変形文法のギリシア語への応用 Kahn (1973) The Verb 'Be' in Ancient Greek, Ch.3

  • Charles H. Kahn (1973/2003) The Verb 'Be' in Ancient Greek. D. Reidel.
    • Chap.3. Application of the transformational analysis to Greek. 60-84.

§1. 本章の概観

〔省略.〕

§2. 分析の基本原則: ギリシア語と英語で基礎的な文形式は同じである

以降では,ギリシア語の初等的な文タイプが,ハリスが英語について定義したものとほぼ同じであると仮定する.つまり,任意の文形式の基礎構造 (underlying structure) は NVΩ であり,N を空と見なせるのは非人称構文の場合のみである.

私たちのコーパスとなるホメロスにおいて N が大抵現れていないとしても,この仮定は必要である.––古典文法の一般的見解はこれに対立する: (1) 定動詞のみの形式 (e.g., "ἔρχομαι") と (2) 非動詞的形式 (e.g., "σοφὸς ὁ Σωκράτης") が先にあり,(1A) 主語や (2A) 繫辞のある形式は派生的だとされる (cf. Cunningham).1 については,なるほど経験的には英語とギリシア語ではこの点は対照的である: "ἐγὼ ἔρχομαι" は単なる "I go" ではない.しかし第一に,ἔρχομαι の人称カテゴリーは代名詞的要素によって表すのが便利であり,第二に φησί με ἔρχεσθαι のような派生的な文の変形上のもととして ἔρχομαι を捉えるなら,見えない (ἐγώ) を想定する必要がある.このとき,ギリシア語と英語の違いは,単なる表層文法の特徴として記述し直される.2 についても似た議論が成り立つ: 非動詞的構文が特に見られる三人称単数の文が他の種類の文と原理的に異なるとしない限り,そうした構文においても動詞のゼロ形式を想定する必要がある.

§3. 消去可能な要素のない最小文という観念

要するに,伝統的説明は表層的現象の記述としては OK だが,文構造の一般理論としては受け入れられない.伝統的文法は「消去可能な要素がない」(with no eliminable elements) 文というミスリーディングな観念に依拠しているので,これを検討する.

"Odysseus, attacking from his chariot, hit the first man in the chest with his spear" という英文を考えよう.これは Odysseus hit (a) man という NVN の核形式に基づいて分析される.英語の場合はこれ以上消去できないように思われる: *Odysseus hit, hit a man, hit にはできない (後二者は命令文になる).対してギリシア語の場合,ἔβαλε のみの出現は普通である.

しかし 'ἔβαλε' が単独で出現するのは文脈から主語・目的語がわかる場合に限られる.そして文脈を補えば,例えば元の要素を全部消去することが可能な事例さえ出てくる (e.g., "πάνυ μὲν οὖν" のような応答文).したがって,reductio ad absurdum を避けるには,文脈に依存しない消去に限るべきである.

§4. 狭義の「省略」と広義の「省略」

私が以下で用いる意味での「省略」(ellipsis) とは,(1) 出現していない語や句が基礎構造から期待されえ,(2) 同じ文脈のもとで実際に同一の/似た形式が見られる場合を指す.これはゼロ化 (zeroing) の特殊事例であり,ゼロ化のうち特に当の形式が出現したとすれば反復 (repetition) となるであろう場合である.この意味では名詞文や "ἔρχομαι" は省略的ではない.他方,より緩い意味では,主語や繋辞の不在も省略の例と見なせる.ここでは狭義の用法を採用する: 緩い用法を「省略」と呼んでしまうと狭義の用法に当てる呼び名がなくなるし,広義の用法には既に「ゼロ化」「削除」(deletion) という語がある.

ただし歴史的事実として,広義の用法のほうがストア派の ἐλλιπὲς λεκτόν に対応する.ストア派によれば,"γράφει" だけでは欠けがある一方,"γράφει ὁ Σωκράτης" は αὐτοτελές である.後者が「完全な思考の表現」であるという伝統的説明は,この教説を基礎としている.この見解は現代で言う表層文法と深層構造の対比として理解できる.ただしストア派言語学者ではなく哲学者であり,この教説も文法的というよりは哲学的考慮に基づいているはずである."γράφει" だけでは真理条件が決定されないというのがその動機だろう.

§5.「了解された主語」と文法的な「先行詞」

広義の省略は「了解された」(understood) 主語・動詞の全事例を含む.本書が検討する多くの文の主語は文脈から「了解される」必要があるので,この観念を予め明確化するのがよい.

まず文脈 (context) と発話状況 (speech situation, situation of utterance) を区別する必要がある.文脈は前後の文からなるが,発話状況は話し手,聞き手,その環境からなる.この区別は人称代名詞や人称語尾の理論に必須である.一人称・二人称代名詞の支持を決定するのは発話状況であり,文脈は高々間接的にしか意味に寄与しない (e.g., Il. 1.29 で "ἐγώ" と発話している人は文脈からアガメムノンだとわかる,というように).したがって,統語論的には,一人称・二人称は固有名のような基本要素的クラスのメンバーであって,変形により導出されはしない.

一方で三人称の場合は,発話状況だけからは決して特定されない.ゆえに厳密な意味で動詞に「含まれる」ことはない."ἔρχεται" という文の発話は,最低限,指差しの身振りを必要とする.

三人称の主語が指差しによって直ちにわかるものではない場合,名前や記述によってそれを指示しなければならない.一旦そうして同定されれば,he や they のような前方照応的代名詞によってそれを取り上げることができる.ギリシア語の場合は定動詞だけでもよい.いずれにせよ「指示的恒常性」(referential constancy) とでも呼ぶべき原理が前提される: I saw John as he entered the room という文において,John と he は同じ個体を指す.この原理は名詞の共有,ゼロ化,関係詞節等々を伴う全ての変形で用いられる.

一般的に言えば,この原理は,文法が指定するある状況のもとで,別の箇所の二つの名詞 (句) が指示的に等価であることを含意する.特殊例として代名詞と先行詞の指示的等価性がある.だが実際の用例を見ると,先行詞の概念には文法的主語と言語外的主語との両義性が反映されている:

ὣς ἔφατ᾽ εὐχόμενος, τοῦ δ᾽ ἔκλυε Φοῖβος Ἀπόλλων (Il. 1.43)

τοῦ は何を指すか.私たちの理論ではゼロ代名詞 he が ἔφατο にあると言える.しかしこの前方照応代名詞は,今度は直前の ὁ γεραιός が同定する祈り手を参照している.さらに以前には一人称や二人称でもこの神官は指示されており,参照の連鎖は11行目に遡る ("οὕνεκα τὸν Χρύσην ἠτίμασεν ἀρητῆρα").というわけで,τοῦ は ἔφατο に含まれる (ὁ) を参照するが,それは如上の連鎖の一部にすぎない.ここにあるのは指示形式の同値類である.このうち Χρύσης が最初に来るのは偶然ではないが,とはいえ固有名の機能自体,これに似た恒常性の原則 (i.e., 名辞タイプの諸トークンが名辞の同値類をなす) に依存している.連鎖の全体をまとめているのは言語外的指示対象の恒常性なので,τοῦ の先行詞は,より深い意味では,文脈内の表現のどれかではなく,クリュセスその人である.

§6. 了解された主語を伴う動詞形式についての結論

以上をまとめると: 一・二人称動詞は二つの意味で「主語を含んでいる」: (1) 人称語尾がゼロの (見えない) 文法的主語と機能的に等価である.(2) 実際の発話状況において人称語尾が言語外的主語を特定する.これに対して三人称動詞は,専ら (1) の意味でのみ主語を含み,主語は文脈から「了解される」.

なお三人称については別種の「了解された主語」がある.これは be 動詞に関する議論には直結しないが,文法的主語と言語外的主語の混同には関係する.すなわち,主語の特定が重要でない場合である:

ἀρξάμενοι τοῦ χώρου ὅθεν τέ περ οἰνοχοεύει (Od. 21.142)

この語は主語を非常に一般的な仕方で特定している.別に非人称ではない.

§7. 一階の名詞類・抽象名詞・文主語

以上,1-3節ではギリシア語テクストの分析にNVΩパターンを適用する理由を示し,4-6節ではこの種の分析の背景にある前提を示した.以上の議論が実践的な意味を持つのは,以降で εἰμί を主語の本性によって−−主語が明示されていない場合でも−−区別するからだ.重要な区別が生じるのは三人称の場合である: 一階の名詞類 (first-order nominals)・抽象名詞・文主語 (sentential subjects).

一階の名詞類という概念は (Lyons から着想を得ているが) 基本要素的名詞 (elementary noun) 概念を包含する.基本要素的名詞は変形の集合に相対的に定義される.例えば man は基本要素的名詞だが mortal はそうではなく (a mortal man から名詞のゼロ化によって導出できる),runner, worker もそうではない.だが mortal, runner, worker は全て一階の名詞類である.名詞類の形式的定義は基本要素的名詞との置換可能性によって与えられる.より直感的には,個体を指すもののことである. εἰμί を分類する上では名詞類という観念の方が基本要素的名詞の観念より便利である.後者が変形的分析によってしか本当には特定できないこと,および一階の名詞類と高階の名詞類の区別が何らか「事物の本性」に根ざしていること,がその理由である.

基本要素的名詞や一階の名詞類のうち特権的なのは人称名詞のクラスである.印欧語ではこれが一階の名詞の唯一の部分クラスであり,一般言語学のいわゆる有生名詞は印欧語では何ら形式的地位を有さない (↔ Chomsky, Aspects of Syntax).

抽象名詞は,動詞,形容詞,あるいは述語の位置に置かれた名詞の名詞化 (nominalization) によって統語的に派生した名詞である (murder ← murders, anger ← is angry, manhood ← a man).特に εἰμί の主語としては動作名詞 (action nouns) を以下で検討する.これらは行為者の名詞化 (agent nominalization) とは区別されるべきである (e.g., murderer).また性質名詞も同じ仕方で抽象的である.

この一般的見地は W. Porzig のものと同じである.Porzig は,形態論的には動詞から動作名詞が派生する場合でさえ,統語論的には動作名詞が対応する動詞から派生すると指摘した.Porzig はまた自分の分析を ἀρετή のような性質名詞に拡張した.こうした統語論的定義は,例えば数のような抽象的対象の地位といった哲学的問題を手付かずのまま残す.とはいえこの分析によって,哲学者が roundness のような性質名詞を round のような述語形容詞との統語論的関係を見ずに論じるのが誤りであるとは示唆してくれるのである.

動作名詞や出来事名詞を抽象的なものとして記述するのは,哲学的には奇妙に見えるかもしれぬにせよ,言語学的には健全である.印欧語では行為は定動詞で表現されてはじめて十分具体的で個別的に表されるからだ.

最後に文を名詞化した文主語が挙げられる.これはギリシア語では典型的には不定詞句で示される (英語では that 節).だが εἰμίの文主語はむしろ中性の指示詞 τό, τοῦτο, τάδε や副詞οὕτω で示されることが多い.

§8. εἰμί のデータの体系化についての問題

どうやって資料を体系化 (organize) すべきか.ミル以来の繋辞的/実在的動詞という区別は統語論的基準と意味論的基準を混同している.「繋辞は意味を欠いており,実在的用法はそうではない」という伝統的な考えは間違っている.

以下では形式的な意味で繋辞か否かの統語論的区別を根本的なものと見なす.繋辞の用法には純粋な場合と混合的事例がある (単に繋辞動詞として機能していると思われる場合と,その他の意味 (実在する,属する etc.) がある場合).非経時的用法には様々な実在的文タイプと三つの非実在的用法がある (所有的構文,不定詞を伴う可能的構文,真理的構文).さらにまた繋辞用法のうちで基本要素的用法と変形的に派生する用法が区別される (迂言的用法,文オペレータ的用法など).繋辞の基本要素的用法は以下の通り (1-5 はハリスが英語について定義したもの,6-7 はそれに付加したもの):

  1. N is A ― Socrates is wise
  2. N is Nclassifier ― Socrates is a man
  3. N is NrelPN ― Socrates is son of Sophroniscus
  4. N is PN ― Socrates is in the agora
  5. N is Dloc ― Socrates is here
  6. N is Dmanner ― ἀκὴν ἔσαν
  7. N is of-N ― Σωκράτης ἐστὶ πατρὸς ἀγαθοῦ

うち 1-3 は名詞的繋辞,4-5 は地格的繋辞,6 は副詞的繋辞である.7 は準地格的 (para-locative) なものとして B に含めうるかもしれない.

εἰμί の文を分類する一般的図式は以下の通り.

  • I. 繋辞的用法 (IV章)
    • A. 名詞的繋辞
      1. 述語形容詞を伴う
      2. 述語名詞を伴う
      3. 述語としての代名詞を伴う
      4. 分詞を伴う迂言的構文
      5. 冠詞付きの分詞を伴う
      6. 様々な述語名詞・形容詞を伴う文オペレータとしての繋辞
    • B. 副詞的繋辞
    • C. 地格的,準地格的繋辞
    • D. 実在やその他の「強い」意味を伴う,繋辞の様々な混合的用法
    • E. 述語属格
    • F. 繋辞の非人称的構文
  • II. 非繋辞的用法
    • A. 実在的文タイプ (VI 章)
    • B. 所有的構文 (VI §12)
    • C. 可能的構文 (VI §17)
    • D. 真理的構文 (VII 章)

§9. Liddell-Scott-Jones やその他の辞書における εἰμί の分類との比較

LSJ の分類は明らかに繋辞-実在の対立から着想を得ている.この区別が人工的である次第は最近の Italie (1955) Index Aeschyleus などを見れば明らかである.他の辞書を見ても伝統的理論が使用に耐えないことが分かるだけである.最もギリシア語の用法に近く,それゆえ有用なのは,Ebeling の Lexicon Homericum の分類である.