アリストテレス存在論と神学の関係の諸解釈(古代から1970年代まで) Owens (1978) The Doctrine of Being, Ch.1

  • Joseph Owens (1978) The Doctrine of Being in the Aristotelian Metaphysics, 3rd ed., Pontifical Institute of Mediaeval Studies.
    • Part One. The approach to the Aristotelian treatment of being.
      • Chap.1. The problem of being in the Metaphysics. 1-68.

初版1951年.本章は改訂版で大きく増補されている.


〔初版: 第一哲学の統一性に関する1940年代までの論争状況〕

  • プラトン的〈あるもの〉 (Being) は ens perfectissimum, アリストテレス的〈あるもの〉は ens commune」(Fuchs, Die Proprietäten des Seins bei Alexander von Hales).
  • この見解の背景には,アリストテレスの第一哲学に関する特定の見解がある (Fuchs は Jaeger を引く).
    • Natorp は Met. のテクストを二系統に区別し,それらが第一哲学の「相互排他的な」捉え方を示していると述べた上で,一方を初期ペリパトス派によるプラトン的要素の竄入と見なす.
    • 他方 Zeller は,矛盾がアリストテレスの教説の基礎に存する (ために本文批判によっては解決できない) と指摘する.
    • Jaeger は発展史観によってこれを解決する.
  • Jaeger 説の成否は中世哲学研究の前提も左右する (例: Fuchs 前掲書).
  • だが,中世哲学者は,どちらの見方も取ることができない.
    • 一方で,〈あるもの〉は最も抽象的で空虚な概念ではありえない.むしろ〈あるもの〉はすべてを含み,それ以上種差や付帯性を付け加えることができない.
    • 他方で,〈ありてあるもの〉としての神は人間の認識を超越しており,形而上学の対象たりえない.
  • 中世の主要な哲学者は,〈ある限りのあるもの〉を第一の〈あるもの〉とは区別した.
    • アルベルトゥス・マグヌスは,神が第一哲学の対照出ることをプラトン的であり偽であるとした.
    • アクィナスは,第一哲学は第一原因と分離実体を扱うものの,ens commune のみが主題となると述べた.
    • ブラバンのシゲルスは,神は "entis, secundum quod ens, non est principium" だとした.
    • スコトゥスは,「ens in communi の学」という捉え方をアヴィセンナに,「神と分離実体の学」という捉え方をアヴェロエスに帰する.また「実体の学」という捉え方も論じる.全ての捉え方は一つ目に還元される.
      • オッカムも同様である.
  • 中世哲学者は様々な捉え方の存在を知っていたと言える.だが,それをアリストテレスの枠組みに収めるのは無理ではないか.聖書の教えとアリストテレスの技術を共有していた人々が,どうしてこれほど多様な見方をしたのか.この点の説明が必要である.
  • Met. 自体,〈あるもの〉の学知を多様に説明している.
    • 第一原因・原理の学知 (A1),
    • 〈ある限りのあるもの〉の原因の探究 (Γ1, E1, K1),〈ある限りのあるもの〉の普遍的探究 (Γ1, K3),
    • 神的で不動の〈あるもの〉を扱う「神学」 (E1, K7),
    • οὐσία の学知 (B2, Z1, Λ1),第一の οὐσία の学知 (Γ3),οὐσία の諸原因の学知 (Γ2, H1, Λ1),可視の神的事物の原因の学知 (E1),
    • 真理の学知 (A3),形相の学知 (Phys. 1.9).
  • アリストテレス自身はなんら矛盾を見ていない.問題を指摘する箇所でも真に問題だとは考えていない (K8, cf. E1).
  • ギリシャの注釈者は一致して,形而上学の主題である〈ある〉限りの〈あるもの〉を離在実体だと見ていた.
    • 既にテオフラストスが,第一の学の対象を神的なものと理解している (Met. I.1-4).
    • ロドスのエウデモスも,第一原理を単に抽象的に扱われるものとしてではなく,一定の本性をもつものとして捉えている.
    • アレクサンドロスによれば,第一哲学が普遍的なのは,他のすべてのものの〈ある〉の原因となるという意味で第一のものを扱うからである (In Met. 245.29-246.13).
    • アレクサンドロスも同様の解釈を行う.ただし「普遍」を劣ったものを「含む」という意味には解さない (In Met. 661.33-39).
    • シュリアノス (55.3-16),アスクレピオス (1.17-20; 225.14-226.25; 364.22-25; 232.4-11),エウストラティオス (In EN 42.10-12) も同様.
  • 19世紀のアリストテレス著作への関心の再生によって,ただちにこの問題が表面化したわけではなかった.
    • Ravaisson は特に問題視せず,ギリシャの伝統に従っている.Schwegler, Bonitz, Zeller, Grote も同様.
      • ただし Zeller は後に Natorp に応えて οὐσία の両義性に矛盾を見る.
  • Natorp によって,Met. の二重性の深刻な含意が表面化する: 二つの見地は相互排他的であり,第一哲学は「神学」と同定できない.
  • Piat は何ら問題を見ない.
  • Gomperz は反対に矛盾を深刻に捉える.
  • Apelt は「ある」の諸義を繋辞に還元しこれを空虚なものと見なす.
  • Dimmler も Apelt 同様の文法的アプローチを採る.
  • Rodier は,「ある」がものに属するのは実体への参照と類比によるとする.二つの見地は究極的に同一である.
  • Hamelin は,ふつう普遍は実在的な主題をもつ学知の対象たりえないと指摘し,アリストテレスの普遍を特殊な意味に解する (ギリシャ路線).
  • Jaeger は発展史によって矛盾を解消する.
  • Ross は二つの見地がともに「真正のアリストテレス的」見解であることを認める.
  • Carlini は問題に目を留めつつも特定の解決を認めない.
  • Hans v. Arnim は Jaeger 的な二重性を認めず,アリストテレスの〈ある〉はパルメニデスの要件を満たす単一のものしかないと論じる.
  • Endre v. Ivanka も二つの見地に矛盾を認めない.
  • Emilio Oggioni は Jaeger 流の発展史を採る.
    • 〈ある〉限りの〈あるもの〉としての形而上学は最終段階に位置するが,これも三義あるとする (あるもの一般,実体,付帯性により規定された実体).
  • Robin も Hamelin 同様,普遍の特殊な性質によって解答する.
  • Verbeke は矛盾の存在を認めない.
  • Giovanni di Napoli は Jaeger 的二重性を認めつつも,二つの見地を密接に関係づけ,感性的対象の研究を通じてのみ人間の思考は不動者に至りうるとする.
  • A. H. Armstrong はギリシャ的見解に回帰する.
  • Muskens は Jaeger の時系列を逆転させる.また後期に位置する E 巻における〈ある〉限りの〈あるもの〉を「万物の本質」と解し神と並置する.
    • また〈ある〉限りの〈あるもの〉に複数の意味がありうることを指摘する.

〔改訂版の追記: それ以後の動向〕

  • このように,神学と存在論のどちらを放棄するか,あるいはどちらも保つか,が問題であった.
  • Merlan は Owens の初版に大筋で同意する: アリストテレスに一般形而上学は存在せず,「ある限りのあるもの」は最高存在を意味する.「限りの qua」は述定のみならず主体自体の本性を指すことができ,ゆえに「ある限りのあるもの」はここではあるものの本性,つまりその第一の事例を指す.
    • だが同名異義の場合,第一の事例にのみ自然本性が見いだせるとしても,その他の諸事例が外延から排除されはしない.
    • Merlan は,アリストテレスによる,対立二原理説による「普遍」の説明と純粋な論理的カテゴリーとしての「ある」の説明の間に「亀裂 rift」を見る.
      • だが,学知の基礎に置かれる類に要求される普遍性に関する限り,参照による普遍性は「通常の」普遍性と同一の用をなす.
  • Giovanni di Napoli (1953) は,質料の捨象 (prescinding) と排除 (excluding) を区別する.前者の「論理-方法論的」超越からは「ある限りのあるもの」が,後者の「存在論的」超越からは不動者が得られる.アリストテレスは両者の違いを認識していたものの,その対立を克服することなしに一方を他方に伴わせた.
    • だが,「ある限りのあるもの」は質料的事物と非質料的事物に共通であり,その両方からの抽象ということは考えにくい.
    • 「ある」の概念が「通常の」普遍化プロセスによって得られるのかどうかは基礎的な問題であり,Di Napoli は「ある」の概念にアプリオリな地位を与えない点ではヴォルフ的合理主義とは全く異なる.
  • Feibleman (1953) の「有限存在論者」説は問題の論争と全く関係ない.強いて言えば神学と存在論の両方の放棄を意味する.
  • Wundt (1953) は Jaeger と逆転した発展史を提出する.
    • Gohlke (1954) はこれに従う.
  • Marx (1954) は存在論を実体論のうちに位置づける.(1972) ではそれをさらに神学と密接に結びつける.
  • Nogales (1955) はアリストテレス形而上学原因論的/神学的/存在論的側面の三つを見出す.神学は排他的であり,形而上学の普遍性は専ら第三の側面によって担保されるという.ただし今日伝えられる著作に「真正の存在論」は存在しない.それでも神学-存在論的融合が学知の統一的性格を保証している,とする.
    • (1972) では第一実体の研究において目的論が普遍的存在論となっているとする.存在の普遍的本性は神的存在にほかならない.
  • Geiger (1957) はスコラ的抽象概念を用いて,一方では概念を対象とする「一般存在論」を避け,他方では「完全存在の学知」を避ける.結果として Natorp 的断絶が問題になるが,神学もより広い第一哲学の対象の「うちにある」対象を扱う点で互いに関係する.
  • Moraux (1957) は非質料的実体のみを扱う形而上学があったという考え,したがって Natorp の二分法,に疑問を呈する.
  • 他方 Manno (1957) は二分法を前提した上で,第三の見方としての「第一原因の学」が両者を (不完全に) 媒介するとみる.
  • Moser (1958) は二つの学が異なる始点から出発しついに統合されずに終わったとして,アリストテレス形而上学を体系的でなくアポレーマ的と特徴づける.
  • Theiler (1958) は,アリストテレス神学からは神を知ることがその他あらゆる形相を知ることになるという帰結が生じるが,アリストテレス自身は当の帰結を導くことをためらったとする.
  • A. Mansion (1958) は Muskens および Merlan を批判し,スコラ的な抽象の三段階説を援用して神学と普遍学を接近させた上で,それでも二分法は解消できないと論じる.
    • Soleri (1958) も Merlan 的な対象の同一視を批判した上で,むしろ存在論的領野において二つの学の関係を見て取れると考える.
  • Wagner (1959) は50年代には珍しく Merlan を擁護する.
  • 50年代の議論は Jaeger の反動として統一性を求める傾向にあり,その際,一般形而上学の放棄が解決策の一つとして認められた.
    • これに対して第一に,神を学知の対象とすると,超感性的なものから感性的なものへの進行が必要になり,DA の認識論に反するという批判がある.だがむしろ,感性的なものから出発することこそが,神学を普遍学にする1
    • 「ある限りのあるもの」は対象ではなく側面を指すはず,という反論もある.だが Merlan はこれに応答できている.
    • 存在論の放棄に近い立場として,それを発展史の中間段階に位置づける立場がある.
  • Patzig (1960) は,アリストテレスの神学としての神学は普遍的存在論であり,存在論としての存在論は本質的に・まずもって神学であると論じる.神的実体は第一の存在者だからである.そして,諸実例は派生名的 (paronymical) だという存在論が,後期に類比的存在論へと移行したとする.
  • Décarie (1961) は,〈ある限りのあるもの〉とその原理とが同一ではありえないために,存在論と神学の対象は異なるとする.
    • だが,この問題設定は,任意のもののうちに本質的に見いだされる自然本性と,第一実体にのみ本質的に見いだされ参照によって他のものに見いだされる自然本性とを区別できていない.実体の第一原理は〈ある限りのあるもの〉であり,これが他のあるものどもの原理となる.
  • Reale (1961) は第一哲学の四側面として原因論,神学,存在論,実体論を挙げる.実体論が残り三つの視野を開くが,神学がそれらの焦点をなす.
    • やはり存在論と神学を重ね合わせる格好だが,ここで言われる存在論はミニマムな内容の対象の研究ではなく,存在論と神学の関係に関する当初の問題設定を離れる.
  • Dhondt (1961) も同様に Merlan の同一視を退け存在論を実体論にする.
  • Kremer (1961) はギリシャ的伝統に従い存在論を普遍学と完全に同一視する.
  • Lugarini (1961) は哲学を特殊科学の集合とする一方,それらは全て οὐσία =〈ある限りのあるもの〉を対象とし,神学を οὐσία それ自体を扱う一分野とする.
  • Aubenque (1962) はアリストテレスの議論が (1) アポレーマ的・問答法的であり決着をつけられていないこと,(2) Met. は二つの始点をもつことを論じ,(3) 二つの始点を歴史的にある二重の問題系に位置づける.(1) (2) ではなく (3) の点において新規性を有する.
  • Elders (1962) も Jaeger を引いて形而上学を二元的に捉える.ただし Jaeger とは違って存在論的要素をプラトン的初期局面に位置づける.
  • Kaliowski (1963) は,アリストテレス思想に,後にトマスが展開した神学にして存在論である「原因論」の萌芽を見る.
  • Krämer (1964) は第一哲学がそのアカデメイア起源において有した演繹的性格を失った結果神学とのつながりが緩やかになったのだと論じる.
    • Krämer (1967) は普遍がそこから従うような第一性はアカデメイア的背景のもとでしか理解できないと主張する.
  • Berti (1965) は神が〈ある限りのあるもの〉の原因であり,両者を同一学知の二つの対象とみなして,対立の解消を図る.
    • だが (1970) (1972) ではこの方針を放棄する: 神は演繹の始点たる経験の対象ではないため,神についての学知はありえない.
    • 他方 (1977) では問答法からの発展ゆえに存在論と神学はともに学知と呼ばれうるとする.
      • この知的遍歴は,Natorp が想定するヴォルフ的枠組みにアリストテレス神学が組み込まれえないことをよく示す.
  • Düring (1966) はしかし依然 Natorp 的矛盾に困惑を示す.
  • Oehler (1969) は Krämer に従い実体論がアカデメイア派の演繹体系の伝統から理解されるべきとする.
  • Routila (1969) はアリストテレスが普遍学を形相の学に基礎づけようとした一方,それが宇宙論から存在論へと発展していったと論じる.当の発展において πρὸς ἕν λέγεται τὸ ὄν という上部構造は一貫している.そうして生み出された存在論は神学と同一 (存在神論) である.
    • 存在論は A の原理論とオルガノンの問答法が qua アプローチによって Umbildung を被ったものである.
    • Routila は〈ある限りのあるもの〉を抽象的対象にしてしまっており,οὐσία との同一視を退けている.
    • Patzig とは反対に,類比的存在論は初期に位置づけられる.
  • 60年代には存在論と神学の役割をともに保持する統一的説明を求める傾向が支配的になった.
    • 一方が他方を含む説 (Patzig, Reale, Dhondt, 初期 Berti, Routila),ないしは少なくとも存在論が神学に開かれている説 (Décarie, Elders, Kalinowski),アカデメイア起源からの説明 (Krämer, Oehler, Elders),が提唱された.
    • 他方で存在論と神学を対立させる退行的傾向もあった (Düring, Lugarini, Elders).
    • 最も重要なのは,存在論と神学は平行的ですらなく,どちらも学知でないとする説である (Aubenque).
  • König (1970) も統一的視座に立つ.神を特殊な対象とする一方,第一原理を扱う存在論は神も扱いうるとして,矛盾を認めない.
  • Happ (1971) は存在論を空虚な概念を扱うヴォルフ的学知とも完全な対象を扱う神学とも同一視できないとして,その中間に自身の立場を位置づける.この場合しかし神学はヴォルフ的特殊科学となるように思われる.
  • Bärthlein (1972) は Natorp 的な存在論観に回帰する.
  • Ryan (1973) は純粋に哲学的見地から Natorp 同様に神学を放棄する.
  • Leszl (1975) は言語的・論理的分析アプローチによりアリストテレスの自律的存在論を確立する.その際神学はアリストテレスの枠組みから排除されるわけではなく,単に形而上学の対象とは無関係とされる.
    • その際 K は削除し E1 末尾の意味を薄める.
  • Gómez-Lobo (1976) は τὸ ὄν が対象を指し ᾗ ὄν が認識動詞の修飾であるとする.
  • 70年代には60年代の統一的視座の傾向が続いたが,徹底して存在論的な見地への強い反動が見られた.
  • Natorp 以来以下の異なる諸傾向が存在する.
    1. 神学の存在の否認.
    2. アリストテレス形而上学の哲学的自己矛盾を認める.
    3. 発展史.
    4. 矛盾をアリストテレスが直面した二重の問題系から説明する.
    5. 神学と存在論を統一的学知の両立可能な二側面とみなす.
    6. 存在論の存在の否認.
  • とはいえ,ギリシャの注釈者が一致して神学的解釈を採っていること,感覚的 οὐσία から離在的 οὐσία への焦点的参照の存在,存在論の非ヴォルフ的性格,は一致して認められてきている.
  • 他方,神学の非ヴォルフ的性格はそれほど認知されていない.神学は普遍学でなければならず任意の感覚的存在者を出発点とする必要がある.

〔探究指針〕

  • 問題は普遍と〈あるもの〉の関係であり,究極的には形相と個物の関係である.普遍は実在性と同義なのか,その反対なのか.第一原理に抽象は存在するのか.したがって究極的にはアリストテレス的形相の性格が問題になる.

  1. 問いもよく分からないが答えも問いに対応していない.