反実在論 Burgess & Burgess (2011) Ch.6

  • Alexis G. Burgess & John P. Burgess (2011) Truth, Princeton University Press.
    • Ch.6. Antirealism. 83-101.

6. 反実在論

20世紀初頭に,古典数学者と直観主義者との対立があった.両者の違いは或る種の存在証明を認めるか否かであり,それは排中律を認めるか否か,ひいては「ではない」「または」その他の論理的語彙の意味理解の不一致に存した.

今日 Michael Dummett は,さらに,そうした語の意味についての不一致は,意味についての説明の取るべき一般形式についてのより根本的な不一致から生じる,と主張してきている.彼によれば,数学的議論のみならず,様々な種類の実在論をめぐる議論は,意味の説明の適切な形式をめぐる議論に再構成されねばならない.実在論者が真理条件意味論を採るのに対して,Dummett ら反実在論者は検証条件意味論 (verification-conditional semantics) を採る.

ここで反対されている「実在論」は,これまで論じられたような真理そのものについての実在論ではなく (それにも Dummett は反対するが,関心の中心ではない),他のいろいろな事柄 (ほんの一例として数学的な事柄) についての「実在論」である.したがって以下では,もっぱら真理条件意味論,検証条件意味論およびデフレ主義の三つ組を取り上げる.

6.1 意味と真理

世界の状態が命題を (少なくとも或る意味で) 真にし (make),かつ文をも−−それが意味を伴う限りで−−真にする,のだとすれば,次のようなスローガンはもっともらしく見える.

  • (1) 意味と世界は一緒になって真理値を決定する.

だが,厳密に言えば,文が何を意味するかも世界の状態の一部である.といって,「世界」を非言語的な事柄に限るのも誤っている (言語的な事柄に関する文も考慮する必要があるから).むしろ,世界のどのアスペクトがことに関わるか自体,文の意味が決めるのだ.つまり:

  • (2) 意味は真理条件を決定する: 文の真理条件は,文の意味の帰結である.

まだ問題がある.第一に,指標性がある場合,さらに文脈を考慮する必要がある.第二に,コミュニケーション連鎖の描像〔指示の因果説〕を採るなら,「虎は縞模様だ」の (脳内の) 意味は,真理条件の決定に十分でない.

だが,以上の反論は措くとしよう.むしろここで考えたいのは,次のような対抗スローガンである.

  • (3) 文の真理条件は,その意味を構成する (ないしは少なくとも構成要素となる).

これを真理条件意味論の原理と呼ぼう.そして次の見かけ上の系を−−

  • (4) 意味の知識は,少なくとも部分的に,真理条件の知識に存する.

ハードコアな真理条件意味論の原理と呼ぼう.

これらは「真理について実質のある問いは存在しない」というデフレ主義のスローガンを脅かす.このスローガンは,「意味についての実質的な問いが真理についてのそれではない」ということを含意するからだ.

より直接にデフレ主義を脅かすのは,以下の見かけ上の系である.

  • (5) 任意の文の意味の知識は,真理概念の保有を必要とする (∵ (4)).
  • (6) 真理概念は定義・分析できない (∵ (5)).

テーゼ (6) すなわち真理プリミティヴ主義 (truth primitivism) を Frege は擁護したが,真理にともかく何らかの分析を加えるあらゆる立場とこれは相反する.したがって (3) は,(6) を導くと思われる限りで,殆どあらゆる真理の理論を脅かす.

しかしそもそも,真理条件意味論は何に由来するのか?−−一言で言うと,Donald Davidson の Tarski に対する反応である.

6.2 Davidson 主義

Tarski の真理定義を非数学言語に拡張するのは簡単ではない.理由の一つは指標性の存在だが,加えて様々な場合に文の論理形式が明白でないことも挙げられる.

そうした拡張のプログラムを最も強力に推進したのが Davidson である.彼は Tarski と逆に,真理を所与として,再帰的定義が対象言語の論理形式その他の意味の諸相の情報を与える,とした.

§2.3 に簡単な言語で見たように,Tarski の再帰的定義では,有限個の条項をもとに,対象言語に関する無限個の T-双条件文を産出できる.この現象に Davidson は着目し,自然言語への応用を試みたのだ.彼の悪名高い主張は,「言語の真理理論を与えることは,その意味理論を与えるやり方の一つだ」というものだ.

この格言は Davidson 自身や弟子たちによって様々に解釈・改良され,多種多様な「Davidson 的」見解が出来してきた.(3) から (6) までのうち,どこまでを受け入れるかにも様々である (Davidson 自身は (6) まで主張する).

意味と真理条件の密接な関連を示唆するもう一つの考えとして,子供の第一言語習得に関する以下の考えがある.(Davidson は (そして他の Davidson 主義者たちはなおさら) それほど第一言語の習得について論じないので,以下の議論は Davidson の議論とは概ね独立である.) すなわち子供は,〈猫のフェリックスが他ならぬここにいるとき,「猫がマットの上にいる」と言うことで親の同意を得られる〉等々の経験によって,当の文が真である条件を学ぶのである.ここから曖昧模糊とした結論が得られる: 意味理解は真理条件を文と「連合させる」ことを伴う.−−この模糊としたヴァージョンは,ハードコア真理条件意味論さえ含意しない.他方,このヴァージョンを論駁すれば,より強いヴァージョンも論駁されよう.そうした論駁を与えているのが Dummett である.

6.3 Dummett 主義 vs. Davidson 主義

Dummett は主に「意味の知識が何に存するか」を問題とする.したがって論駁の対象はハードコア真理条件意味論である.Dummett によれば,第一言語の最も初等的な部分の意味の知識が決定的に重要である.なぜなら,そうした知識は暗黙的 (tacit) だからだ (↔ より高等の部分は言語化可能 (verbalizable)).前者の知識は実践的 (↔ 理論的) であり,究極的には knowing-that ではなく knowing-how であり,或る種の能力を有することである.

具体的には,検証条件意味論によれば,或る文の意味の習得とは,何かが検証 (verification) を構成するか否かを識別する能力の獲得である.(文が真であるか否かを……ではない; それはわからなくてもよい.)

検証条件意味論は真理条件意味論と同様に意味の合成原理を支持するが,例えば (13a) から (13b) への置き換えを行う.

  • (13a) 「〜 または …」が真である iff. 「〜」と「…」の一方が真である.
  • (13b) 何かが「〜 または …」の検証である iff. それが「〜」と「…」の一方の検証である.

この点で Dummett は直観主義者である.彼の主な議論は以下の前提から出発する.

  • (14) 暗黙の知識の帰属が意味をなすのは,何がその知識の顕示 (manifestation) を構成するのかを言いうる場合に限られる.

そして彼は,検証条件意味論が,真理条件意味論にはできない仕方で,この課題を達成できる,と論じる: 文がいつ検証されるかの識別が意味の知識であるなら,何がその能力の顕示を構成するのかを問題なく言える.他方,真理条件の暗黙の知識の顕示のよい候補は見当たらない.

顕示論証は古くさい行動主義的な気味があるため,Davidson 主義者に無視されやすい.だが,「真理条件の把握は (その顕示は,でないとしても) 何に存するのか?」は難しい問いであろう.

6.4 Dummett 主義 vs. デフレ主義

検証条件意味論の支持者は,真理条件意味論の支持者と異なり,或る種の等価原理を拒否する理由を持たない.とはいえ,なおデフレ主義との対立点は残る: デフレ主義者が「真理と共外延的な興味深い属性などない」とするのに対し,Dummett 主義者は真理を検証可能性と共外延的とする.

とはいえ,これはそれほど深刻な対立ではないかもしれない.第一に検証条件意味論からこの検証可能性テーゼに至る道は自明でない: (16) から (17) が言えるだろうか?

  • (16) 他の銀河に知的生命体があると言うことが何を意味するかを知っているとは,何かがそうであることの検証を構成するかどうかを識別できることである.
  • (17) 他の銀河に知的生命体があるなら,少なくとも原理上,そうであることを検証しうる.

一つのやり方は (17) の if-then に検証条件意味論を適用することである: 我々は何かが「他の銀河に……」の検証を識別できる (∵ (16)).(17) の前件の検証を所与とすれば,後件が得られる.––だが,この行き方は「検証可能」から「検証されている (verified)」への飛躍に基づくように見える (cf. Fitch のパラドクス).

第二に,検証可能性テーゼは,適切に理解すれば,デフレ主義と衝突しない.前者は (17) の成否と無関係に以下を主張するものではないからだ:

  • (19) 他の銀河に知的生命体があるということが真なら,少なくとも原理上,そうであることを検証しうる.

とはいえ,デフレ主義が「真理概念は重要でない」ことを含意する以上,その勝利は何らかの仕方でピュロン的にならざるをえない.Lewis や Soames はいくらか譲歩するが,そうした協調路線も実在論者と反実在論者のデフレ主義に対する敵意をさほど減じ得ていない.

6.5 全体論

さらにややこしいのは,Dummett は,検証条件意味論が私たちの実際の言語の正しい説明を与えるとは言わないし,言えないという点である.(そうでなければ,「X か Y のどちらかだが,どちらか分からない」などと主張しないだろう.) 検証条件意味論は,むしろ,我々の手持ちの言語を根本的に異なる何かに変えるべしという指令 (prescription) なのである.Dummett はこの点を強調はしないが,隠してもいない.

では,我々の言語の説明として何が適切か.Dummett は特に何かを擁護しているわけではないが,Quine のいわゆる「全体論」は真剣に議論している.

全体論によれば,理論語の意味はそれらに関する一群の基本的な諸法則に存する.基本法則から論理的に導出される予測の成功/失敗に応じてそれらは保持/改訂される.すると問題は,論理的語彙の意味は何に存するか,である.Dummett の考える選択肢は,直接に導入則/除去則によって与えられる,というものだ.この全体論的描像は,真理概念を T-導入/T-除去で説明するデフレ主義と相性が良い.

6.6 多元論

Dummett は数学的事例に集中したにせよ,自分の議論が一般に妥当することをくりかえし示唆していた.だが Crispin Wright や Michael Lynch に始まる最近の論者は,いくつかのトピック (ないし「言説の領域」) には当てはまるが,他には当てはまらない,という可能性を考えている.

この立場は (真理) 多元主義 ((alethic) pluralism) と呼ばれる.全ての言説領域に真理と共外延的な・単一の・興味深い・実質的な属性があるわけではない,という点では,デフレ主義と一致する.不一致はいろいろある.

第一に多元主義者は,言語の諸々の大きなブロックにおいて,真理がより実質的な属性と共外延的であると主張する.さらに,当の属性はインフレ主義的理論が伝統的に解してきた形での真理と同様のもの (検証可能性,整合性,対応 etc.) だとも主張する.もっと言えば,当のブロックにおいて真理とは当の属性であるのだ.

多元主義は真理の意味のデフレ主義的説明に反対して,その意味は「何であれこれこれの役割を果たす属性である/を持つもの」だと言う.

多元主義に対する憂慮の一つは多元主義のひずみ (pluralism creep) である.しんりがいねんは多くの哲学的に興味深い概念の解明に用いられるので,多くの諸々の「真理属性」ないし真理がそれであるところのものがあるなら,真理概念が解明するしょがいねんの各々について (e.g. 誠実さ,主張,知識,含意),それであるところのものもあるだろう.

特に,真理多元主義は,しばしば論理的多元主義に導かれる.すなわち,異なる領域では異なる論理が適切であるとする.だがそうすると,領域をまたぐ推論の真理保存性が疑わしくなる.

他にも問題はある.仮に真理と他の属性との共外延性を認めるだけだとしても,依然 (i) 領域の境界の画定が必要であり,(ii) 真理と当の属性を同一視することに対する標準的な諸々の反論に応える必要もある.––実際にこれらの作業が十分なされているとはいえない.現時点では多元主義は未だプログラムにとどまっているのだ.