上野修『スピノザ『神学政治論』を読む』
『神学政治論』(TTP) の入門的解説書。3部構成。第I部は「思考のエッセンス」シリーズからの再録で,独立した解説になっている。第II部は詳細な各論,第III部は現代思想 (アルチュセール,ネグリ) と TTP の関係を論じる。『スピノザの世界』同様,平明な文体でスピノザの議論の特異な魅力をよく伝えている。
第I部は TTP の議論の大枠を次のように描く。
- TTP の目的と歴史的背景。同書の背景には17世紀ネーデルラントにおける総督派(聖職者・一般大衆,反自由・寛容)と共和派(レヘント・デカルト主義者,自由・寛容)のイデオロギー対立がある。聖書と哲学的理性の食い違いをいかに調停するかという点について,特に急進的な聖書解釈が出回りだすと,デカルト主義者の側にさえ動揺が見られるようになる。この人々,「理性は神学の婢でなければならぬという考えさえなければもっと自由に哲学しているはずの人々」(序文),に宛ててスピノザは書く。目標は理性の自由を不敬虔の嫌疑から守ることである。
- TTP は神学ブロック (1-15章) と政治論ブロック (16-20章) からなる。神学ブロックでは,上記両陣営が前提する「聖書は真理を語っている」という前提が崩される。(A) 超自然的な光によって真理を解読する解釈,(B) 理性に基づき比喩的に「事柄の真理」を取り出す解釈は,いずれもこの前提に依拠しているからである。聖書の語りの意味は真理性と独立に実証的に研究すべきであり,預言はその真理条件ではなくそれが言語行為として成立しえた条件から理解されねばならない。その条件とは,預言者のイマジネーション,徴,自らの倫理性,の三つである (2章)。預言者と民とはこれらから確信を得たが,それは事柄の真理の超人的認識を意味しない。そして命じられる内容は隣人愛に他ならない。以上のことから,服従の必要条件として「普遍的信仰の教義」が書き出される (14章)。これは「敬虔の文法」であって真理ではなく,『エチカ』の理論とも無関係である。
- 次に政治論ブロック。スピノザは聖書のヘブライ国家に実質的な社会契約を見る。「神の統治」というフィクションは「人民の統治」というフィクションと同型であり,契約説的に解される限りで国家は「神の国」なのである。正義は最高権力の決定にのみ依存し,敬虔とは国家の平和と平穏に関してなされることを指す。ただしホッブズ的国家と異なり最高権力も群衆 (multitudo) の潜在的暴力に掣肘される。ゆえに自然権の移譲は人間の自然本性に即する限りでなされる。言論の自由はこの自然本性に根ざす。この自由が除去されると国家の平和も同時に消滅する他ない。
- TTP は密かに無神論を語るものとして断罪されてきたが,それは誤りである。スピノザは宗教を真理と見なしはしないが,それでも聖書を受け入れる (amplecti) のだ。
第II部は以上の読み筋をさらに展開して,先行研究と突き合わせつつ詳しい解説を行う。おおむね II.1-3 は「神学ブロック」,II.4 は「政治論ブロック」について論じる。II.5 はスピノザの議論が啓蒙主義的宗教批判と無関係である旨を TTP における宗教・奇蹟と迷信との対置から論じる。
続く第III部ではアルチュセールのイデオロギー論のスピノザ主義的性格が論じられ (III.1),ネグリの「マルチチュード」と対照させる形でスピノザ自身のの multitudo 概念の特質を取り出す (III.2)。
一読して以下の疑問が残った。
- (I.2, 4) スピノザが哲学と神学の無関係をいくら言い立てようとも,彼が世に問うた『エチカ』の理論が「普遍的信仰の教義」に違背しているとすれば,やはり自らが保っていない敬虔を他の人々に説いている,自身は敬虔の言語ゲームの全く外にある,ということになりはしないのか。彼は単に「有用である限りで信じて OK だ」という以上のことを言いうるのか。(この解釈はシュトラウス的「偽装説」とそれに対する「教育的配慮説」という TTP 研究内の論点そのものに対置する形でなされている (II.1)。)
- おそらくは関連する問題として,隣人愛の教義と,神に関するその他の教義とは,どういう関係にあるのか。
- (I.3) 契約説的に解される限りでの「神の国」と,信仰における「敬虔」とが,一体どう結びつくのか,詳らかにしない。一見して,ヘブライ神政国家とオランダ共和国との間の類比から,飛躍した推論がなされているようにも感じられる。