最も一般的な叙実的心的状態としての知識.信念との関係 Williamson (2000) KIL, Ch.1 #2

  • Timothy Williamson (2000) Knowledge and its Limits, Oxford University Press.
    • Chap.1. A State of Mind. 21-48. [here 33-48.]

1.4 最も一般的な叙実的心的状態としての知ること

  • 知ることは標準的分析が要求するような形では因数分解できない.だが,分析とは別の仕方で説明できる.
    • その説明は薄い説明だが,まさにその薄さが,当の概念の重要性を明らかにしてくれる.
  • 考え方は単純である.叙実的態度には状態をなさないものも含まれる (例: 忘却は状態ではなく過程).状態をなす態度を状態的 (stative) と呼ぼう.このとき,知ることは最も一般的な叙実的状態的態度である.すなわち,p に対して何らかの叙実的状態的態度を持つ人は,知るという態度を持つ必要がある.
    • 見かけ上の反例については後述する.以上の推測の眼目は,知ることが思考に果たす中心的役割を解明することにある.つまり,叙実的態度が重要であるがゆえに,知ることは重要なのである.
  • これこれであることを知るのには特殊なやり方がある: これこれであることを見たり,記憶したり,……ということがある.仮に特定のやり方に名前がなくても,何らかの例を範例とするなどして随時名前をつけられる.「知ることとは,見ること,または記憶すること,または……である」と述べることができるが,右辺の選言には終わりがない.そして,知るという概念は右辺の選言的概念と同一ではない (見るという概念を把握せずに知るという概念を把握することはできる).
    • 類比: 何かに色があるなら,それは特定の色の性質を持っている: 赤いか,緑色か,または……である.仮に特定の色に名前がなくとも,何らかの例を範例とするなどして随時名前をつけられる.「色があるとは,赤いか,緑色か,または……である」と述べることができるが,右辺の選言には終わりがない.そして,色があるという概念は右辺の選言的概念と同一ではない (緑色であるという概念を把握せずに色があるという概念を把握することはできる).
  • 自然言語に形をとる仕方 (realization) を叙述することで,叙実的状態的態度のカテゴリーに実質を与えることができる.
    • 叙実的状態的態度に特徴的な言語表現は,叙実的心的状態オペレータ (FMSO, factive mental state operator) である.
      • 統語論的には,FMSO Φ は動詞のもつ組み合わせ上の性質を持つ.
      • 意味論的には,FMSO Φ は分析不可能な表現である.i.e., Φ は,その意味が諸部分の意味からなるようないかなる表現とも同義的でない.
      • さらに (英語では):
        • Φ は典型的には有生の語を主語に取り,that 節を目的語に取る.
        • Φ は叙実的である.つまり,"S Φs that A" から "A" への推論は,演繹的に妥当である.
        • "S Φs that A" は S に命題的態度を帰属する.
  • 注釈1."S Φs that A" が "A" を演繹的帰結として持つのは,単にキャンセル可能な前提 (presupposition) としてではない.
    • 例えば動詞 'guess that A' には 'A' を前提する用法がある.だが,この前提はキャンセル可能である (例: 'guess incorrectly that A').
    • 同様に,'does not know that A' から 'A' もキャンセル可能であるが,'know that A' から 'A' はキャンセル可能でない.
  • 注釈2. FMSO は状態的である.これは言語上は進行形の使用の不適切さによって特徴づけうる (*'is knowing that' とか *'is belleiving that' という語法は逸脱的である).
    • もちろん同じ動詞に状態的な読みと非状態的な読みがある場合はある: ?She is remembering that there are infinitely many primes.
  • 注釈3. FMSO は主体に命題への態度を帰属するので,"S Φs that A" は「S が A という命題を把握している」を含意する.
    • 「知る」はこれに当てはまるが,「そうなっていることについて責任がある」は当てはまらない.
    • ある人の知覚や記憶が,表現手段となる概念をその人が欠いているような内容を持つことはありうる.だが言語表現としての FMSO はそのような内容は帰属しない.
  • 注釈4. FMSO は意味論的に分析不可能である.「真なる仕方で信じる」のような人工的な動詞は FMSO ではない.
    • 意味論的に分析可能な表現は単なる態度の表示以上の複雑な意味論的役割を持ち,それゆえ構成要素となる意味の説明を必要とする.それゆえ,意味論的に分析不可能な表現に集中するのが現時点では得策である.
    • 他方で,FMSO は統語論的には分析不可能である必要はない.例えば助動詞 'can' を加えることで FMSO になることがある.
      • 例: She felt that the bone was broken. / She could feel that the bone was broken.
      • 前者は「彼女は骨が折れていると直感的に信じた」というほどの意味だが,後者は「彼女は触覚を通じて骨が折れているのを知った」というほどの意味である.後者の 'could feel' は前者の 'felt' と違って,叙実的であり,かつ知覚的である.したがって,後者を 'could' と 'feel' に意味論的に分析することはできない.
      • 他の動詞にも同様の例はある.
        • She heard that the volcano was erupting. / She could hear that the volcano was erupting. やはり後者のみが叙実的かつ知覚的.
        • She saw that the stock market had crashed. / She could see that the stock market had crashed. こちらは両者とも叙実的だが,後者はより直接的に知覚的.
  • 以上の説明で FMSO 概念は十分明確になった.かつ,この説明は,知るという概念を不可欠な仕方で参照するものではない.以下では 'know' が FMSO のクラスにおいて特別な地位を占めていると論じる.
  • 提案: 'S Φs that A' は 'S knows that A' を含意する.この含意は尤もらしいが,論争の余地はある (Unger 1972; 1975).
  • 反論として,「A であることを知覚・記憶しているが,A だと信じていないか,信じることが正当化されていないために,A だと知らないことはありうる」というものがある.
    • しかしこの見解は,知ることと信じる・正当化を持つこととの関係に,知ることと知覚する・記憶することの関係以上の重圧をかけた結果にすぎない.
      • 雨を見ること (see the rain) と,雨が降っているのを視認すること (see that it is raining) は異なる.そして,後者は雨が降っていると知ることの一様式である.
      • その際,雨が降っているのを視認していると知っているとは限らないし,それゆえ知っていると知っているとは限らない.しかしそうしたことは,雨が降っていると知っていることの必要条件ではない.
      • 記憶の場合も同様.
  • A であることを視認することと,A であるような状況を見ること (seeing a situation in which A) とは異なる.
    • 第一に,前者の場合にのみ,知覚する人が命題 A を把握している必要がある.
    • 第二に,命題 A を把握しており,A であるような状況を見ていても,(不利な証拠があるために) A であることが視認できない場合がある.
    • したがって,後者の例が,見ることが知ることを含意すること,および知ることが信じることを含意することへの反例となることはない.
  • 同様の仕方で,A であることを記憶することと,A であるような状況を記憶することも異なる.
  • 以上の FMSO に関する議論は三原則に要約できる:
    • Φ が FMSO なら, 'S Φs that A' から 'A' を推論できる.
    • 'Know' は FMSO である.
    • Φ が FMSO なら,'S Φs that A' から 'S knows that A' を推論できる.
      • 後二者は「知る」という概念を一意に特徴づけている.
  • 内容的に言えば (in the material mode),知ることという態度は,任意の p について,必然的に,ひとが p に対してそれを持つなら p が真であるような,最も一般的な状態的命題的態度である.
    • この主張は,次の主張とは異なる: 任意の p について,p を知るという態度は,必然的に,ひとが p に対してそれを持つなら p が真であるような,最も一般的な状態的命題的態度である.
      • これだと p が必然的に真な命題の場合にうまくいかない.
    • このとき 'believe truly' が FMSO でないことは重要である (さもないと believe truly から know への推論が許されてしまう).
  • 叙実的心的状態が重要なのは,心と世界の合致を本質的に含む状態だからであり,知ることが重要なのは,その最も一般的なかたちだからである.
    • たとえ「知る」概念の特徴づけに同意しなくても,その概念より上記の叙実的心的状態のほうが重要だとさえ考えられるだろう.
  • 当の状態は一般的な状態である.その状態のトークン (という概念が整合的かは疑わしいが (Steward 1997)) の本質については何も述べていない.
    • 一般的状態に関して,上述の必然性は de re である (\exists S\Diamond(X in S \rightarrow p)).
  • 以上の説明は「知る」という概念を分解したものではない (意味論的に分析不可能だから).では何なのか.
  • 類比: 「イスタンブールコンスタンティノープルだ」と考えている人が,みな「イスタンブールコンスタンティノープルライプニッツ則に従う反射的関係を持つ」と考えているわけはない.
    • 確かに,同一性の「ある」 (is of identity) 概念を持つ人は,ライプニッツ則に従って推論する何らかの傾向性を持つ必要がある.しかしだからといって,ライプニッツ則の定式化に用いられるメタ論理学的概念を持つ必要はない (あったとすれば無限背進するだろう1).
  • 主体が定式化できない規則に従って推論する傾向にあるとはどういうことか,を言うのは簡単ではない.そうした主体は規則を意識的に斥ける場合すらあるだろう.それでも,そうした傾向性の観念は必要である.
    • ここまでの説明は Peacocke 1992 における概念の理論と整合的である.とはいえ,特段 Peacocke の一般的プログラムへのコミットメントを含むわけではない.
  • 知ることと正当化されていること,結果となること (caused),信頼できること (reliable) との関係は依然説明が必要である.
    • この問題は目下の説にだけ生じるものではない.知ることを因果性から説明する場合,正当化への感受性 (sensitivity) は別途説明されねばならない.逆もしかり.
  • 目下の説による応答として,状態に関する形而上学を使うやり方が考えられる.2-3 章では認識論と心的状態の本性との関係をさらに研究する.認識論は心の哲学の一分野と見なせるのである.

1.5 知ることと信じること

  • 歴史的には,知ることを心的状態と見なす見解は,知ることが信じているのではないこと (not believing) を含意するという見解と結びついていた (Prichard (1950: 86-8)).
    • 他方で,標準的見解によれば,知ることは信じることを含意する.
    • そして,両者の中間には,知ることは信じていることとも信じていないこととも整合的であるという考えがある.
  • 以下の図式を考察する必要がある:
    • (21) S が A を知っているなら,S は A を信じている.
    • (22) S が A を知っているなら,S は A を信じていない.
      • 知ることを真なる仕方で信じていること +α で分析する必要がなくなったので,いまや (21) はそうした必要と独立に吟味できる.
  • (22) は尤もらしくない.
    • 私が A だと告げられたときにそれを知っているかどうかは,情報提供者が A を知っているかどうかに構成的に依存する.一方で,A だと告げられたときにそれを信じているかどうかは,そのことに構成的に依存しない.しかし,知ることが信じることを排除するなら,依存することになってしまう.
    • 確かに,知っている場合を指して「信じている」と言うのがミスリーディングである場合はある.しかしだからといって,偽であることにはならない.
  • (21) は自明に妥当とまでは言えない.
    • 歴史の試験の受験者が自信のないまま,しかし信頼性のある仕方で,ある日付を推量する場合,「知っているが信じていない」と言うのは誤った語法とは言いきれない.
    • とはいえ,こうした例で受験者が知っているかどうか,信じているかどうかは,直観が分かれるところだろう (Radford 1966, Armstrong 1973, Shope 1983).
  • 'Know' と 'believe' にはいろいろな文法的相違点がある (Austin 1946; Vendler 1972; Shope 1983).
    • 例: 雨が降ることを私が予想していたとき,'You know what I predicted' には「雨が降るだろう」と私が予想していたと君が知っているとき,そのときのみ真になるような読みがある.'You believe what I predicted' には同様の読みはない.
    • Vendler は,「know が事実を目的語に取るのに対し,believe は命題を取るのだ」と説明する.こう説明してしまうと,(21) が妥当であるべき理由は分からなくなる (ただし (21) と不整合ではない).
  • 仮に Vendler の見解を受け入れても,知ることは依然として命題的態度を伴いうる.
    • Vendler の見解だと,'A' が偽の場合,'S knows that A' や 'S knows that A' は命題を表現しなくなってしまう.しかし,実際には偽なる命題を表現する.
    • 'A' を 'the fact that A' の省略とみなして,ラッセル的な記述理論で分析することもできよう.その場合,'fact that A' は 'A' が表す命題 p の関数 f(p) になり,結局 'know' で p との複雑な関係を指しうる.
    • とはいえ,そもそも Vendler の見解は尤もらしくない.
      • まず,真なる命題の他に事実なるものがあるかは疑わしい (Williamson 1999).
      • かつ,'I always beleieved that you were a good friend; and now I know it' のような言葉づかいは,'believe' と 'know' の目的語が同じであることを示唆する.
  • 「本書の説明は,信じることと知ることの概念的つながりの基盤を提供しない」という理由で,本書の説明と (21) を不整合と見なしたくなるかもしれない.しかし,それは誤っている.
    • (21) が妥当ならば,そのつながりを「知る」の「信じる」による分析によって解明できる必要がある,と想定するのは間違いである.
      • 類比: 深紅であることは,おそらくアプリオリに,赤いことの十分条件である.しかしそのことは一方の分析によって説明されるわけではない.
  • むしろ「信じる」の「知る」による分析によって (21) を妥当なものにする,という提案もありうる.
    • 最も単純な提案は,「信じる」を「知る」と別の概念との選言とみなすものである.ここでは別の概念を「思いなす」(opine) と呼ぶことにする.
      • i.e., p だと信じている iff. p だと知っている,または,p だと思いなしている.
      • McDowell (1982) が,知覚の選言説を土台にして,同様の考えを提案している.
        • McDowell によれば,信じることは知ることと思いなすことの最大公約数ではない.そうした最大公約数は存在しない; 知ることと思いなすことは相互排他的状態である.
        • これは Vendler 的な事実の存在論と重ね合わせることもできるが,そうした存在論を必要とするわけではない.
  • 選言説論者は必ずしも概念分析を与えているとは主張しないだろう.そう主張する場合,1.3 で挙げた以外の困難が出てくる:
    • 「信じる」という概念が「知る」と「思いなす」の選言だとすると,「思いなす」概念を「信じる」概念と独立に把握しうる必要がある.しかし,それは困難である.
  • 「思いなす」を「知る」から説明できるだろうか.
    • 案1. p と思いなしている iff. p を知ることと自分で区別できない状態にある.
      • しかし,これだと p を把握できない場合が入ってしまう.
    • 案2. p と思いなしている iff. p を知ることと区別できないような p への態度を取っている.
      • しかし,これだと知ることも入ってしまい,信じることの選言的分析にならない.
      • これに「……が,知ってはいない」と付け加えると,それと「知る」との選言は全く人工的なものになる.
  • 「思いなす」を「錯覚にある」「非合理に確信している」等々の選言として説明できるだろうか.
    • だが,「信じる」概念を用いずにリストを拡張していけるとは思えない.
  • 以上の現象は,概念分析を試みない形而上学的選言説をも脅かす.
    • p だと単に信じること (merely believing p) が,p だと信じること以上に統一的な心的状態であると見なす,それ以上の理由がないからである.
      • ゲティアケースと正当化されていない偽なる信念とをまとめるのは,どちらも知ることなしに信じているという点にすぎない.そして,知識を除外するような積極的特徴によって,両者が同じところに分類されるとは考えにくい.
      • さらに,信じることの分類 (taxonomy) が信じるという概念を用いずにすむとは考えにくい.
        • 同様の反論は知覚・現れ・経験の選言説にもあてはまる.
  • そして,別に選言説に頼らなくとも,(21) は説明できる.例えば上記の案2を採ればよい.この定義が知ることを信じることの説明の中心に据えていることは示唆に富む.例えばこれによって,ヒュームが指摘した,思いのままに信じることの困難さを,思いのままに知ることの困難さから説明する見込みが出てくる.また 1.4 とも整合的である.
  • ただし,案2も,信じるという概念を完璧に捉えてはいない.
    • 案2では,知っているという概念を欠いており,食べ物が目の前にあることを望んでいるだけの原始的動物に,食べ物が目の前にあるという信念を帰属してしまう.
    • また,神がいると知らないことを知っている人が,あえて神を信じる場合に,その人が信じていないことになってしまう.
      • しかし,以上二つの例は,「p だと信じるとは,p だと知っているかのように p を扱うことだ」という変種によって,うまく扱える.
      • この変種はまた,従前の自信のない受験生の例もうまく説明する (受験生ははっきり知っていないのと同じ理由ではっきり信じていない).
  • p だと信じるとは,p だと知っているかのように p を扱うことだとするなら,知ることは信じることにとって中心的である.
    • 知識は信念の適切さの基準を定めるからである.
    • もっとも,知ることの全事例が信念の範例となるとは限らない (p を知りながら,ある意味で知らないかのように扱う場合もある).
    • それでも大体の場合,知識から遠ざかるほど,信じることは不適切になる.手短に言えば,信念は知識をめがける (aims at) (cf. 9-10章).
  • 選言説は気持ちとしては正しい: 信じることは知ることの最大公約数ではないが,それはそもそも信じることが約数・因子 (factor) ではないからだ.
    • 重要なのは信念の選言説を受け入れることではなく,知識の連言説を斥けることなのだ.
    • また,「信念は知識をめがける」という主張は,錯覚が真理的な知覚 (veridical perception) に寄生しているという選言説の提案と調和する.
  • 信念が知識をめがけるように,様々な心的過程がより特定された叙実的心的状態をめがける.
    • 例: 知覚はこれこれであることの知覚を,記憶はこれこれであることの記憶をめがける.
    • それらの過程はすべて,ある種の知識をめがける.
    • 生物がそれに成功する能力なしにそうした過程に携わることがありえないとすれば,知るという能力なしには何ものも心を持ちえなかっただろうと推測できる.

  1. ライプニッツ則の定式化に同一性の「ある」概念が必要だから.