自体性 McKirahan, Principles and Proofs #7
- McKirahan, Richard D. Principles and Proofs: Aristotle's Theory of Demostrative Science. Princeton: Princeton University Press. 80-102.
本章では主に以下の箇所が検討される: A4, 6. 話が段々ややこしくなってきた。
定義は固有原理の一種であり,実在主張とともに,基礎に置かれる類についての論証不可能な事実を含む。実在主張は基体の本性を説明しないので,定義に全ての情報が含まれていなければならない。
語 ὁρισμός は A 巻にそれほど登場せず,むしろ 'τί ἐστι', 'τί σημαίνει' (ここから 'ὅτι τοδὶ σημαίνει' 'τό ... τοδὶ εἶναι' という表現が出てくる) という表現が頻出する。「何であるか」と「何を表示するか」の違いは些少であり,本章では無視できる。だが「何であるか」と定義の違いは重要である; 定義は「何であるか」(非言語的なもの) の説明規定である。
定義と「何であるか」の関係は無中項の原理と必然性の関係を形成する。論証の結論は必然的だが,原理は必ずしも必然的ではない。結論の必然性は,定義における自体的関係から生じる。A4 の主題は,事柄が自体的に関係するとはどういうことか,である。
A4 73a21-24
それについての知識が端的にあるようなものは,別様であることが不可能であるから,論証的知識によって知識されうる事柄は必然的であるだろう。論証的知識とは,我々がそれを論証を持つことによって持つ知識である。従って論証は必然的な事柄からの〔McKirahan: 'dependent on necessary [principles]'.〕推論である。
訳注
- 先立って示された結論を含めるため 'has as premises' ではなく 'dependent on' と訳す。
検討
学問的知識の条件は「別様であることが不可能である」ことは,結論の必然性を含意する,と述べている。ただしここから前提命題の必然性は含意されない。従って論証の飛躍がある。
A6 74b26-32
この飛躍は A6 で埋められる。
さて,必然的な事柄から論証があるべきであることは,このことからも明らかである。というのも,もし,「何のゆえに」の言論を持たない人は論証があるのに知識しておらず,また A が Γ について必然的に帰属しえて,中項 B ――それに関して論証がなされるのだが――は必然的ではないとすれば,彼は「そのゆえに」〔A が Γ に属するところの事柄〕を知らない。というのも,それは中項のゆえではないから。というのも,一方であらぬことが可能であり,他方で結論は必然であるから。
訳注
- 「論証があるのに」: (1) 証明可能だが,ひとが証明を知らないとき,(2) 何かを証明であると誤認しているとき,の二通りに取りうる。どちらでもよい。
- 「B は必然的ではない」: 「A-B or B-C が」とも「B-C が」とも取れる。
- 「というのも,あらぬことが可能であり」: 同上。あるいは「A-C が」。
検討
議論の根幹はわかりやすい: 「論証は必然的原理を有する。さもなくば,結論が「なぜ」(必然的に) 成り立つのかを我々は知らないことになるからである」。必然的事実の根拠ないし学問的知識はそれ自体必然的である,という見解が根底にある。
A6 74b5-12
この結論は A6 冒頭で用いられている。
さて,論証的知識〔McKirahan: "demonstrative science (or knowledge)"〕が必然的諸原理から出てきて (というのも,知っていることは別様ではありえないから),また事物に自体的に属することどもが必然的であるなら (というのも,あるものは「何であるか」に属し,他のものは「何であるか」においてそれらに述定されているものに属するから),何らかこうしたことから論証的推論がありうることは明らかである。というのも,全ての事柄はこのように属するか付帯的に属するかであり,付帯的な事柄は必然的ではないから。
訳注
- 「このように属するか付帯的に属するか」: 付帯的かつ自体的ということはない,と理解すべき。
- 「付帯的な事柄 (συμβεβηκότα)」= 付帯的に属するもの。
検討
- 証明は,自体的関係を主張する原理に依拠する。(結論) ―― これを導く前提は,
- 証明は,必然的関係を主張する原理に依拠する。
- A が B に自体的に属するとき,A は必然的に B に属する。
- A が B に属するとき,A は B に自体的か付帯的に属する。
- A が B に付帯的に属するとき,A は必然的には B に属さない。
3 は 1 を導くには不要だが,次の二つのさらなる帰結の導出に用いうる。
- A が B に自体的に属する iff. A が B に必然的に属する。
- A が B に付帯的に属する iff. A は B に必然的には属さない。
A4 は三つの関係を導入し分析する: 「全てについて」「自体的」「普遍的」。
全てについて
A4 73a28-34
さて,「全てについて」とは,あるものについてはそうであり,別のものについてはそうではない,というわけではなく,あるときにはそうであり,別のときにはそうではない,というわけでもないような事柄のことである。例えば全ての人間について動物でもあり,「これは人間である」と言うことが真であれば,「動物である」も真であり,またいま「一方である」と言うことが真であれば,「他方である」も真であり,また全ての線のうちに点があるとすれば,これも同様であるように。このことの証拠は次のことである。すなわち,全てについてあるかを問われたとき,我々は,あるものについてあらぬとか,あるときにあらぬというように反論するからである。
検討
「全てについて」A である := A が全ての B に常に属する。点と線の例は問題であり,述定と部分-全体関係の両方を含んでいることになる。「B があるときつねに A もある」などと言い換えざるをえない。
自体性
A4 の肝は自体性の取り扱いである。
自体性1
A4 73a34-37
「自体的」とは,「何であるか」において帰属する限りのことどもである。例えば三角形に線が帰属し,線に点が帰属するように。(というのも,それらの本質存在はこれらからなり,何であるかを語る説明規定に内属するから。)
訳注
ὑπάρχειν は ἐνυπάρχειν より非術語的で多義的だが,両者に重要な相違はない。
検討
A が B に「何であるか」において帰属するとき,A は自体的1に B に帰属する (A belongs per se 1 to B)。例は三角形-線,線-点。論拠は二つ: (1) B の本質存在 (οὐσία, being) が A に依拠していること (ἐκ),(2) A は「B は何であるか」を述べる言明において述定されていること。
(1) 三角形 (線) の本質存在が線 (点) にいかに依拠するのか。(a) 定義 = 類+種差,が標準的な構成。だがこの例は説明できない。(b) 「から成る (composed of)」と取ることはできる。但しアリストテレスによれば線は点から成るのではない (e.g. Phys. VI.1) という難点はある。(c) 「~によって決定される (determined by)」。――これらの選択肢については後述。
(2) こちらの条件も問題はある。「線」は三角形の定義に出現するが,三角形に述定されるわけではない。また,基体同士は類-種関係以外の仕方では述定され得ない。解決策の一つは「線」を「線によって囲まれる」と読み替えることであるが,「線によって囲まれる」ことに三角形の本質存在が依拠するとは言えない点が問題である。
McKirahan は次のように解する。「A」が B の定義に項として現れるとき,A は B に自体的1に属する。条件 (1) は ἐκ が表しうるあらゆる関係を意味する。条件 (2) は,B の定義における述定に A が出現する,ということである。
自体性2
A4 73a37-b5
また,それらに自ら帰属する限りのものに,「何であるか」を明らかにする説明規定において内属する。(例えば,直や曲が線に帰属し,奇や偶,第一,合成,平方,非平方が数に帰属し,これら全てに,「何であるか」を述べる説明規定において,このときは線が,あのときは数が,内属している。) 同様にして,他のことどもについても,こうした事柄が各々に関して「自体的」と言われ,どちらの仕方でも属しないものが「付帯的」と言われる。例えば動物に音楽的であることや白いことが属するように。
訳注
第一文は曖昧だが,直後の例からして,A が基体 B に帰属し,A の定義において B が述定されるものである。「それら (ἀυτοῖς)」は B を指し,「それらに帰属する限りのもの」は A を指す。「「何であるか」を明らかにする説明規定」は A の定義であり,「自ら内属する」のは B である。A が B に自体的に関係するのか,その逆か,が文法的に曖昧だが,73b22-24 で奇・偶を τὰ καθ᾽ αὐτά と呼ぶことから,帰属するもの (belonger) が基体に自体的に属すると考えるべきである。*1
検討
A が B に帰属し,B が A の定義において述定されるとき,A は B に自体的2に帰属する。A であるものは全て B であり (all A's are B's),B, 個々の B であるもの,B の種・下位種・種差にのみ,A は属しうる。
最後の一文は,A が自体的1にも自体的2にも B に属しないとき,A は B の付帯的な事柄である,と述べる。アリストテレスはこのことに論証を与えておらず,自明視しているようである。
A4 73b16-24
自体性1と2は学問的必然性と以下の一節で結び付けられる。
従って,端的に知識されうる事柄について自体的であると述べられる事柄は,述定される事柄に内属するか内属されるかという仕方で,それ自身によってあり,かつ必然的にある。というのも,端的に帰属しないことも,あるいは反対の命題が帰属しないことも,可能でないから。例えば線に直や曲が帰属し,数に奇や偶が帰属するように。というのも,反対の事柄は同じ類における欠如ないし矛盾であるから。例えば付随する限りで偶は奇ではないものである。従って,肯定または否定することのいずれかが必然であるなら,自体的な事柄は必然的に属する。
訳注
- 「述定される事柄」は述語を指し (Barnes),これに「内属する」とは基体が述語の定義に内属すること (自体性2),「内属される」とは述語が基体の定義に内属すること (自体性1) である。
- 「端的に」は自体的1な関係を指し,「反対の命題」は自体的2な関係について述べている。
- 「付随する限りで」: 奇ではないことが偶であることを含意する限りで。
- 「肯定または否定……自体的に属する」: A6 74a8-10 で再び主張される。
検討
二点検討しなければならない。(1) 自体的2な述語は反対物の対からなること,(2) 自体的な関係と必然性の結びつき。
(1) には複数の難点がある。第一に,アリストテレスは平方数 / 長方数が数に自体的2に帰属すると述べるが,これは合成数の中での区別である。また三つ以上の排他的・網羅的な自体的2属性もあり,対応するものがない自体的2属性 (e.g. 完全数) もある,と思われる。この「反対」説が必要になる局面もないため,アリストテレスによる性急な一般化として無視すべきである。
(2) アリストテレスは,A が B に自体的1または自体的2に属するなら,A は B にそれ自身のゆえに・必然的に帰属する,と述べる。(1) の欠陥にも関わらず,これは妥当な指摘である。
自体的1と自体的2: 要約と比較
A が B に属し,「A」が B の定義に出現するとき,A は B に自体的1に属する。このとき B は,A 自身または「A」を含む表現が B に述定されるような命題を生み出す。また,このとき全ての B は必然的に A である。e.g. 線と三角形。
A が B に属し,「B」が A の定義に出現するとき,A は B に自体的2に属する。このとき全ての A は必然的に B である。なお自体性2の「反対」説は失敗だが,排他性・網羅的要素を n 個に拡張すればより魅力あるものになる。
自体的2な関係は基体-属性関係か類-種差関係かという二通りの解釈がありうるが,前者のほうがよりよい。
自体的2と属性の定義
上述のことから,自体的2は論証的学問に枢要な位置を占める。属性の定義に基体が出現することで,属性は基礎に置かれる類に位置づけられるのである。(基体の場合も同様であることは先に見た。) 属性の定義における基体は基体の定義における類に対応する。素 (prime) を数の (種や種差ではなく) 属性と考えるなら,エウクレイデスの素数の定義は数という基体と「どの数が素か」の基準を特定するものと考えられる。「平行」の定義の場合「直線」が基体となる。自体的2な関係において,基体は属性が属しうる最も特定的な基体である必要はない。他方,属性も必ずしも基体の観点から定義されるべきとは限らない (e.g. 「二等辺」。)
自体的2と複合的対象
素数 (素 + 数) のような複合的対象は,いかにして基体となるのか。属性が (1) 基体に自体的2に関係する場合,(2) 異なる基体に関係する場合,で事情が異なる。
(1) 自体的2な関係は複合的対象の基体としての使用を正当化する。「素」にはそれが数であるということが既に含意されている。他方,属性は属性に属しないので,「素」を基体と認めることはできない。「素数」にはそうした問題はない。
(2) e.g. 等辺三角形。「等辺」は三角形に自体的2には属さない。むしろ図形に属する。他方で図形は量に属し,従って等辺の量について語ることもできる。*2したがって問題になる対象は属性が自体的2に帰属する基体を含む / に含まれる。他方,「等辺の線」や「等辺の円」は基礎に置かれるものたりえない。次のような教説が示唆されるだろう: 複合的対象 C と属性 A が論証の基礎に置かれるものとなりうるのは,C が基礎に置かれるもの B の下位クラスであり,かつ A が B に自体的2に属し,かつ属性 A を持つような C の実在が証明されているときである。――ここでも自体性2が役割を果たす。
自体的3
A4 73b5-10
さらに,別の何らかの基礎に置かれるものに関して述べられないもの〔も自体的である〕,例えば歩くものは何らか異なりながら歩いており,白いものも〔何らか異なりながら白いが〕,本質存在,つまり「この何か」を表示する限りのものは,何らか異なるのではなく,まさにそれであるところのものである。そこで,基礎に置かれるものに関して述べられないものを「自体的」と言い,基礎に置かれるものに関して述べられるものを「付帯的」と言う。
事物が自体的3である iff. それが別の基礎に置かれるものについて述べられない ⇔ 何か別のものになることなく,当のものである。
「本質存在は……」という一節を「本質存在のカテゴリーを他のカテゴリーと区別している」と解釈すると,論証的学問の脈絡を外れてしまう。「自体的3」の定義は,数学のような,実体以外のものを研究する学問にも適用され,各学問の基礎に置かれる類のうちでの基体と属性を区別するものと考えるべきである。
自体的4
A4 73b10-16
さらに,別の仕方で,それ自体によって各々に属するものを「自体的」と言い,それ自体によってではないものを「付帯的」と言う。例えばもし歩いているときに稲妻が走ったなら,付帯的である。というのも歩くことによって稲妻が走ったのではなく,偶々起こった,と我々は主張するから。他方,それ自身によってなら,自体的である。例えばもし何かが屠られて死に,また屠ることに応じて死んだなら,「屠ることによって〔死んだ〕,屠られつつ偶々死んだのではない」〔と我々は主張する〕。
検討
この一節は如上の文脈に沿わない。他の種類の自体的関係と異なり,基体-属性ではなく,出来事の間の関係になっている。とはいえ,因果系列はある種の必然性を有し,また自体的1 / 自体的2な関係が因果的構造の基盤にある。*3
普遍
A4 73b26-74a3
他方,「普遍的」というのは,「全てについて,かつ自体的に,かつそれである限りで」ということである。なので,普遍的である限りのことどもが,必然的に事物に属することは明らかである。だが「自体的に」と「それである限りで」は同じである。例えば点や直は自体的に線に属し (というのも実際,線である限りにおいて〔属するから〕),三角形は三角形である限りで二直角である (というのも実際,自体的に三角形は二直角に等しいから)。任意の第一のことについて〔McKirahan: in any chance case of what is primary〕示されるときはいつでも,そのとき普遍が属する。例えば二直角があることは図形について普遍的でもなく (だが,二直角があることは図形に関して証示しうる。しかし任意の図形〔に関しては示せない〕し,示す際に任意の図形を用いるわけでもない。というのも,四角形は図形であるが,二直角に等しいわけではないから),任意の二等辺三角形は二直角に等しいが,しかし第一にではない。むしろ三角形がより先に〔二直角に等しい〕。従って,任意の第一の事柄について,二直角を有すること,あるいは他のなにごとかが示されたなら,そのことはこの第一の事柄に普遍的に属し,そして自体的な論証はそれに普遍的であり,他のことどもの〔論証〕は何らかの仕方で自体的ではない。二等辺三角形の〔論証〕も普遍的ではなく,より多くのことについて〔普遍的である〕。
訳注
- 「普遍が属する」: 「A が普遍的に B に属する」ないし「A は B に普遍的である」。
- 「任意の第一の事柄について……普遍的に属し」: B が,A が属するところの任意の第一の事柄であると示されたなら,A は B に普遍的に属する。
- 「そして論証は……より多くのことについて」: 「それに普遍的」の「それ」は第一の事柄 (e.g. 三角形) を指し,「他のことども」は例えば二等辺三角形を指す。「自体的な論証はそれに普遍的」は,「それが論証の結論 S is P の S であり,P が普遍的に属する」ということ。「自体的な」は「論証」を修飾し,「論証の定義上・本性上」という意味。
検討
「普遍」の普通とは違う意味を導入している。「A が B に普遍的に属する」とき,A が全てについて B に属し,かつ A が自体的に B に属し,かつ A が B に「それである限りで」属する。これは結局「自体的」と同じ条件である。従って,このさん条件は普遍性の十分条件ではない。
普遍に固有の事柄は第4文で示される:「任意の第一のことについて示されるときはいつでも,そのとき普遍が属する。」ここで「第一のこと」が新たな条件である: A が B に普遍的に属するとき,B は「第一の」基に置かれたものであり,A はそれに自体的に属する。
普遍的関係の特徴の一つは,基体と属性が共外延的であることだ。e.g. 三角形と二直角。A5 の論述がこの点を明確にしている。そしてもう一つの特徴は自体性である。
ただし,普遍的関係が典型的には結論において成り立つ (cf. A4-5 の例) のに対し,自体的1, 2 な関係は定義について定められている。従って,この箇所の「自体性」の意味が問題になる。
この箇所の戦略は,最初に「普遍的」を「自体的」と結びつけ,次に「自体的」を定義的関係以外の事例に拡張する,というものだ。「それである限りで」という言い換えは,「自体的」の自然な意味を想起させ,自体性1, 2 のテクニカルな定義に惑わされないように読者を促す。
論証の結論は自体的か?
「何であるか」は定義と解するのが自然ではあるが,自体的1, 2 を単に定義に関わるものと考えると,いまの箇所を含め,結論を自体的とみなすいくつかの箇所と齟齬が生じる。また先述の A6 74b5-12 は結論を必然的とみなしており,必然的なものは自体的である。
さらに A22 でも自体的1, 2 な関係について論証があると述べており,また次のように,ある種の論証の帰結は自体的2な関係であるとも述べる:
A22 84a14-21
例えば数に,数に属するところの奇が〔「何であるか」において内属し〕,数そのものがその説明規定において内属し,今度は大きさや分割可能性が数の説明規定において内属する。両者のどちらも無際限ではありえないし,数の「奇」のようにも〔無際限ではありえない〕。(というのも,「奇」に他の何かがあり,それに属するものに〔「奇」が〕内属していた〔McKirahan: "there would be something else [that belongs] to odd, to which it [odd] belongs as an element [in the account of the thing] belonging [to it, i.e., odd]."〕,かもしれないから。だがもしこれがあったなら,数は第一にそれに属するものに内属するだろう。
検討
ἐνυπάρχει ὑπάρχοντι という表現は自体的2な関係について言われている。x が「奇」に自体的2に属するなら,「奇」は数に自体的2に属するので,x は数に自体的2に属する。つまり自体的2な関係は推移的である。
最後に,B8 では無中項でない説明対象 (e.g. 雷は雲の中の音である) が「何らか「何であるか」に属するもの」と呼ばれ,B10 は「定義 (ὁρισμός)」と呼んでいる。――以上の証拠からして,自体的1, 2 な関係が結論についても言われることは明らかである。さらに,自体性1, 2 の導入部分が定義とみなされる必要もない。
全てについて・自体的・普遍的・必然
まとめると次のようになる。「A が B に自体的に属する」⇔「A が必然的に B に属する」。「A が B に普遍的に属する」⇔ 「A は「全てについて」・かつ自体的に B に属する」。四者は原理の種類を特定するために導入されるが,適用範囲は定義に限られない。全ての科学的事実は定義上真であることになる (cf. ch.8)。
「自体的」や「必然的」と「全てについて」との関係は説明されていない。特に後者から前者が言えるか明らかでない。これは『後書』に無関係な問いである; 論証は必然性を示すだけでなく「何故か」を示さねばならないのだから。次の箇所はこの点を明確にする。
A5 74a25-32
これから個別的に,等辺三角形・不等辺三角形・二等辺三角形について,ある論証か別の論証によって,各々が二直角を持つことを証示するとしても,そうして三角形が二直角を持つことを知るわけではない,ソフィスト的でない仕方では。また三角形全体に関しても〔知らない〕し,それらの他に別の三角形がないとしても〔知らないの〕である。というのも,三角形である限りのことを知らず,数に即する仕方以外では全ての三角形についても知らないからである。種に即して全ての〔三角形について知っているわけでも〕ないからである,もし知らない〔三角形〕がなかったとしても。
検討
数に即する仕方 (κατ᾽ ἀριθμόν, numerically) は「全てについて」のことであり,その手の知識は学問的知識ではない。
「普遍的」の特徴が共外延性にあるとしても,それは外延的な概念ではなく,本性に根ざしている。「普遍的」と「自体的」の対比からして,「等辺三角形-二直角」の関係は自体的なのだろう。
*1:McKirahan は αὐτά ἐνυπάρχουσι を "they are predicated" と訳しているが,αὐτά をどう取っているのか謎。Detel の "die Dinge, auf die es zutrifft, selbst in der Bestimmung vorkommen" が文法的には最も自然に思われるが,Barnes の "what it holds of itself inheres in the account which shows what it is" は αὐτά を ὑπαρχόντων に掛けているように見える。後者が可能かどうか判断できないが,ここの αὐτά と καθ᾽ αὐτά が表現上相関するなら,Barnes 訳のほうが McKirahan 解釈により有利だろう。ここでは便宜上後者のラインで訳した。
*2:本当に?
*3:ここも何故そう言えるのかよく分からない。