εἰμί 研究の目的と方法 Kahn, The Verb 'Be' in Ancient Greek #1

  • Charles H. Kahn (1972) The Verb 'Be' in Ancient Greek. D. Reidel. 1-17.
    1. Introduction.

ギリシア語の be 動詞 (εἰμί) の諸用法の哲学者による言語学的・文献学的研究を読み始める。この本は親切なつくりをしていて,通常の目次に加えて見出し付きの目次 (analytic table of contents) が付いている。この見出しのやや自由な訳とその補足という形でメモを取る。

以下は序論の前半の要約。言語学のテクニカルな部分はよく分からないので誤解やポイントの見落としがあるかもしれない。そもそも45年前の本なので,当時の言語学の知見に依拠している箇所が現在どれくらい通用するのか,いま同じことをするとすればどうなるのか,というあたりも気になるところ。*1


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文字通りには否である。つまり単なる投影ではない。もしそうなら,同一言語の話者が同一の形而上学を有さねばならないことになってしまう。他方,より弱い意味では正しい。統語論や語彙が設ける区別 / 設けない区別が,哲学的反省に影響することはある。

各言語にある概念的構造が内蔵されているわけではない。「アリストテレスの記述的形而上学ギリシア語に内在する暗黙の形而上学 (tacit metaphysics) により忠実であり,プラトンの修正的形而上学はそれに反対する」といった主張は支持できない。そもそも暗黙の概念枠は一貫したものでも整合的でもない。むしろ数多くのオルタナティヴな存在論が言語に伏在しており,それを単に掘り出すだけでなく体系化するのが哲学者の仕事である。*2

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  • 「ある (being)」の概念と哲学的分析による異議申し立て。「実在*3・述定・同一性・クラスへの包含」ほど多様な観念に対応するような単一の概念が,一体ありうるだろうか。

すなわち εἰμί - τὸ ὄν - οὐσία といった言語体系の統一性は単なる偶然か否か。ミルやラッセル以来,20世紀の分析哲学の伝統は be の諸要素を区別する方向性が優勢である。この潮流は言語相対主義の結論を強化する。

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  • レシニェフスキのオントロジーは,be の様々な用法の間の体系的な相互連結が可能であることを,繋辞的用法を中心的なものと見なしつつ,例証する。

述定 xεy を基礎に,例えば同一性は「xεy かつ yεx」,実在は ob x: xεx ≡ (∃y) xεy (x, y は一階の名辞) と表される。この還元は精神においてアリストテレス的である (cf. オーウェンの focal meaning)。(ちなみにクワインの "to be is to be the value of a variable" にもこの図式のエコーを聞き取れる。) オントロジーはミル−ラッセル−カルナップの伝統に対抗して 'be' に何らかの概念的統一性がありうることを示唆する。この可能性を我々は探究する。

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  • ジルソンは,be (印欧祖語 *es-) を第一義的には実在の動詞であるとする言語学的な見解を哲学的に擁護する。

そもそもどの意味が第一義的かという問いは開かれている。伝統的には繋辞が第一義に置かれてきた (中世の繋辞の理論,ポール・ロワイヤル論理学)。ジルソンはこれに反し,'l'action première' たる「存在すること」を be の第一義とする。確かに εἰμί やそれと同語源の語は疑問の余地なく動詞的であり,他の動詞と語形的にパラレルである。それゆえ比較文法では独立的な「実在」用法が I.-E. *es- の基礎的用法だと考えられてきた。だがこれには 5, 8 章で反論する。

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  • ギリシア語の εἰμί の記述のための予備的な要件: ホメロスの詩を主要なコーパスとして選択すること,変形文法を記述枠組みとして利用すること。

ホメロスは古いテクストなので, (1) ギリシア語の前哲学的な存在論的傾向性を明らかにするし,(2) より広範囲の印欧語の状況を反映する。とはいえ,ホメロス以後のギリシア語も検討する。畢竟哲学的語法の影響は文学においてさえ瑣末である。変形文法を (他の種類の知見とともに) 活用するが,古代ギリシア語に関する一般理論を立てるつもりは (仮にできるとしても) ない。

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  • 本書で用いられる変形システムの概要: ゼリグ・ハリスが "Transformational Theory" (1965) および Mathematical Structures of Language (1965) で詳述した理論を適用すること。

現代の統語論は Harris (1946) "From Morpheme to Utterance" とともに始まる。この論文で提示された方法はハリスとその弟子のチョムスキーにより二つの別々の方向に急速に発展している。両者が本質的にどれほど異なるのか,現時点〔1973年〕では論評を控えるべきだろう。我々はハリスの理論を使う。著者カーンがよりよく知っており,より単純で抽象度が低く,我々の課題に向いているから。

チョムスキー生成文法は,シンボルと規則の抽象的体系から文法的文 (のみ) を生成する。文は理論の最終的産物であり経験的テストにかけられる。他方,ハリスの分析は任意の複雑さの文を変形により分解し核文 (単純な文) に至る。従って文法は核文の集合と変形の集合とからなる。反対に行けばこれも「生成」として解釈できる。

厳密には次のように説明される。変形とは,「二つの文形式の対応箇所に挿入されるべき語の単一の集合に関する,二つの文形式 A, B のあいだの同等に容認可能である関係」*4のことである。A1, B1*5 が A, B に語を挿入したものであるとき,(a) A1 が標準的なら B1 も標準的であり, (b) A1 が辛うじて容認可能 (marginally acceptable) なら B1 もそうであり,(c) A1 が 特別な種類の談話 (discource) に限定されるなら,B1 もそうである。能動-受動の変形における例を挙げると:

  1. John loves Mary. / Mary is loved by John.
  2. The bone bites the dog. / The dog is bitten by the bone.
  3. This set satisfies the specified condition. / The specified condition is satisfied by this set.

より一般化すれば能動-受動変形は N1 V N2N2 be Ven by N1 の関係として定義しうる。かくして,変形は,(1) 2つの文形式,(2) クラスシンボル N, V 等々に実際の語を入れた2つの文集合,(3) 同じ語を同じシンボルに代入した2つの文の対,について定義できる。通常我々は最も具体的な 3 を扱う。

変形を静的関係でなく動的操作として捉えるなら,チョムスキーの方法に近づく。但しチョムスキーの場合,変形は「句構造標識 (phrase-markers)」について定義される (e.g. S → NP+VP)。他方ハリスや我々は単に文や文形式の関係と捉える。だが我々は (ハリスが 'deformation' と呼ぶ) 文と派生的な句との関係 (e.g. John loves Mary → John's loving Mary) もややルーズに「変形」と呼ぶことにする。

変形と相対的に,言語の核文 (kernel sentences) が定義できる。核文に変形を加えることで,全ての文が導出される。*6核文は短く単純な形式であるだけでなく,制限された単純な語彙から構成される。例えば定冠詞 the,代名詞,数,ほとんどの複数形や派生語 (morphologically derived words) は核文には不要である。

核文概念は哲学的に興味深い。確かにフレーゲ-ラッセル-カルナップの「言語の論理的統語論」の企ては自然言語よりは科学的形式言語に関するものであり,他方日常言語学派による哲学的文法の企てはアマチュア的・前科学的だった。だが理論言語学のほうで自然言語の厳格な文法が登場したのだから,哲学的分析もこれに即応しなければならない。例えばハリスが 'performative operators' と呼ぶものによって平叙文から疑問文や命令文が導出されるという事実は,疑問文や命令文の論理やオースティンのパフォーマティブの理論に解明の光を投げかける。また抽象的属性に言及する文を,そうした属性が単なる述語形式で現れる文に還元する企て (e.g. ラッセル) は,核文への分解によって自動的に行われる。そのさい統語論的な導出は語形的な派生よりも基礎的であり (e.g. 'beautiful' - 'beauty'),変形文法の分析はこの優先順位を維持する。こうした点で,変形文法は自然言語内の対象言語についての哲学的探究に大きく寄与する。

*1:他方ではもちろん古典学の堅固な蓄積に基づいてもいるはずで,仮にそうした部分が outdated でも論拠全体が掘り崩されるということにはならないだろうけれど。

*2:ここはとてもまっとうな感じがする。

*3:原則として,be 系の語彙に「ある」「存在」,exist 系の語彙に「実在」を充てる。

*4:我ながらひどい訳だがうまく直せない。原文は以下の通り。"a relation of equal acceptability between two sentence forms A and B with respect to a single set of words to be inserted at the corresponding places in the two forms." (p.12)

*5:原文に 'A1 and A2' とあるのは誤植か。

*6:derive 系の語句はさしあたり「導出」「派生」などと訳す。