Γ4「第一論駁」の論証構造 Dancy (1975) Sense and Contradiction, Chap.II
- R. M. Dancy (1975) Sense and Contradiction: a Study in Aristotle, D. Reidel.
- Chapter II. The First Refutation: General Structure. 28-58.
丁寧に議論しているようではあるのだけど,文章がうねっていて読みづらい.以下の要約でも筋を通せていない箇所がいくらかある (特に IV.B).
Γ4 の最初の議論 (1006a11-34) を「第一論駁」と呼ぶことにする.この論駁では 'τὸ ἀνθρώπῳ εἶναι' が鍵概念になる.アリストテレスによれば,「人間でないこと」に置換しても同じ議論ができるという (b34-a1).本書は 1006b34-1007a20 は第一論駁の補遺として扱う.
まず全体を概観し (sec. I),次に議論の怪しい部分を指摘し (II),少なくとも一つ反論できることを示し (III),最後に概観から漏れた部分を指摘する (IV).
第一論駁の理解には想定論敵の役割を理解する必要がある.III 章では論敵構築の背景を扱い,IV 章ではその成果を第一論駁解釈に適用する.V 章では第二論駁 (1007a20-b18) を扱う.
### I. 論証の筋
- (D) 「人間」が意味表示するのは二足の動物である.
- (1) 必然的に,何かが人間ならばそれは二足の動物である.(定義 (D) より)
- (2) 人間であるものが二足の動物でないことはありえない.( (1))
- (3) 人間であり,かつ人間でないことはありえない.((2) の「二足の動物」を (D) によって置換する)
「必然的に」の用法に疑問を抱くことができるかもしれないが1,ここでは単に「何かが人間であるなら,それは二足の動物でしかありえない」というほどの意味だろう.ここでは「必然」「可能」の用法に論敵が同意したものとして話を進める.
問題の一つは,(D) からは PNC の一つの実例しか示せていないことだ.アリストテレスはしばしば論敵が任意の実例が矛盾すると主張しているかのように振る舞う.この点は後に論じる.
論敵が何を言うかはそれほど問題ではない.もちろん本当に何でも良いわけではない: 例えば,論敵が「よかろう」(yes) と言うだけなら,上記の議論は成立しない.とはいえ,論敵は無矛盾律を否定しているのだから,「何らか述語の位置に入るものがあり,それが何かを意味表示している」という前提へのコミットメントはあるとみなせる.
そういうわけで,論敵はまず発話する:
- (U) 人間.
次いで論敵は次のことを明示的に認めることになる (1006a18-22 の時点では疑わしい.少なくとも 1006a28-30 の時点では認めている).
- (S) 「人間」は何かを意味表示する.
これを「何か」を具体的にすると:
- (almost-D)「人間」は二足の動物を意味表示する.
これはまだ (D) ではなく (1) を保証しない.二足の動物しか意味表示しないことも認めねばならない.論敵は 1006b11-13 までにはこれを認めており,1006a31-34 でこれを準備している (lay it out):
ἔτι εἰ τὸ ἄνθρωπος σημαίνει ἕν, ἔστω τοῦτο τὸ ζῷον δίπουν. λέγω δὲ τὸ ἓν σημαίνειν τοῦτο· εἰ τοῦτ᾽ ἔστιν ἄνθρωπος, ἂν ᾖ τι ἄνθρωπος, τοῦτ᾽ ἔσται τὸ ἀνθρώπῳ εἶναι·
τὸ ἀνθρώπῳ εἶναι の意味をひらければよいのだが,できない.しかし大雑把には,有意味な語はその適用条件と結びついている,ということだと思われる:「〜は人間だ」が真なのは,二足の動物のとき,そのときに限る.こうして (1) が得られる.
II
以上の議論は語の有意味な使用の実践から PNC を導くもので,多くの追随者を生んだ (Leibniz, Spinoza, McTaggart, Quine etc.).だが,ここでは意味・コミュニケーション・必然性についてのどのような理論が必要なのだろうか (アリストテレス自身は理論を与えてはいない).
Quine は次のように言う: "in point of meaning, ... a word maybe said to be determined to whatever extent the truth or falsehood of contexts is determined." そして肯定・否定の振る舞いに基づいて否定と連言の意味論的基準を決める.Quine が言うには,"This approach ill accords with a doctrine of "prelogical mentality". To take the extreme case, let us suppose that certain natives are said to accept as true certain sentences translatable in the form 'p and not p'. Now this claim is absurd under our semantic criteria. ... Wanton translation can make natives sound as queer as one pleases, Better translation imposes our logic on them, and would beg the question of prelogicality if there were a question to beg." だが,この方針だと,例えば "Motion itself is a contradiction ..." と述べるエンゲルスのドイツ語文をまともに翻訳できなくなる (根源的翻訳かどうかはこの際無関係である).エンゲルスは自分の論点について議論する用意さえあるはずだ.
III
先述の (U), (S), (D), (1)-(3) の代わりに,次の論点を説得させるとする.
- (1b) 必然的に,何かが人間なら,それは人間だ.
ここから (3) が出る.とはいえ (1b) は PNC の見え透いたヴァリアントにすぎず,論敵を説得できないだろう.――しかし,(1) なら論敵は快く認めるのだろうか.
実際のところ,語を有意味に用いる実践は,何ら必然的真理の承認を要求するものではない,と論じることもできそうである.たとえば「人間」が何を指すかについて二人の人が大まかに合意しているとしよう.それでも,人間のリストに何が入るのかについて,両者が完全に一致しないことはありうる.例: フランケンシュタイン博士が作った人間の生き写しが人間かどうかについて,どうしても意見が一致しない場合.このとき,「人間」ということで二つ以上のことを意味しているわけでもない.我々の同意 (や不同意) が共有された (ないしは別々の) 定義についての反省だとは限らない.
もしこのように論敵が考えたなら,論敵は「人間が何かである」の「何か」を埋めることができるという原理的な可能性を拒否していただろう.そしてこうした見解は,必ずしも相対主義や主観主義を帰結するものではない.もっとも論敵の実際の反論は,主観主義に導くものではあったのだが.
IV
第一論駁では二つの想定反論が扱われる.一つは (D) の前提たる意味の一意性に,もう一つは (D) の使用に関わる.
A. 一つ目の反論の筋:「人間」は一つ以上を意味表示する
διαφέρει δ᾽ οὐθὲν οὐδ᾽ εἰ πλείω τις φαίη σημαίνειν, μόνον δὲ ὡρισμένα, τεθείη γὰρ ἂν ἐφ᾽ ἑκάστῳ λόγῳ ἕτερον ὄνομα· λέγω δ᾽ οἷον, εἰ μὴ φαίη τὸν ἄνθρωπον ἓν σημαίνειν, πολλὰ δέ, ὧν ἑνὸς μὲν εἷς λόγος τὸ ζῷον δίπουν, εἰσὶ δὲ καὶ ἕτεροι πλείους, ὡρισμένοι δὲ τὸν ἀριθμόν· τεθείη γὰρ ἂν ἴδιον ὄνομα καθ᾽ ἕκαστον τῶν λόγων· εἰ δὲ μή τεθείη, ἀλλ᾽ ἄπειρα σημαίνειν φαίη, φανερὸν ὅτι οὐκ ἂν εἴη λόγος· τὸ γὰρ μὴ ἓν σημαίνειν οὐθὲν σημαίνειν ἐστίν, μὴ σημαινόντων δὲ τῶν ὀνομάτων ἀνῄρηται τὸ διαλέγεσθαι πρὸς ἀλλήλους, κατὰ δὲ τὴν ἀλήθειαν καὶ πρὸς αὑτόν· οὐδὲν γὰρ ἐνδέχεται νοεῖν μηθὲν νοοῦντα ἕν, εἰ δ᾽ ἐνδέχεται, τεθείη ἂν ὄνομα τούτῳ τῷ πράγματι ἕν. (1006a34-b11)
アリストテレスは一見,一個,有限個,無限個という厳密に排他的な選択肢を出しているかのように見える.論敵は「人間」が無数に多くのものを意味表示するから一つを選べないと言う.ここでアリストテレスは,このとき一つを選べない以上,全く何も意味表示しない,と主張する.これは「全てに定義を与えるのに充分な語句が存在しない」という主張とは全然異なる.しかし,無限個だということからは後者の結論しか出せないはずである2.
アリストテレスの主張を出すためには,一,多数,不確定な曖昧さ (indefinite blur),という三つ組でなければならない.この場合は前節の反論に近づくように見える.だが,実際はそうなっていない3.
B. 二つ目の反論の筋: 否定について
アリストテレスは「人間」が二足の動物だけを指すという規定を用いる:
ἔστω δή, ὥσπερ ἐλέχθη κατ᾽ ἀρχάς, σημαῖνόν τι τὸ ὄνομα καὶ σημαῖνον ἕν· οὐ δὴ ἐνδέχεται τὸ ἀνθρώπῳ εἶναι σημαίνειν ὅπερ μὴ εἶναι ἀνθρώπῳ, ... (1006b11-14)
そして次のような注意書きを加える:
εἰ τὸ ἄνθρωπος σημαίνει μὴ μόνον καθ᾽ ἑνὸς ἀλλὰ καὶ ἕν· (b14-15)
この一文は「一つを意味表示する」に負荷がかかっていることを示唆するが,実際には述定と区別しているだけである.そのことは次の一節からも分かる.
οὐ γὰρ τοῦτο ἀξιοῦμεν τὸ ἓν σημαίνειν, τὸ καθ᾽ ἑνός, ἐπεὶ οὕτω γε κἂν τὸ μουσικὸν καὶ τὸ λευκὸν καὶ τὸ ἄνθρωπος ἓν ἐσήμαινεν, ὥστε ἓν ἅπαντα ἔσται· συνώνυμα γάρ. (b15-18)
要するに,この区別を認めないと,エレア派的一元論が帰結する (cf. 1007a4-8).
また 1007b18-26 では別の仕方でこの結論を導いている (「同じものが三段櫂船でも壁でも人間でもあるだろう」).「三段櫂船と壁と人間が同じことを意味する」ということからこれを導くには,不可識別者同一の原理が必要である.もっとも,その原理によってギャップを埋めるのがアリストテレスの思考に即しているとは思われない.ここではこの点はこれ以上追求しない;「白い」「教養ある」「人間」が同じものを指すだけで充分奇妙である.
問題は,ここから τὸ ἀνθρώπῳ εἶναι と ὅπερ μὴ εἶναι ἀνθρώπῳ を同一視できないことがなぜ導かれるのか,である.そもそもアリストテレスがこれを主張する必要はないように思われる.ではなおさら,なぜ彼はこう言ったのか.――おそらく,論敵に意味表示概念を一から分からせようとした結果だろう.論敵は「人間である」「人間でありはしない」が同じものに述定できると思っている一方で,「述定できる」と「意味表示する」の違いをよく分かっていない.そこで,「人間が二足の動物を意味表示する」ことを受け入れたときに,「二足の動物は同時に人間でない」とも主張しようとする.そこでアリストテレスは,論敵が混乱に陥っていることを指摘する.
さて,「人間」の適用条件とその適用を控える条件が一致しないとして,論敵はなぜ間違っていることになるのか.アリストテレスはこの点を素直に証明しない.むしろ彼は次の文で自らの手の内を明かしてしまう:
καὶ οὐκ ἔσται εἶναι καὶ μὴ εἶναι τὸ αὐτὸ ἀλλ᾽ ἢ καθ᾽ ὁμωνυμίαν, ὥσπερ ἂν εἰ ὃν ἡμεῖς ἄνθρωπον καλοῦμεν, ἄλλοι μὴ ἄνθρωπον καλοῖεν·
ここではむしろアリストテレスが述定と意味表示を混同しているように見える.その理由は部分的には論敵が討論で果たしている役割に存する.論敵が「二足の動物は人間であり,かつ人間でない」と言うとき,それは単に同名異義性に基づく混乱である.
τὸ δ᾽ ἀπορούμενον οὐ τοῦτό ἐστιν, εἰ ἐνδέχεται ἅμα τὸ αὐτὸ εἶναι καὶ μὴ εἶναι ἄνθρωπον τὸ ὄνομα, ἀλλὰ τὸ πρᾶγμα. (b20-22)
PNC が示されたとアリストテレスが考えていればここで終わっても良かったはずだ.しかし彼は,以下の数行で,論敵の特定の混乱に対処する.その混乱は (D) を脅かし,結果 (1) を脅かす.混乱によって (1) は (1') に置き換えられる:
- (1') 必然的に,何かが人間なら,それは二足の動物であり,何かが人間でなくてもそうである.
そこから:
- (D') 二足の動物は「人間」が意味表示するものであり,「非人間」が意味表示するものでもある.
- (3') 何かが人間であり,人間でなく,人間でないものでないことは不可能である.
これはまずいので,「人間」が意味表示するものを選ぶよう論敵に頼んだ際,何を頼んでいたのかをより明確にしようとする.「人間」と「人間でない」において「人間」が同名異義的になるという主張は二点から帰結する: (1) 論敵が「人間」と「人間でない」の意味を一致させていること,(2) それらが一致するのは「人間」が同名異義的な場合だけであること.アリストテレスは後者を示そうとするが,議論はかなり難解である (1006b22-28):
εἰ δὲ μὴ σημαίνει ἕτερον τὸ ἄνθρωπος καὶ τὸ μὴ ἄνθρωπος, δῆλον ὅτι καὶ τὸ μὴ εἶναι ἀνθρώπῳ τοῦ εἶναι ἀνθρώπῳ, ὥστ᾽ ἔσται τὸ ἀνθρώπῳ εἶναι μὴ ἀνθρώπῳ εἶναι· ἓν γὰρ ἔσται. τοῦτο γὰρ σημαίνει τὸ εἶναι ἕν, τὸ ὡς λώπιον καὶ ἱμάτιον, εἰ ὁ λόγος εἷς. εἰ δὲ ἔσται ἕν, ἓν σημανεῖ τὸ ἀνθρώπῳ εἶναι καὶ μὴ ἀνθρώπῳ. ἀλλ᾽ ἐδέδεικτο ὅτι ἕτερον σημαίνει.
論証は帰謬法である.前提は:
- (P)「人間」と「人間でない」は同じものを意味表示する.
既に偽だと示されており,帰謬法の結論となりうるのは,以下の命題だけである:
- (C)「人間にとってのあること」と「人間にとってのあらぬこと (for something not to be a man)」は同じものを意味表示する.
問題は,第一に,アリストテレスが (P) から直接 (C) を出し,そこから以下を出していること――
- (C1) 人間にとってのあることは,人間にとってのあらぬことである.
および第二に,結論として (C) ではなく以下の (C2) が偽だと述べているように見えることだ.
- (C2) 「人間にとってのあること」と「非人間にとってのあること (for something to be not a man)」は同じものを意味表示する.
このうち第二の問題は,'for something not to be a man' と 'for something to be not a man' が意味に関しては同じことだとすることで回避できる.
第一の問題はより厄介である.だが,'so that' (ὥστ᾽) をややいい加減に扱うことで (play a little fast with),これも乗り切れると思う.つまり,(C1) が (P) の直接の帰結であり,(C1) が真だとするためには (C) が要求される,と理解する.結果として論敵の挑戦は,意味の一意性の措定によって潰えることになる.
なお以上の議論は排中律を暗に前提している.
V. 要約
〔省略.〕
-
何を言わんとしているのか分からない.De dicto / de re のどちらなのか,ということだろうか.↩
-
Dancy はこの辺りの議論で “there would be no way of picking out any particular thing it signified” (p.44) という前提を論証に読み込んでいるが,これはテクストには見られない.この辺りの解釈論は,したがって疑わしい.↩
-
この辺りの話の流れは正確に追えていない.ここでは「indefinite blur (↔︎ in(de)finitely many) という選択肢をアリストテレスはそもそも考慮していない」という意味に理解した.↩