合がありうる.これを「深いでたらめ」と呼ぼう.

深いでたらめは,「発話する語は意味を持つ」という,もしかすると一番重要かもしれない前提 (理想化7) に違反している.以下では,この前提が満たされない諸方式を叙述する.例えば以下のような問いを扱う:

  • 語はいかにして無意味でありうるのか.
  • どうして人は深いでたらめを生み出すのか.
  • 深いでたらめはどれくらいあるか.

4.3.1 無意味な談話はいかにして可能か

無意味な談話は,(1) 無意味な語か,(2) 有意味な語の無意味な組み合わせからなる1.(1) の例はキャロルの「ジャバウォッキー」に見られる.もし誰かが友達に 'You must shun the frumious bandersnatch and beware of the Jabberwock' と言うとき,なにか有意味なことを言っているのだと友達は誤解するかもしれない.なお,このとき話し手は偽なる発話をしているわけではない.

ここまで,深いでたらめを言う人の意図については触れてこなかった.これには三通りありうる:

  1. 意図的に意味のないことを言う場合,
  2. たまたま意味のないことを言う場合,
  3. 意味があるかないかに無頓着に言う場合 (でたらめを言う人が真かどうかに無頓着であるように).

フランクファートによれば,でたらめは広範に存在する.では,深いでたらめも広範に存在するのだろうか.以下では無意味な事柄がたくさんあるとするいくつかの言語哲学的伝統を検討する.

4.3.2 無意味についてのカルナップと論理実証主義者の見解

Carnap 1959 から始める.カルナップの議論は二段階からなる.

  • ステップ1: 表現が有意味であるために満たすべき諸条件の説明.
  • ステップ2: どの表現がステップ1の条件を満たすかについての経験的主張.

カルナップは各々を次のように実装する.

  • ステップ1-C: 検証主義的な意味の理論を取る: 文の意味は,それを検証する方法に存する.
  • ステップ2-C: (とくに他の哲学者が用いる) 語がステップ1を満たさないと論じる.

カルナップによれば,多くの形而上学的な語句や,すべての規範的な談話は無意味である.

4.3.3 原題の意味の理論における無意味

カルナップによる意味の検証理論を擁護する現代の哲学者は多くない.結果として,私たちの談話が無意味であるという可能性への哲学者の興味も薄れている.だが,それは間違っている.私たちの言語に欠陥がある可能性は依然残されているからだ.意味の理論は次の形式を取る:

  • 有意味性の条件 表現 E が有意味であるためには,それは条件 C を満たさなければならない.

C の内容については多くの理論がある.だが,それらの理論のどれも,私たちが有意味だとみなす表現の多くが本当は無意味だということを排除していない.例えば Kripke 1980 の見解からは,表現が欠陥のある仕方で導入されるか,あるいはコミュニケーションの連鎖で何らかの問題が起きた場合,表現が無意味になるということを含意する.そして,そうしたことがどれくらい起きるかについて,私たちは経験的証拠を持っていない.より一般的に言えば,いかなる有力な意味の理論も,その理論が提示する条件 C が,たいてい,または典型的に,満たされているという証拠を与えていない.

では,談話のある重要な領域がこうした仕方で欠陥を持つと考える具体的な理由はあるだろうか.いくつかの候補を考察しよう.

4.3.4 理論的なたわごととはったり屋

例: ソーカルとブリクモンのラカン批判.一般的な論点としては: ものを考え研究するのが仕事の人間でさえ,無意味な語を有意味だと考えてしまいうる.また,ある人が無意味なことを言い,別の人がさらなる無意味な応答をするという会話がありうる.したがって,無意味の診断基準を作り,それを根こぎにすることが,重要な課題となる.

意図的に無意味を生み出す (深いでたらめを言う) 人のことを「はったり屋」(charlatan) と呼ぶことにしよう.ソーカルとブリクモンは,ラカンがこの意味でのはったり屋かどうかについては態度を保留している (Bricmont and Sokal 2003: 5).

最後に二つ論点を挙げておく:

  1. ソーカルとブリクモンは,彼らの言う「無意味」に関する理論を持っていない: 彼らの批判は,見えすいた虚偽とたわごととを区別する理論枠組みに支えられたものではない.この点で言語哲学の観点からすると不満を残す.
  2. ソーカルとブリクモンはフランス知識人に対象を限定しているが,どんなテクストであれ,たわごとに気をつける必要はある.

4.3.5 日常言語における無意味さ: 実例としての「人種」

わざわざ晦渋な哲学文献に向かわずとも,全くもって日常的な語が無意味だとわかることがあるかもしれない.例えば「人種」に関して三つの支配的見解がある:

  • A1: 「人種」は生物学的に特徴づけられたグループを指示する.
  • A2: 「人種」は何も指示しない.それには遺伝的に有意な特徴を共有する集団を指示するねらいがあるが,そうしたものはない.
  • A3: 「人種」は社会種 (社会構築物) を指示する.

A2 は最も影響力ある見解である (cf. Appiah 2002).もし「人種」が何も指示しないなら,「人種」を含む文はどう扱うべきだろうか.選択肢は主に二つある:

  1. それらの文は「人種」が何かを意味することを前提しているので,すべて偽である.
  2. それらの文は無意味である.

2 は少なくとも生きた選択肢である.一般的な論点としては: 有意味であるための条件は非常に厳しいものでありうる.私たちは他の人々をただ信頼しないといけないかもしれないし,世界のあり方に依存しているのかもしれないし,論理的不整合があるのかもしれない.だとすると,「民主主義」「愛」「クール」などの語に欠陥がないという保証はなくなる.必要なのは以下の二点の説明である:

  1. 有意味性と無意味性を区別する手続き.これを得るには完全な意味の理論が必要である.
  2. 個別の表現が有意味性の条件を満たすのかの詳細な調査.

4.3.6 思考の錯覚というものはありうるか

これに対して,気づかれないたわごと (unrecognized gibberish) は不可能であるという議論がある: 気づかれないたわごとが可能だとすれば,思考の錯覚 (illusions of thought) というものがあるだろうが,実際にはそんなものはない.

  1. 「人種」を含む文が無意味であり,そのことが気づかれていない (i.e., 話し手と聞き手が,有意味に話していると考えている) とする.
  2. そうだとすると,話し手と聞き手は,思考を受け入れているという錯覚も持っていることになる.
  3. 文が無意味なら,そこに考えうる事柄は何もなく,それゆえ思考の錯覚があることになる.
  4. しかるに,思考の錯覚は不可能である: ある思考を思考していると思考しつつ,そう思考しないことは不可能である.何かを考えていると考えているなら,実際に何かを考えているのだ.

だが 4 は見かけほど明白ではない.思考の錯覚があるときには,別の何らかの真正な思考が伴う,といったことも考えられる.


  1. Meaningless combinations of meaningless words への言及がない.