論証の原理が満たすべき諸条件 McKirahan, Principles and Proofs #2

  • McKirahan, Richard D. Principles and Proofs: Aristotle's Theory of Demostrative Science. Princeton: Princeton University Press. 21-35.

コメンタリー形式なので要約しにくいが,とりあえずテクストと対照させるやり方でまとめていく。


A1 71a1-11*1

思考的な全ての教えと学びは先在する認識から生じる。そして,全て〔の知的な教えや学び〕について考察する人々には,このことは明らかである。というのも,知識のうちの数学的な事柄はこの仕方で生じるのであり,他の諸技術の各々も〔そうである〕。そして推論を通じた議論と帰納を通じた議論をめぐっても同様である。というのも両者とも予め認識されたことどもを通じて教えることをしているからだ------一方は〔予め認識されたことどもを〕理解している人々から〔来ているもの〕と見なして,他方は個別的なことが明らかであることから普遍的なものを証示して。弁論家も同様にして説得をしている。つまり,例示を通じて (これは帰納である),あるいは想到法によって (これはまさに推論である)〔,説得する〕。*2

「思考的な全ての教えや学びは先在する認識 (γνώσις, knowledge) から生じる。」a2-11はこの極めて一般的な主張の説明。

71a11-17

だが「予め認識してなければならない」のは二通りである。つまり,あることどもについては「そうある」ことを予め認識していなければならず,別のことどもについては,語られていることが何であるかを理解していなければならない。さらに別のことどもについては,両方〔を理解していなければならない〕。例えば全ての真理は肯定されるか否定されるかであることについては,「そうある」ことを,三角形については,これを意味していることを,単位については両方,〔すなわち〕何を意味するかと,〔そう〕あることを〔理解していなければならない〕。というのもこれらの各々は我々にとって同様に明らかであるわけではないから。 先行する認識には (a)「そうある」,(b)「何が語られているか」の二通りある。a の例: LEM, b の例: 三角形,a, b の両方である例: 単位。

いくつか問題がある。

  1. LEM と単位はともに b だが,論理的には異なる種類のものであること。
  2. 抑々なぜこの二種類が必要なのか。
  3. 必要なのはこれらだけか。
  4. これらを必要とするのは学問的認識だけか,それともあらゆる教え・学びがそうか。

このうち 4 は分からない。1-3 は他の箇所から解明できる (第3章)。なお続く a17-b8 もこの一節に関わる。

A2 71b9-12

さて,各々の事柄を,ソフィスト的・付帯的な仕方によってではなく,端的に知識していると我々が考えるのは,ある事柄がそれを通じてあるところの根拠を,各々の事柄の根拠であり,その事柄は別様ではありえないと認識していると考えるときである*3

ギリシア語の問題。

  • ἐπιστήμη は知識一般を表す日常語だが Ar. は「学問的知識 (scientific knowledge)」の意味で術語として用いる。
  • αἰτία には「根拠 (grounds)」という訳語が cause (Ross), explanation (Barnes) より相応しい。(第17章)*4

内容上は次のことが指摘できる。

  • Ar. は実在論者なので,事実と命題の区別はそれほど重要ではない。ἐπιστήμη の対象は事物とも事実とも命題とも言いうる。
  • あるひと A が学問的知識 x を持つ条件は以下の通りである。
    1. A が (x の根拠である限りの) x の根拠を知っていること。
    2. A が,x が必然的に真であることを知っていること。

学問的知識と学問的論証

A2 71b16-19

 知識することの別の方法もあるかどうかは,後に述べる。だが我々は,〔ひとは〕論証によっても知ると主張する。「論証」とは「知識的な推論」のことである。「知識的な」とは,その仕方で推論を持つことで我々が知識するということである。

Ar. は学問的知識の存在に予めコミットした上で「学問的知識をもたらす推論がある」と主張している。

学問的推論の前提

推論によって学問的知識を得る以上,推論の前提の性質を知る必要がある。その性質が学問的論証を妥当な推論一般から分ける (71b23-24)。

学問的原理の6条件

A2 71b20-22

〔…〕論証的知識は〔R1〕真なる,〔R2〕第一の,〔R3〕無中項の,〔R4〕結論よりよく認識され,〔R5〕結論より先であり,〔R6〕結論の根拠である,ような事柄から出てくることは必然である。

R1, 4-6 は前提として用いられるあらゆる学問的命題に当てはまるが,R2-3 は原理にしか当てはまらない。尤も原理 (ἀρχή) の概念はまだ登場していない。Ar. はこの箇所では両者を区別して慎重に言葉を選んでいる。

原理は第一であり無中項である

A2 71b26-29

〔論証的知識が〕第一の論証不可能なことから出てくるのは,〔さもなければ〕それらの論証を持たなければ知識しないことになるからである。というのも,その論証が付帯的にではなく〔そう〕ある事柄について知識を持つことは,論証を持つことであるからだ。

ギリシア語の問題。ἀναποδεικτικός は「論証されていない (undemonstrated)」よりは「論証不可能な (indemonstrable)」と訳すべき語。これは「無中項の (immediate)」と等価であるが,後者は三段論法論理を前提している。

内容としては,悪しき無限後退に基づく帰謬法である。

A2 72a5-8

ところで「第一の事柄から」とは「ふさわしい原理から」ということである。つまり,「第一の」と「原理の」は同じであるということだ。他方,論証の原理は無中項の前提命題である。無中項とはそれより先の他の〔前提命題〕があらぬということである。

ギリシア語の問題。

  • 「論証の原理は無中項の前提命題である」は「原理は論証の無中項の前提命題である」とも訳しうる。どちらも決定的ではない。
  • ここで πρότασις は premise ではなく proposition である (Barnes)。

「原理」という術語が正式に導入される箇所である。原理について「第一の前提命題であること」「無中項の前提命題であること」という二通りの規定を与えているが,前者が定義,後者は敷衍と解釈する。「第一」と「無中項」はここと一つ前の箇所で互換的に用いられている。従って原理 = 第一の前提命題 = 無中項の前提命題。ここまでの議論から,全ての学問的知識は原理を知ることに依拠することになる。

「ふさわしい (οἰκεῖος, appropriate)」という語は,原理が何かの原理であるという関係的性格を示している。従って R1-6 の規定を受けた「この仕方で諸原理も証示された事柄にふさわしいものになる」(71b23) という一節は,特に R4-6 を満たす原理のことを述べているという解釈を容れうるように思われる。しかし,今の箇所はむしろ R2 を参照している。この解釈上の困難には二通りの解決がありうる。

  1. 「第一の」は「より先の」の最上級なので,R2 は R5 から解釈できる。
  2. 「ふさわしい」とは「(論証ないし結論) x の」という事柄への相対性を強調する形容詞である。*5

A3

認識可能な原理の存在という A2 の主張に対立する二つの見解が扱われる。一方は「学問的知識は不可能である」と主張し,他方は「学問における全命題は証明可能である」と主張する。Ar. は両者を素描した後「学問的知識は論証に依拠する」という共通の前提に応答する。だがここは残念ながら反論になっていない。

A3 72b18-22

彼らに我々はこう主張する。全ての知識が論証可能であるわけではない,むしろ無中項に属する知識は論証不可能である。そしてこのことが必然であることは明らかである。というのも,それらから論証が出てくるところの,より先の事柄を知識することが必然であり,〔一連の過程が〕どこかの時点で止まるなら,それらの無中項が論証不可能であることは必然であるから。

  • ἀποδεικτική: based on demonstration or demonstrative.
  • ἄμεσα ではなく ποτε の前にコンマを打つ。Solmsen 104, Barnes, Verdenius 346.*6

「論証が止まらないのではないか」というのが論敵の基本的な発想なのだから,Ar. の応答は論点先取でしかない。

A3 72b23-35

そこでこれらはこのようであると我々は述べ,また知識のみならず何か知識の原理もある*7と述べる。この原理によって我々は定義項を認識するのである。

  • 直前の内容と比較すると,知識の原理が知識であるか否かという点で Ar. は迷っているように見える。Ar. の最終的な結論としては,全ての知識は論証可能であり,無中項は知性 (νοῦς) が把握する (B19 100b5-17)。
  • ὅροι: definitions. 別の解釈としては terms ないし limiting propositions.「定義」は APo では ὁρισμός のほうが頻出。

A3 の残りは循環論証の不可能性に充てられるが,ここでは扱わない。証明不可能だが知ることができる原理の存在について,Ar. は論証を行っていない。この作業はB巻でなされる (明示的には B19)。

原理は真である

A2 71b25-26

そこで,論証の原理は真でなければならない。あらぬ事柄を知識すること,例えば対角線が通約可能であることを知識することはできないから。

省略的だが,R1 の擁護はこれで全てである。「偽なる前提は偽なる結論を導きうる」という前提が入っている。

原理はよりよく知られ,より先であり,根拠づけられている

A2 71b29-33

〔原理は〕根拠でも,よりよく認識されるものでもあり,より先であるものでもなければならない。根拠であるのは,根拠を知識するそのときに我々は知識するからであり,より先であるのは,まさに根拠だからである。また先立って認識されているのは,単にもう一つの仕方を把握することによってだけではなく,「そうある」ことを知っていることによっても,ということである。

なぜ x の根拠は x の原理であって,むしろ x の証明の中間の結論や,その他全然別の種類の考慮であってはならないのか?前者の問題は B17-18 で扱われる。後者は「論証がすべてを説明する」と考えるべき理由を問うもので,Ar. の論証概念そのものへの挑戦である。こちらは第17章で論じる。結論を先取りすると,Ar. は αἰτία 概念を論証的学問の必要に合わせて仕立てているのである。ここで言われているのは原理が何らかの意味で根拠でなくてはならないということである。この意味についてはとりわけA13, B8-18で明確化が試みられる。

R4 と R5 は一緒に扱われる。

A2 71b33-72a5

だが,「より先である」や「よりよく認識されている」は二通りにある。というのも,「本性上 (τῇ φύσει) より先である」と「我々に対して (πρὸς ἡμᾶς) より先である」は同じではないし,「よりよく認識される」と「我々によりよく認識されている」も同じではないから。「我々に対してより先である・よりよく認識される」とは「感覚により近い*8事柄である」ということであり,「端的により先である・よりよく認識される」とは「〔感覚から〕より遠い事柄である」ということである。ところで,最も普遍的な事柄が〔感覚から〕最も遠く,個別的な事柄が〔感覚に〕最も近い。そしてこれらは互いに反対である。

これも17章で詳述するが,予備的に数点述べておく。

  1. Ar. はここで語彙上固定的な定式化を行ってはいない。
  2. γνωριμώτερον は better known が最良の訳語だが,二通りのあり方の区別を考えると more intelligible もありうる。
  3. a1-4 は一見二通りのあり方の定義に見えるが,定義とすると Top. VI 4 141b36-142a4 と相容れない。定義ではなく,一般的な特徴付けと考えるべきだろう。
  4. 二通りのあり方の区別は,人間が知りうることと,最高の意味で知りうることの間に,壁を設けるものではない (↔ プラトン)。cf. Meta. Z3 1029b1-12.
  5. 特に a1-4 で R4 と R5 は等価とされているように見える。だが a1-4 が定義ではないのであれば,両者も等価とは限らない。
  6. 個別-普遍はふつう度合いを容れない。ここでは特殊-一般のことを述べていると解釈すべきである。

71b31-33 の解釈に立ち戻る。「より先であるのは,まさに根拠だからである。」この一節には二通りの説明がある。

  • 原理は客観的により先である,すなわち根本的である (Ross)。
  • 原理の知識を持つことは,その他の知識を持つことの必要条件であり,逆ではない (Barnes)。

Ross 解釈の方がこの一文には即している。しかし,難点もある。

  1. 「先立って認識されている」を時間的に解すると γνωριμώτερον と意味が一致しない。
  2. R4 のみが説明を欠くことになる。*9

Barnes 解釈は2つ目の問題を回避している。すなわち R4 は 71b33-72a5 で説明されていることになる。しかし第一の問題は残る。すなわち,原理が時間的に「先立って認識されている」と何故言えるのか?――だがこれには,論証的学問の場面が念頭に置かれているから,と答えられる。原理は, (1) 知識する上で時間的に先であり,(2) 認識論的に,(3) 因果的に,(4) 論理的に (帰結関係において) も先である。1 と 3 は 71b31-33, 4 は 71b28-29 で主張される。2 は 4 に含意される。論証的学問が,これら様々な意味での優先性をまとめているのである。

A2 72a25-b4

章末で Ar. は次の認識論的要求を行っている。

  1. 原理は結論よりよく知られ,結論よりよく信じられねばならない。
  2. 原理はその反対よりよく知られ,よく信じられねばならない。

A2 72a25-28

論証と我々が呼ぶところのそうした推論を持つことで,事柄を信じ,かつ知らなければならないのだから,また,それらから推論が出てくるところの事柄があることによって,その〔推論〕があるのだから,第一の事柄の全てあるいは幾つかを単に予め認識していることだけでなく,一層よく予め認識していることも,必然である。

論証が信じることの唯一の方法であると述べているわけでは決してない。信念には度合いがあり,「われわれにとってよりよく知られる」ことにも何らかの信が置かれている。だからこの一節も,あくまで論証的学問の文脈で読まれなければならない。

Ar. の意図は次の一節でより明確になる。

A2 72a37-39

論証による知識を得るだろう人は,原理をより一層認識し,証示されたことどもよりそれらを一層信じるべきであるだけでなく,……

Ar. が述べているのは,論証において「信じること」が特殊な意味を持つということではない。むしろ,日常的な意味での信念の,論証的学問における働きが述べられている。

Ar. は,信念のみならず知識にも度合いを認めている。Barnes は,「P だと知っている」には「P だと確信している」が含まれており,(例えば推論への) 確信の度合いに応じて (結論より原理を)「より一層知る」ということがありうる,と論じる (pp.104-5)。だが,「知識している人が端的に説得によって動かされないのでなければならない」のである以上,この解釈は疑わしい。むしろ次の一節が意味の解明に役立つ。

A2 72a30-32

従ってもし我々が第一の事柄を通じて知り,かつ信じるなら,それらもより一層我々が知り・信じるものである。それらを通じて後の事柄も〔我々は知り・信じる〕から。

つまり,「より一層」知るとは,「より根本的・基本的な仕方で」知るということである。論証的学問の専門家は,結論より原理により一層コミットしており,その限りで原理をより一層知るのである。

*1:McKirahan は巻数を I, II で表記するが,I と 1 の混同を避けるためここでは A, B で表記する。

*2:拙訳。概ね McKirahan の解釈に従う。以下同様。

*3:ὅταν. そのようなときいつでも。

*4:重要なポイント。

*5:新版全集の高橋久一郎訳では「固有の」と訳されている。こちらの方針を取ったものだろう。

*6:要検討だがこちらの方が読みやすいのは確か。高橋訳は句読法を弄らず τὰ ἄμεσα を主語に置いているように見えるが,文意はぼやけてしまう。

*7:あるいはここの εἶναι は predicative にも読めるのではないかと思う。

*8:ここは副詞だと思うが,なぜ副詞なのかよく分からない。

*9:この辺りの説明があまり飲み込めていない。