古代の定義論の諸問題 Charles, "Introduction" in Definition in Greek Philosophy

  • Charles, David (2010) "Introduction" in Definition in Greek Philosophy, Oxford: Oxford University Press. 1-28.

ギリシア哲学における「定義」の問題を扱った比較的最近の論文集の序論である。言うまでもなく主題への導入と各論考への導入とを兼ねているが,Charles は丁寧なことに節ごとに両者を区別して立項している。ここでは前者のみ要約する。

論点が多数枚挙されており,どれも大問題と言ってよい。しかし特に Ar. に関する論点は『後書』の定義論を学ぶ上で不可避だろう。まあなんとか見通しをつけていきたい。


1. なぜギリシア哲学における定義を研究するのか?

定義はギリシア哲学の中心主題だが,現代の古代哲学研究においてまだ十分注目されていない。*1現代哲学においても,定義は一旦は興味ある主題とは見なされなくなっていた。*2 だが今日,明示的には Ar. に影響されて,定義の問題の再評価が進んでいる。*3

従って定義に関する古代の見解を見直すことは時宜に適っている。議論の蓄積がないので,一から考える必要がある。中心問題の一つは「定義とは何か?」「「何であるか」の問いに対して如何なる答えを求めるべきか?」であろう。より特定すると:

  • (a) 何が定義されるべきか。言語表現か,概念か,世界にある存在者か。これら全てか,一部だけか。
  • (b) 良い定義とは何か。何が含められ,何が除外されるべきか。それは何故か。
  • (c) ただ一種類の良い定義があるのか。複数あるなら,相互にどう関連するのか。

以上の基本的な事柄を把握しない限り,以下のような問いも十分に論じられない。

  • (d) (プラトンの) ソクラテスは,徳の定義を知らない限り徳について何も知りえないと考えたか?
  • (e) Ar. は,定義を真にするのに必要な存在者は個物であると考えたか,それとも一般的形相と考えたか?

定義に関する古代の諸見解はまた,通時的な比較研究にも値する。

2. ソクラテスプラトン: 定義に関する三つの問題

二つの問題が『メノン』で提起されており,3つ目は他の箇所での議論から出てくる。

問題1: 良い定義に必要な事柄

『メノン』のソクラテスは,「全ての F である事例が,それによって F であるところの一つのもの (that one thing in virtue of which all cases of F are F)」を探求していると述べる。例えば卓越性。*4つまり,単に全事例に共通するだけではなく,その第一の源泉である特徴だという制約を掛ける。これは強力な発想だが,注意深い分析を必要とする。すなわち,

  1. 卓越性の事例となるとはどういうことか?
  2. 当の特徴は如何にして卓越したものを卓越せしめるのか?
  3. 当の特徴は如何なる統一性を有するか?

問題2: 定義されるとはどういうことか?――『メノン』の問題

定義について『メノン』のソクラテスは次のように説明する。

  • (A) 全ての F である事例が,それによって F であるところの一つのものである。
  • (B) 知恵ある対話者が専門的知識なしに把握できる。
  • (C) それを知らなければ,他のいかなる F の特徴も知りえない。
  • (D) それを知っていれば,それをもとにして,F の事例と F でない事例を区別できる。

だが,A-D を同時に満たすただ一つの回答がある,となぜ想定できるのか?Robinson はこの点でソクラテスを批判する。ソクラテスが C-D に次の条件を加えていたとすると,擁護は一層困難になる。

  • (E) それを知らなければ,F の事例と F でない事例を区別できない。

Robinson はこの困難を問いの形式の分析の不十分さに帰するが,実際には『メノン』(および『大ヒッピアス』) で明晰化の試みは繰り返し行われている。とすると,これらの諸条件を課そうとしたことには,理由があるはずである。

問題3: 定義の諸相

ソクラテスは時に,「それによって」全ての F が F であるところのものではなく,「それであることで全ての F が F である (by being which all Fs are F)」ものを探求する。e.g. 敬虔なものは神に愛される唯一のものである。『ソフィスト』『ポリティコス』では分割法が用いられる。こうした異なるアプローチは互いにどう関係するのか,等々のことが問題になる。

3. アリストテレス: プラトンの諸問題を解決する試み

問題1: 良い定義に必要な事柄

APo. では定義の探究と因果的説明は表裏一体とされる。例えば,雷の最良の因果的説明は,雷現象の同一性を規定する特徴を固定する原因を見つけたときになされる。雷の定義の探究がうまくいくには,その発生の始動因の探究が必要である。

  • AR1. 因果的説明と定義の関係は正確にはどう理解されていたか。それは形而上学的基礎を有するか,それとも単に因果的説明は本質を知るのに役立つというだけのことか。
  • AR2. 何がこうした議論の動機なのか。そこで示されているのは,理念的な学問の目標なのか,現実の学問が確証する説明なのか。あるいは単なる前哲学的な想定なのか。
  • AR3. この説明は Meta. や生物学的研究に活かされているか否か。活かされていないとすれば,APo. における説明に問題があるのか。それともむしろ,分析論解釈を見直すべきか。
  • AR4. 本質はそれを持つ対象や種といかなる関係に立つか。

問題2: 定義されるとはどういうことか?――『メノン』の問題

Ar. は先述の A の特徴付けと B-C の特徴付けを区別する。前者は対象の本質を示し,後者は項が意味表示するものを示す。これは重要かつ広く受け入れられている区別だが,解釈上の問題はある。

  • AR5. 項が意味表示するものを説明するのに必要な情報・知識はどのようなものか,如何にして獲得できるか。
  • AR6. 項が意味表示するものの説明が与える情報は,世界についてか,概念についてか。あるいは,両方か。
  • AR7. 項が意味表示するものの説明は,どういう役割を果たすか。
  • AR8. 項が意味表示するものの説明は,全て定義であるか。(e.g. 非実在対象の場合。)

問題3: 定義の諸相

LeBrond は,Ar. の定義の三様式――原因-結果・形相-質料・種差-類――が同水準にあるものとし,Ar. が原因と種差を同一視することを試みているとして,これを批判する。すなわち,(1) 原因-結果は異なる二つの事物の間に成り立つ関係であるが,質料-形相はそうではない。(2) 類-種差による定義は分類に関わるもので,実体の本性には関わらない点において,質料-形相による定義とは異なる。

だが,質料-形相による定義は『分析論』の方法の妥当な拡張であるかもしれない。また,質料-形相と種差-類の定義は同じ水準にあるとは限らない。Ar. は前者をより好んだかもしれない。すると,後者は予備的段階においてのみ有用な方法かもしれない,等々。

もっとも LeBrond の議論は『トピカ』と『分析論』『形而上学』および生物学的著作の関係に関心を有しており,この点はいずれにせよ問題である。あるいはこれらを,水準を異にするが相互補完的な著作と見なせるかもしれない。以下の点が問題になる。

  • AR9. 生物学的著作は実際に『分析論』と『形而上学』の一部が粗描した計画に沿っているか?どの様式の定義が用いられているか?*5
  • AR10. 『トピカ』の定義の理論はその後の修正を要するものだったのか,それ自体として妥当な定義の方法を示していたのか?

アリストテレス以後の展開

問題1: 良い定義に必要な事柄

ストア派の定義は Ar. のそれと重要な仕方で異なっている。ストア派の定義の目標は,先取観念 (preconceptions) を明晰にし,自然学や倫理学の言説で用いうる観念 (conceptions) を形成することにある。*6定義は各々の概念の相違とそれらの間の調和を明らかにする。定義は多様な文脈で用いられるが,定義自体は一種類しかない。すなわち,Ar. の用語法で言えば,項が意味表示するものの説明である。

先取観念と観念に関する見解に限っても,いくつか問題がある。

  • S1. ストア派の見解では,良い定義は「ふさわしい仕方で分析的に」なされねばならない。これは具体的にはどういうことか?共外延性以上の何が求められているのか?
  • S2. 概念が十分明晰であるとは,どういう事態か。探究に必要なだけ明晰ということか,それとも他の要件も付け加わるのか。
  • S3. 複数の概念が「調和して」互いにぴったり合う,ということはなぜ重要なのか。

また,さらに一般的な問題として――ストア派は定義を単に科学的探究や倫理的探究に用いる概念的道具について明晰に把握せしめるものと考えていたのか,もしそうなら,定義は探究の手段に過ぎないのか。

対象や種の本質を含まず概念に制限されていることはストア派の定義の際立った特徴である。なぜこうした離反が生じたのか。一つの説明としては,科学的探究は必然的法則の発見であると見ていたために,必然的性質と区別される本質を想定する理由がなかった,ということである。他の説明も可能である。

ストア派の見解をプロティノスの定義へのアプローチと対照することは有益である。プロティノスは――ストア派のこの問題に関する議論を知っていたが――定義を形相因を捉えたものとみなした。他方,本質が説明的な役割を果たしているにも関わらず,それは単なる論理的含意関係から説明され,Ar. 的な始動因・目的因・質料因から説明されることはない。この点むしろ『パイドン』の「第二の航海」のソクラテスに近い。プロティノスについては例えば以下の問題がある。

  • PL1. 四原因のうちの三つから切り離したとき,「対象の本質は何か」についての主張はどう基礎づけられるのか。(cf. APo. B4-6.)
  • PL2. プロティノスの分割法の形而上学的基礎は (あるとすれば) 何か?
  • PL3. プロティノスの理論によると,我々は本質的特徴を如何にして知るのか?

プロティノスストア派の定義論は,本質的定義と科学的探求というAr. の理論の二側面のどちらか一方のみを受け継ぎ,その意味で正反対の方向に発展したと言える。他方で,両者に共通する点は,定義の哲学的探求は科学的探求とは異なる独自の内容を持つということである。

問題2: 定義されるとはどういうことか?――『メノン』の問題

定義は先取観念を明晰な観念にもたらすものである,というストア派の教説は,古代世界で広く支持された。エピクロス派,ガレノス,アリストテレスの注釈者が支持者として挙げられる。セクストスもストア派の見解をこのように理解していた。これに関して,上述の問題の他に次の点も問われるべきである。

  • S4. 先取観念は普遍的か,それとも個別的か?
  • S5. 我々はいかにして先取観念を把握するのか?
  • S6. 先取観念を得たとき,知識を得ていると言えるのか?

多くの研究者は S4 に「普遍的である」と答える。すると Ar. の教説とは相違することになる。なぜこの離反が生じたのか,が問題になる。歴史的問題を措くとしても,そうしたものを以下にして獲得するか (S5) は問題となる。S6 は懐疑派が提起した問題である。

*1:〔注1, 2〕R. Robinson, Plato's Earlier Dialectic 及び LeBrond, "Aristotle on Definition" が先鞭を付けた。より後のものとしては Berti 1981 中の Ackrill, Sorabji 論文; Vlastos 1981; Kahn, "The Priority of Definition"; Brittains, "Common Sense"; Deslauriers 2007.

*2:〔注3〕↔ Ayer:「哲学の諸命題は……定義または定義の帰結を表現する」 Language, Truth and Logic pp.61-2.

*3:〔注4〕Wiggins, Sameness and Substance Renewed; 同 2007; Fine 1994. 但し少数派ではある。

*4:Meno 72c7ff. "ἕν γέ τι εἶδος ταὐτὸν ἅπασαι ἔχουσιν δι᾽ ὃ εἰσὶν ἀρεταί, ..."

*5:コスリツキ論文と若干関係する論点だろう。

*6:あまりよく分かっていないが,Crivelli 論文を瞥見するに,各々 πρόληψις と ἔννοια の訳語であるようだ。