SEP「論理学と存在論」 Hofweber, "Logic and Ontology" #1

  • Thomas Hofweber (2018) "Logic and Ontology" The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Summer 2018 Edition), Edward N. Zalta (ed.), pp.1-16.

これも長くなりそうなので (かつ区切りやすそうなので) 半分に区切る。「論理学」「存在論」を腑分けするところまで。勉強になるが「論理学」パートはちょっと理解が怪しい。


1 序論

「論理学」と「存在論」の諸義を整理し,両者の重なり合う諸領域を検討する。ただし現在アクティヴに議論されている範囲に限る。

2 論理学

2.1 「論理学」の様々な概念理解

「論理学」は一つには人工的・形式的言語の数学的性質の研究である。これは,数学の哲学や,その自然言語への適用などにおいて,哲学的意義を持つ。

第二に,論理学は妥当な推論,良い推理の研究である。ただし,良い推理全般を扱うわけではない (それは合理性の理論の仕事である)。論理学が扱う推論の妥当性は,推論に含まれる表象 (representations) の形式的性質に帰着する妥当性である。この妥当性は単に様相的観念であり,超内包的観念 (hyperintensional notion) ではない*1。推論が形式的に妥当だと見なすことは,「いくつかの語の意味は固定されており,我々は表象の固定された集合を有しており,他の語の意味は無視できる」と見なすことだ。固定的語彙は論理定項であり,ほかは非論理的語彙だ。

第三に,論理学は「論理学的真理,ないし事実」の研究である。この考えはしばしば Frege に帰せられる。―― 第二と第三の意味理解は強く結びついている。つまり,論理的真理は,空集合の前提から帰結する表象である,あるいは論理定項の意味が固定されている限りで保証される真理である,と言えるからだ。

第四に――これはむしろ歴史的な定義だが――,論理学は思考・判断の最も一般的な特徴 (ないしは形式) の研究 である。この定式化は Kant に帰せられる。思考の「形式」は言語的表象の「形式」と少し異なる。後者は論理定項以外を捨象したものであるのに対し,前者は「内容」を捨象したものを言う。

論理の重要な哲学的側面の一つは規範性である (cf. Harman 1986, Field 2009)。他方で論理は主題中立的でもある。したがって,「論理は,およそ我々が思考しようとするときの,思考すべき仕方に関わる」などと言われる。ここから生じるパズルの一つは,「なぜ思考する者はそうした規範に服さなければならないのか?」というものである (cf. Velleman 2000)。

結局,論理学の四つの観念を得られたことになる。

  • L1: 人工的形式的言語の研究
  • L2: 形式的に妥当な推論と論理的帰結の研究
  • L3: 論理的真理の研究
  • L4: 判断の一般的特徴,ないし形式の研究

2.2 「論理学」の様々な概念理解は互いにどう関係するのか

L1 と L2 の関係は論争の的である。一案として,「あらゆる表象 (e.g. 自然言語の文) の体系について,論理定項の集合がただ一つあり,これを最善のしかたでモデル化したただ一つの形式言語がある」という見解がある。だがこれに反対して,何を論理定項とするかは選択しうる,という議論がある。例えばその時の関心に応じて 'believes' や 'knows' を固定することもできるし,そうしないこともできる。(cf. Engels 1991, Hacking 1979, Mauthner 1946, van Bamthem 1989, Tarski 1986.)

L2 と L3 は密接に関連する。前述の通り論理的真理は空集合の前提から導かれる命題であり,「A が B の論理的帰結である」は「A ならば B」という論理的真理として理解できるからだ。ただし,無限個の前提の帰結をどう理解すべきか,論理的真理は有限個か,等の問題はある。

L2 と L4 の関係にはいくつか問題がある。一つには「判断に形式がある」ということの意味が問題である。(a) 心的表象が言語のように構造化されているという「思考の言語仮説」(Fodor 1975) を採用すれば,判断の形式は文の形式と同様に理解でき,L2 と L4 は直接的に結びつく。さもなければ,別の方針を取る必要がある。(b) 一つは「判断の形式」が判断に含まれる表象ではなく判断の内容 (e.g. Russell 的命題) に関わるというものだが*2,これは「内容の捨象」という L4 の規定に衝突する。(c) もう一つは「判断の形式」が判断そのものではなく判断の対象 (世界) に関わるというものだ。つまり世界そのものが形式ないし基礎構造を有する。このとき L2 と L4 の関係如何はトリッキーな問いになる。―― いずれにせよ,論理定項自体が「内容」に寄与するかどうかということが両者の関係を規定する。

L1 と L4 の関係は,「思考の形式」を「表象の形式」と類比的に理解するなら,L1 と L2 の関係に帰着する。さもなければ L4 の規定次第である。

3. 存在論

3.1 「存在論」の様々な概念理解

存在論はまずは「何があるのか (what there is)」の研究である (e.g. 神や普遍はあるか)。また第二に,存在者の最も一般的な特徴・関係をめぐる問題を包含するとみなされることもある (e.g. 普遍者は個別者とどう関係するか,出来事は個別者とどう関係するか)。もっとも後者とより一般的な形而上学との境界は曖昧である。

しかし第一に,これらの問いにアプローチすべき仕方は明らかでなく,また第二に,そもそも問いの意味が明瞭でない。前者は存在論的コミットメントをめぐる議論,後者はメタ存在論的な議論に至る:

  • まず,問いの決着の付け方が分からない,という問題がある。少なくとも「数,属性,神はあるか?」といった哲学的にトリッキーな問いについてはそうである。そこで,我々が存在者について既に有している信念から,こうした問いへの合理的なコミットメントを引き出す,というステップを踏むことができる。こうした探究は存在論の一部である。
  • 存在論的な問いが何を問うているか,というメタ存在論的な問いも,広義の存在論に含むことができる。メタ存在論は Quine の見解が支配的だったためにそれほど人気がなかったが,近年はこの見解にも様々な異議が提出されている。

したがって,広義の存在論は四つの部門からなる。

  • O1: 存在論的コミットメントの研究。我々は何にコミットしているか。
  • O2: 何があるのかの研究。
  • O1: 存在者の最も基本的な特徴と関係の研究。
  • O1: メタ存在論の研究。存在論の目指すべき事柄は (あるとすれば) 何か。問いをどう理解すべきか。いかなる方法論を採れば解答できるのか。

3.2 「存在論」の様々な概念理解は互いにどう関係するのか

これは単純。O4O1-3,特に O2,の理解の仕方を示す。O1 の結果は,O2 の答えの容認か,信念の改訂を要求する。O2 への解答は O3 の問いを呼び込む; それなしには O3 はかなり思弁的な試みになるだろう。

*1:'hyperintensional' は知らない表現だったが,Chalmers のスライドの大まかな規定によれば (http://consc.net/slides/hyperintensionality.ppt),必然的に等価だが,直観的に意味が異なる表現 をそう呼ぶらしい (e.g. 「ヘスペラス」「フォスフォラス」,「77+44」「121」。前半の条件で "The Morning Star" "The Evening Star" という単に「内包的な」(記述に解消できる) 表現は弾かれている)。これに応じて「……はアプリオリである」「ジョンは……と信じている」を超内包的文脈と呼ぶ。Hofweber は「……は妥当である」をそうした文脈とする解釈に言及しているのだろう。(初出は Cresswell (1975) "Hyperintensional logic" あたりか。)

*2:この辺りで「表象」が何を意味するのかよく分からなくなった。