『ティマイオス』における必然と目的論 Johansen, Plato’s Natural Philosophy #1

  • Thomas Kjeller Johansen (2004) Plato's Natural Philosophy: A Study of Timaeus-Criti.tias. Cambridge University Press.
    • Ch.5: "Necessity and Teleology", 93-116.

内容は学ぶところが多いが誤植が目立つ。「結論」は省略し一部をそれ以前の節に回した。


さて,既に述べられた従前の議論は,若干を除いて,知性によって製作されたものどもを明らかにしました。他方で,必然によって生成するものについても,言論によって説明されねばなりません。というのも事実,この宇宙の生成は,かき混ぜられて,必然と知性との合成から生み出されたのですから。指導的知性は説得することによって生成するもののうちの多くのものそれ自体を最善のものへと導くことが必然なので,この点で,それらに即して,思慮ある説得に屈した必然によって,このように初めからこの万物は構成されたのです。なので,もし誰かが生成した仕方をこれらに即して本当に語るとすれば,彷徨う原因の種類も混ぜなければなりません––つまり,どのように動かす本性を持つのかということを。だからこのように再び引き返さなければなりませんし,そしてこれらそのものの相応しい異なる開始点を改めて再び把握するとき,ちょうど今しがた論じたことどもについてと同様に,こうしたことどもについて,再び最初から始めなければなりません。(47e3-48b3)

製作者が知性 (reason) 以外の原理を要することは驚きではないが (計画実現のためには材料が要る),その原理が「必然」であることは驚きである (必然は製作者の意のままになるものとは思われない)。「必然」が説得に応じるとはどういうことか?

本章は「必然」の意味・必然がいかにして材料たりうるか・必然と知性の関係,について考える。そのために「彷徨う原因」「補助原因」「受容者」との関連性も探る。また Phd. における必要条件の観念との違いについて考える。最後に,プラトンが必然的過程を目的論的説明の一部に組み込むやり方について数点注意する。

「彷徨う」原因とは何の謂いか

幾人かの研究者は彷徨う原因を宇宙の因果的不確定性の要素と見なした (e.g. Grote, Cornford)。Johansen はこれに反対する: 「彷徨う」はむしろ知性的原因によって定められた目的に向かっていないこと (非目的論的であること) を意味する。これは決定論的であることと両立する。

反対論者は彷徨う原因が 'τύχον' (46e5-6) と関係することを根拠に挙げる。だが,この箇所で対比されるのは秩序 (order) /無秩序であり,ティマイオスの秩序 (τάξις, κόσμος) は因果的法則性 (regularity) と異なる概念である; 後者は関係的性質だが,前者は専ら結果 (effect, outcome) の属性であり,美しさや均整を含意する。

必然が因果関係を制限することは 46d-e における補助原因/知性的原因の対比の方式から明らかである。前者の必然性は 'backward-looking' である: 結果が生じたのはその原因があったからだが,当の結果のために原因が成立したわけではない。他方で後者の必然性は 'forward-looking' である (πρόνοια, 44c7)。ゆえに Tim. の必然には二つのヴァージョンがある: (i) 知性が諸目的のために補助原因として用いる必然,(ii) 未だ知性により説得されていない必然。「思慮から孤立させられた限りの補助原因はそのたびごとに」(46e4-5) 後者の必然に戻る。ゆえに,より正確には,三種の因果的プレイヤーがいる: 1) αἰτία, 2) αἰτία のために働く限りの必然,3) αἰτία のために働かない限りの必然。

もし必然が「彷徨う」ことが不確定性を含意するなら,それが補助原因の役割をも果たすことの理解が困難になる。

必然と受容者

製作者はまず単純物体をつくり,次いで単純物体の本性から生じる必然的過程を扱った (家を作る前に煉瓦を作るように)。 宇宙以前の受容者は地水火風の「痕跡」の運動によって特徴づけられるのであり,四元素はそれ自体としては存在しない。なるほど前宇宙的段階でも「似たもの同士」原理 ('like-to-like' principle) は働くが,しかしこれは宇宙からの回顧的観点であって,前宇宙的な現れは内的属性を持たない以上,その間に内在的な類似性 (likeness) はないのである。「魂が生成する以前の宇宙における運動の原因は何か?」というプルタルコス以来の問いは,この点でミスリーディングである。宇宙の生成以前 (したがって魂の生成以前) には本来の意味での運動 (proper motion) はなく,したがって本来の意味での運動の原因もない。

宇宙/前宇宙の区別に即した必然理解が必要である。必然は創造の産物であって,その前提条件ではないのだ。前宇宙には必然化する原因はない。そもそも因果的効力を保持しうる実在がないからだ。必然的過程は「単純」物体が創造されたときに生じる。――読者が「必然は単純に前宇宙的運動から生じる」という印象を抱いてしまう理由は,47e 以降の構成にあると思われる。49a 以降の前宇宙的な受容者の描写は,必然が説得を受ける以前の状態の描写であるように取られかねない。―― J. 解釈によれば,受容者の説明は必然の説明ではなく,むしろその説明の準備である。この解釈は,48a7 以降,単純物体の創造が完了するまで必然が言及されない (55e-56c で初めて再登場する) 理由の説明になる。

必然を説得する

知性が必然を説得するとはいかなることか? 理解の主要な鍵は強制 (βία, force, 35a7-8) との対比である。必然が説得されるのは自発的である (cf. 56c)。

すると,必然がなにか心的能力を有しているかのように考えたくなる。だが 46d-e はそうした解釈の障害になる。J. はむしろ,必然がそれ自身の本性に即して振る舞う限りで自発的なのだと考える。

だが,単純物体や複合体がそれ自身の本性に即して動くのであれば,説得によって何が変わるのか? ――第一に,必然的過程が生じるもとになる単純物体の本性自体,様々なありうる幾何学的構成から美的観点により製作者が選んだものである (ただしそこから目的論的でない仕方で別の必然的属性も帰結する)。第二に,製作者はそうした必然的過程を選び,混合し,調和させることができる。選択の例: 短命―優れた知力 ≻ 長命―劣った知力 (75a7-c2)。

このようにして,説得は「思慮ある (ἔμφρων, reasonable)」(48a5) ものとなる。とはいえ,必然が心的能力を有すると考えるのは間違いである。合理的な命令に従うのに心的能力は必要でない。むしろ,コンピュータが合理的構造 (rational structure) によって合理的命令を実行できるように,合理的・幾何学的構造を有する物体に必然が伴うことで,必然は知性の命令に従いうるのだ。

ティマイオス』と『パイドン』の必然の説明の関係性

Tim. 46c-d と Phd. の自伝の内容的なつながりは屢々指摘されてきた。「多くの人は συναίτια を原因と取り違えている」というティマイオスの議論は確かに Phd. を反映している。ただし,幾人かの研究者 (e.g. Burnet, Taylor) が συναίτια を「必要条件」と単純に同一視するのは,間違っている。

まず,Tim. の συναίτια は二種の αἰτία の一つである。知性という原因を既に発見しているので,それを補助する必然的過程をも αἰτία と呼ぶことができる。対照的に,Phd.ソクラテスは原因を未だ発見していない。ゆえに必然的過程は単なる必要条件に留まるのだ。

αἰτία / συναίτια の区別は知性と必要条件の区別と一致しない。Tim. の中で συναίτια と単なる必要条件を区別することが可能である (e.g. 73e-74b: 骨の硬さと,脆さ・柔軟性のなさ)。つまり Tim.Phd. よりも必要条件に対してニュアンスのある描像を示している。S is P が S is Q の補助原因かつ必要条件で,S is P なら S is R だとしよう。すると S is R は S is Q の必要条件だが,補助原因だとは限らない。––なるほどソクラテスは,必要条件のことを,「それなしには原因は原因ではありえない」と述べている。しかし,必要条件は特定の説明対象に決して結びつかない以上,Tim. の補助原因の資格を持たない。

原因 (αἰτία) を特定する

ティマイオスは最初に αἰτία / συναίτια を区別し両者の混同を戒めるが,しかし,続く議論において,視覚に関する αἰτία とは正確に言って何かということは,直ちに明らかであるわけではない。まず αἰτία の結果ないし explanandum は眼ではなく,神が眼を創造したことである。αἰτία は知性を (ゆえに魂を) 持ち (46d4-6),立派で善いものの製作者である (46e4-5)。–– 46e7ff. で徐々に明らかになるように,αἰτία は「視覚がもたらす最大の働き (ἔργον, contribution)」である。ただし神の意図の対象である限りでそうなのである。(追加論拠 : αἰτία が知性を持つ = 神の知性を持つ,と理解できる。また「宇宙の生成の αἰτία は何か?」(29d7) という問いに,ティマイオスは神の考えを引き合いに出して答える。加えて 44c4-d1 では αἰτία を πρόνοια と同格に置いている。)

アリストテレスの目的因とは類似点と相違点がある。一方で,どちらも目的を示す点,目的を善と見なす点,補助原因より説明の順序において先行する点で類似する。他方で,ティマイオスの原因は神の意図と切り離せない点で異なる。より一般化して言えば,ティマイオスの目的論から製作者を消去することはできないのである。––だが,類似点は他にもある。すなわち,補助原因はその目的との関係で記述されるということ (Phys. II 9 の条件的必然性。Tim. については下記参照)。

記述的依存関係

視覚の αἰτία は視覚の συναίτια の記述を決定している。視覚メカニズムの説明においては,外なる光と眼の内の光との同族関係 (kinship) が何度も強調される。これは「似たもの同士」原理の一例であり,知性的範型よりむしろ受容者の運動と関連する。とはいえ,この必然的過程も知性と協同する。ティマイオスが強調するのは眼と日光 (すなわち視覚の媒体) との類似性であって,視覚の対象との類似性ではない。両者の類似性を強調する理由は,ティマイオスは太陽と眼が同一の αἰτία を有することを示すためであると思われる。