虚偽の分類と真理性の意義 Cappelen and Dever (2019) Bad Language, Ch.3
- Herman Cappelen and Joch Dever (2019) Bad Language, OUP.
- Chap.3. Messing with the truth. 35-51.
真なることを述べること (telling the truth) は従前のコミュニケーションの理想化された描像において大きな役割を果たしてきた:
- 理想化3: 会話の目標は会話の全ての参加者が共有する一群の知識を作り上げることである.
- 理想化5: 会話における話し手は,真なる仕方で (truthfully) 話す,また話すことが期待される.聞き手は話し手の言うことを信じる,また信じることが期待される1.
- 質の格率: 偽だと思っているか,十分な証拠がないことを言わないことで,真なる貢献をなすように試みること.
多くの非理想的な,つまり欠陥のある,コミュニケーションは真理を言わないことを伴う.その諸方式が本章の主題である.
3.1 虚偽を述べる
3.1.1 虚偽を述べる 1: 間違える
理由の一つは,単純に,世界のあり方について私たちがしばしば思い違いをすることである.このとき人々は理想化3, 5, 質の格率に従っていると思っているが,実際には従うことができていない.これ自体は理想化の違反ではない.
3.1.1 虚偽を述べる 2: 努力が足りない
とはいえ,信じていれば何でも言ってよいわけではない.人に伝える前に自分の信念をチェックする努力をどれくらい行っていると期待すべきかという問題は,多くの哲学文献が扱っている.
例えば A が犯罪者だと何の手がかりもなしに直感的に思ったという場合,ひとは A が犯罪者だと警察に伝えるべきではないし,友人に言うべきでもない.しかし要件は発話の文脈によって変わってくる.直感 (hunch) で主張を述べてよい場合もある.例えばカジュアルな哲学の会話など.違いが生まれる要因の一つは,実践的な影響の深刻さの違いである.
だが,「主張 p の証拠に関する要件は文脈によって変わってくる」という上記の主張は,論争的である.幾人かの哲学者 (e.g., Williamson 2000, ch.11) は,主張の構成的規則を強く取る.ウィリアムソンによれば,p だと主張すべきなのは,p だと知っている場合のみである.このとき,虚偽の主張は,主張に関する規範に違反していることになる.
3.1.2 虚偽を述べる 3: フィクション
フィクションもコミュニケーションの欠陥のある形式として記述されるべきだろうか.理想化された描像によればそうなるが,実際はそうではない.なぜか.
フィクションの三つの特徴が,このパズルを解く助けになる (フィクションの意味論につき cf. Cappelen and Dever 2018, ch.3):
- フィクションは理想化された描像に寄生的 (parasitic) である.フィクションはふりをすること (pretense) を伴う: フィクションにおいて,私たちは話すときに通常行っていることを行っているふりをする.それは非フィクション的コミュニケーションがすでに成立しているときに参与しうるコミュニケーション形式なのである.
- フィクションは典型的にはフィクションとしてしるし付けられている (marked).トランプについてのフィクショナルな物語が政治記事と同じ仕方で NYT に印刷されることはない (そんなことをしたら訴えられる).これが破られた例がウェルズ『宇宙戦争』が途中から放送された1938年のラジオであり,恐慌を来したことでラジオ局は非難された.
- フィクションにおいて重要になる種類の真理がある.これをフィクションにおける真理 (truth in fiction) と呼ぼう.Lewis (1978) は全てのフィクショナルな言明を,暗黙の「これこれのフィクションにおいては: ...」から始まるものとみなすべきだと主張した.「フィクションはしるし付けられている必要がある」という論点は,この主張の論拠となる.つまり「フィクションにおいては」という暗黙の修飾を目立たせる必要があるのだ.こうした見解が正しければ,フィクショナルな主張が真であると言うこともできる (例: シャーロック・ホームズがベイカー街に住んでいたということは『シャーロック・ホームズ』の物語においては真である).
要するに,フィクションは非フィクション的談話のふりをするものとしてしるし付けられ,隠し立てのないやり方で (in open way) 理想化する規範から違反するのだ.またそれはある種の「フィクションにおける真理」原理を尊重している.
3.2 嘘をつくこととミスリードすること
嘘を付くこととミスリードすることはより申告で問題含みである.両者の区別については多くの研究がある.
3.2.1 嘘をつくこととミスリードすること: 私たちが還元的な必要十分条件を目指すべきでない理由
議論はしばしば,嘘をつくことの必要十分条件を求めるという形式を取る:
- A が嘘をつく iff. C (ただし C 自体は「嘘をつく」を含まない).
例えば SEP 'Lying and Misleading' は次の定義をめぐって書かれている:
- 嘘をつくこと := 他人に偽だと信じている言明を行い,その際,当人にその言明を真だと信じさせる意図を持っていること.
だが,こうした提案はどれも大量の反例をもつ.こうした議論のやり方を「還元的反例ゲーム (Reductive Counterexample Game)」と呼ぶことにしよう.哲学の多くの分野において,還元的反例ゲームをするのは賢明ではない.理由は2つある:
- 私たちの言語が「嘘をつく」が取り出すまさにそのものを取り出す言葉を含んでいると考える理由はない.これは一般にそうである (「赤」とか「愛」にもない).言葉は,観察に基づき「ああいったのを嘘と呼ぼう」と言う,といった仕方で生まれる.そして,ちょうどその種のだけを取り出すのに使える資源が私たちの言語にあると考える理由はない.
- 還元的反例ゲームの想定に反して,嘘とは何であるかを私たちが知っているという保証はない.嘘の本性について私たちは直接的洞察を持っているわけではない; それはチョコレートとか民主主義の本性について持っていないのと同様である.したがって,嘘とは何かを明らかにするのは理論と調査であり,直感的反応ではない.
正確に言って何が「嘘」「ミスリード」に当てはまるかということは気にしすぎずに,諸事例の重要な違いに注意を向けよう.
3.2.2 真なることを言うことで嘘をつくことはできるか
ここまで「嘘をつくためには虚偽を述べる必要がある」という予期のもとで議論してきたが,実はこれには議論がある:
- A が B をナチから匿っている.ナチが家に来たと聞いて B は窓から逃げたが,A はそのことを知らない.ナチ党員が A が誰かを匿っているかと問い,A は匿っていないと答える.彼は真なることを述べているが,しかし彼は嘘をついているように思われる (Faulkner 2007).
- 自然発生説が信じられている時代のこと,ロバートは友人のトーマスに試験の助言を求めた.「ネズミはどこから来るんだ?」とロバートが聞く.トーマスはネズミが自然発生すると信じており,それが試験の正答になると知っている.だが彼はロバートを落第させるつもりで「他のネズミから生まれるんだよ」と答える (Stokke 2018).
これらは真なることを言いつつ嘘をついている例だ,というのが共通見解である.一方で,嘘をつこうと試みているが失敗している例だ,という選択肢もありうる.つまり,嘘をつくには内的条件と外的条件があり,虚偽が外的な成功条件に入る,ということだ.
重要なのは,「嘘をつくこと」と「嘘をつこうと試みているが失敗していること」のどちらに分類すべきかということではなく,こうしたヴァリエーションがあり,おそらくは内的/外的成功条件がある,ということだ.
3.2.3 嘘をつくことは欺きを伴うか
嘘をつくことは欺き (deception) を伴うというのが自然な考えだ.すなわち,内的成功条件として,嘘をつく人が聞き手を欺こうと意図しているということがある.しかし実際には,そうでない嘘 (のようなもの) がありえ,「白々しい嘘」(bald-faced lies) と呼ばれる.Carson 2006 の例によれば:
- カンニングをした生徒が学生部長に呼び出される.カンニングのことを学生部長が知っていることを生徒は知っているが,しかし学生部長は罪を認めない限り罰しないことでも有名である.罰を受けないためだけに生徒は「やっていません」と言う.
3.2.4 嘘の道徳的中立性: 罪のない嘘?
嘘は悪意,ないしは何らかの悪い意図を持ってなされる,と考えるのは自然だが,必ずしもそうではない,「罪のない嘘」(white lies) というものもある: 友人に高価な新しいコートの感想を聞かれて,ひどい見た目だと思いつつ「すごくいいね」と言う場合など.
上記の例では,少しだけ悪い (非道徳な) 振る舞いだが,友人を喜ばせるという善がそれを上回っている,と考えたくなる.しかし,この嘘がそもそも悪いことなのかを問うてみることもできる (類比: 医者が痛い注射をする場合).
3.2.5 嘘・ミスリードすること・欺きのあいだのグレーゾーン
欺きは嘘より広いカテゴリーである (例: 照明を点灯・消灯するプログラムで在宅していると思わせる場合,看護師の衣裳を着て自分が看護師だと周りに思わせる場合).
ミスリードするというカテゴリーは,虚偽を述べていないが意図的に虚偽を伝達している場合に用いられる.嘘とミスリードすることの間にはグレーゾーンがある; どちらとも取れる例を以下で三つ示す.
3.2.5.1 推意と嘘
2章では,店に50回行ったことがある人が「何回行ったのか」と問われて「5回」と答える場合についての最高裁の見解に言及された.最高裁によれば,これは偽証の罪に問われうる.もし偽証の事例になるなら,嘘の事例だとみなすのも自然である.嘘の事例だとすれば,主張する (assert) ことなしに嘘をつくことができる (5回しか行っていないと主張はしていない).
もちろん境界事例がある.ウィンストンのタバコの次の広告文を考えよ.
- Yours have additives. 94 percent tobacco 6 percent additives. New Winstons don't. 100 percent Tobacco. True taste. No BULL.
- Thank you for not smoking additives. No BULL. 100 percent tobacco. True taste.
- Still smoking additives? Winston straight up. NO ADDITIVES. TRUE TASTE.
これらはウィンストンのタバコが添加物を含まないぶん他より健康的だということを伝達している.実際には,添加物はたしかにないが,だからといってより健康的なわけではない.連邦取引委員会はウィンストンを訴え,ウィンストンは免責条項を付け加えた.ウィンストンは嘘をついていたのか,それとも単にミスリーディングなだけなのか.答えは出しようがないが,嘘をついていたのだとすれば,これも嘘が主張を伴わない事例となる.
3.2.5.2 前提と嘘
ジョンが犬を叩いたことがないとして,「ジョンは犬を叩くのをやめていない」というのは嘘になるのか,単にミスリーディングなのか,という問題も,同様である: 決めようがないが,嘘だとすると,嘘が主張を伴わない事例となる.
3.2.6 嘘つきなのと不誠実なのとではどちらがより悪いか
Stokke 2013 は,歴史上の哲学者,法体系,宗教体系が,嘘をつくことをミスリードすることより道徳的に悪いと考えてきたと述べる.しかし私たちは「罪のない嘘」が道徳的に問題ないことを示唆した.
現代の哲学者は,嘘をつくことがミスリードすることより悪いとは言えない.Cf. Saul 2012: ジョージがフリーダを殺そうとして,アレルギーのあるピーナッツオイルを大量に使った食べ物を出す.フリーダは食べ物が安全かどうかを訊く.このとき,嘘をついても,ミスリーディングな回答をしても,悪さには関係がない.
3.3 真理の尊重は全てのコミュニケーションに基礎的なのか
人々は間違い,物語を作り,嘘をつき,ミスリードする.こうして見ると,真なる談話は標準的・典型的形式でさえないように見えてくるかもしれない.真なことを言うことはおもしろいことを言うことと同等であり,ある発話はおもしろいが別の発話はそうではなく,ある発話は真だが別の発話はそうでない,というように.これは1章の理想化した描像とは明白に異なる.つまり,コミュニケーションにおける真理の役割について2つの対立する見解がある:
- 真理は特別 (Truth Special): 会話が可能なのは,話し手が真なることを言うという規約・規範があるときに限る.
- 真理は特別ではない (Truth Not-Special): 真理はしばしば良いものであり有用だが,会話にとって構成的ではない.
多くの哲学者は前者を擁護している.その一ヴァージョンによれば,真理を語るという規範を受け入れない限り,私たちは何も言うことができない.話すという行為はこの規範の受け入れによって構成されているのだ (類比: チェスの対局とチェスのルールの関係).
3.3.1 真理性の規約と信頼についてのルイスの見解
ルイスは「真理は特別」説の影響力ある支持者である.基本的な着想は明白である.第一に,語の意味は規約的である: 規約が違えば文は異なることを意味しうる.言語的規約の正しい理論を作り上げるのは難しいが,ルイスの考えでは,「真理性と信頼」(truthfulness and trust) の規約が重要になる.英語話者は,英語で偽にならない英文を発話しないという規約に依拠している.英語に信頼を置くとは,特定の仕方で信念を形成することである−−すなわち,英語での真理性を他者に帰属し,発話された文がエイドで真であると信じるようんあることで,他の人の英語文に応答する傾向を持つことである.
ルイスによれば,真理性と信頼の規約こそ,私たちを英語話者にするものである.仮に私たちが自分が真だと信じていない文を恒常的に発話していたら,言語を話すことはできなかっただろう.そしてこうした規約があるがゆえに,嘘はうまくいくのだ.
3.3.2 真理が特別でない理由についてのウィルソンとスペルベルの見解
一方で Wilson and Sperber 2002 や Cappelen 2011 は「真理は特別でない」説を採る.ウィルソンとスペルベルの議論は「ゆるい,または近似的な用法」に焦点を合わせている.次の用例を見よ:
- 講義は5時に始まる.
- オランダは平らだ.
- スー: 銀行が閉まる前に走らなきゃ.
- ジェーン: ひどい風邪を引いちゃった.クリネックスが必要だ.
これらはどれも厳密に文字通りに真であるわけではない: 講義が5時きっかりに始まることは稀だし,オランダは完全に平坦なわけではないし,銀行に走る以外にも急ぐ手段はあるし,ティッシュがクリネックスである必要はない.といって,実際にはより厳密な物言いの方が好ましいわけではない.
以上の考察によって真理が特別か否かの問題に決着がつくわけではない.この論争は本シリーズの最後の本 (Cappelen and Dever forthcoming) で扱う.
参考文献と練習問題
〔省略.〕
-
(なぜか) 1章の理想化5とは異なる.むしろ理想化2の一部.↩