『分析論後書』の史的背景 McKirahan, Principles and Proofs #1
- McKirahan, Richard D. Principles and Proofs: Aristotle's Theory of Demostrative Science. Princeton: Princeton University Press. 7-20.
『分析論後書』の研究書を読む。第一章は同書の背景にある5-4世紀における初期ギリシア科学の展開を叙述している。
初期ギリシア科学は次のような特徴を持つ。1. 哲学と科学の未分化。2. トピックの広範さ。3. 競合する諸体系の多さ。4. 説明原理の少なさ。5. 説明されるべき現象についての合意の不在。6. 説明される現象がほぼ日常的経験に限られていること。
ミレトス派と5世紀後半の「パルメニデス以後」の体系は,基礎においては大きな相違があるものの,現象の説明という点では目立った進歩はなかった。(尤も全くのアナーキーではなく,諸体系の間にはいくつかの共通点があるにはあった。それらは第一に目的を共有しており (宇宙の構造・機能・歴史・成素の説明),アプローチが類似しており (宇宙生成論),またエレア派以後には哲学的洗練を見せた。さらに用いる証拠の種類と説明原理も類似していた。最後の点は初期ギリシア哲学を東地中海や中東の諸文化から分かつ点でもある。)
競合理論の多様性は科学の未成熟を示している。未熟さの理由としては概念的なものと文化的なものがある。後者については,5世紀ギリシアにおいて科学的言説は一般公衆に理解可能なものでなければならなかった,という点が指摘できる。また著名な科学者の多くは社会において要職に就いており,(デモクリトスを除けば) 科学的探究に生活の大部分を捧げたわけではなかった。多くの思想家は熟慮のうえで見解を公衆に開陳したと思われる。6-5世紀には専門的科学コミュニティが存在しなかったからだ。(例外はピュタゴラス派と原子論者だが,ピュタゴラス派が科学に従事したのは後になってからのことであり,また彼らの貢献は自然科学よりは数学に関するものであった。原子論者はより本物の例外だが,(1) デモクリトスの生涯は4世紀に30-40年入っていること,(2) エピクロス以前に「学派」があった形跡はないこと,が指摘されるべきである。)*1議論が公衆に理解されねばならなかったことの代償は大きい。それは議論の専門化を妨げ,また科学者が余計なことに労力を割かねばならないことにもなった。
加えて概念・方法の枠組みと説明の正確さの基準がないために,理論の基礎と初歩的な結果から先に議論が発展しなかった。いわば「前パラダイム」(Kuhn) 段階にあった。自然科学は逼塞しており外部からの改革を要した。
実際にその役割を果たしたのは数学であった。エウクレイデス以前の数学についての資料は乏しいが,特に幾何学において注目すべき進歩があったことが分かっている。5世紀末までには相当な量の幾何学的知識が蓄積されており,また体系化の第一歩が踏み出されていた。就中キオスのヒポクラテス*2は「原論 (books of elements)」 を書いた最初の人であると言われる。*3彼の著作は散逸しているが,エウクレイデス『原論』(Elements) と概ね同様の構成であったと考えられている。すなわち,基礎的な命題とそうでない命題の区別に基づいており,「要素」(στοιχεῖον, elements) はなんらかの第一原理ないしは開始点を意味する語であった。数学者が証明の観念を特にエレア派の問答法的実践から借りたにせよ,独立に発明したにせよ,定理の証明という観念は5世紀末には広く知られていた。4世紀に入ると「原論」の数は増大し,幾何学は際立った成功を収めたディシプリンの一例となった。
また成功の要因としては,要素の体系への編成の他に,次の点も指摘できる。1. 厳密な定義と術語の発展 (cf. APo I.10),2. 解決すべき問題と方法,基準についての合意,3.「原論」が教科書の役割を果たしたこと,4. 「原論」理解により専門家が素人から区別され得たこと。
いくつかの自然現象が数学的に説明されうることは早くから知られていた。最も有名な例はピュタゴラスに帰せられる和音と比率の関係の発見である。4世紀にはエウドクソスとカリッポスにより天体の運動の数学的説明が試みられた。自然現象を論証によって証明するという真剣な試みがなされていたのだ。
アリストテレスは数学の発展に感銘を受け,成功の秘訣をその構成に帰したのだと思われる。APo はさらに進んで,科学を数学のように構成された学科として定義した。この過程でアリストテレスは転用と一般化をなさねばならなかったし,そのことは APo の諸概念にも反映されている。
(詳論すると本論考の範囲を超えるが,1. APo には科学的・数学的背景の他に哲学的背景,就中プラトンに多くを負っている (cf. Solmsen, Die Entwicklung)。2. 論証的科学の概念を論じるなかで,アリストテレスはディシプリンが進歩する上で必要なものを特定しようと試みた。事実上彼は科学的パラダイムのモデルを確立したと言える。)