近代におけるプレソクラティクスの形成 Laks, The Concept of Presocratic Philosophy #2
- André Laks (2018) The Concept of Presocratic Philosophy: Its Origin, Development, and Significance. trans. by Glenn W. Most. Princeton-Oxford: Princeton University Press. 19-34.
第2章は近代的 Presocratics 概念の源流として Zeller / Diels の歴史学的作業とニーチェ思想を踏査する。
語 'Presocratic' は18世紀末に現れ,論争を経て19世紀に定着した。定着の背景には (1) ニーチェによる Presoc. の哲学的再評価,(2) ディールスによる編纂作業があった。
この呼称に問題がないわけではなかった。第1の問題はソクラテスの名を用いることの可否である。既にエーベルハルトは「ソクラテス的」時代をソフィストの叙述から始めている。というのも,ソフィストもソクラテスに劣らず「人間」に関心を有したから。同じ理由で Krug (1815) はソクラテスではなくプラトンを画期とするが,同年のシュライアーマッハーの講義はこれに対抗し,問答法・倫理学・自然学の相互貫入性を「知識それ自体の観念 (the Idea of knowledge in itself)*1」において基礎づけた点にソクラテス独自の意義を見る。他方ヘーゲルの哲学史講義はエーベルハルトの見解により近い形でソクラテスを相対化する。
Zeller (1844/1852) は再びソクラテスの役割を強調するが,シュライアーマッハー的というよりむしろアリストテレス的な仕方で,ソクラテスを概念 (εἶδος) の哲学の最初の代表者として扱う。ソフィストは新しい哲学を示したのではなく,ある種の哲学の解消を示したのみとして Presoc. に数えられる。そして Diels (1903) はツェラーの時代区分に沿って「自然哲学者」と代表的ソフィストを Presoc. に数える。
ニーチェは当初クルーク (& カーステン) 的に Preplatonics について語ることを好んだが (cf. 1869年以降のバーゼル講義),1875/76 年以降はソクラテスを画期と考えるようになる。いずれにせよ,彼の解釈は〔Prepl./Presoc. をより高く評価する点で〕キケロ的 pre-Soc. 理解の転倒である。ただし Prepl. は自然についての理論家ではあり,その理論はショーペンハウアーが既になしていたように反目的論的な近代科学と類同化される (タレス - カント/ラプラス,ヘラクレイトス - ヘルムホルツ & ベーア,エンペドクレス - ダーウィン。だが最大のヒーローはデモクリトス)。ニーチェの独創は Metaph. A のような目的論的歴史叙述をも否定したことにある。Prepl. と近代科学者の並置は,前者を後者の先蹤として位置付けることの拒否に他ならない。彼らの教説は「人格 (personality)」を示す点においてのみ関心の対象となる。
ニーチェの反目的論的方針は,古代人と近代人との関係についての問題という枠組みを持つ視野からその意味を得ている。ニーチェの Prepl. は知識のために知識を探求したのではなく,むしろ彼らの「悲劇的」文化における矯正的機能を果たしたのである。『反時代的考察』(1876) が提示する〈アイスキュロス - ワーグナー,パルメニデス - カント,エンペドクレス - ショーペンハウアー〉という相同性は,二つの対称的な文化的変動の論理を指摘している。すなわち一方にギリシアにおける〈悲劇の時代 → ソクラテス的頽廃〉,他方にドイツにおける〈ヴィルヘルム期ドイツの頽廃 → ショーペンハウアー,カント,ワーグナーの哲学的刷新〉があり,したがって Presoc. が近代の超克のモデルとなる。
ところでこの対称性は,ニーチェの分析のいわばヘルダーリン的モティーフを前提している。ヘルダーリンによれば,夕べの国の (Hesperian) 詩人たちがギリシア人に比肩するのは,固有の民族的性質を育むことによってではなく,むしろギリシア人と同様に,それに抗うことによってであった。ニーチェにとっても,古代の哲学者がギリシア文化の生命力を示すのは,その文化から生まれた,当の文化の矯正者となることによってだったのだ。ギリシアとドイツとでは「矯正」の対象が異なる以上,〔当初の〕Prepl. の範型的性格は複雑さを増すことになる。ギリシア文化とドイツ文化は部分的に同じ危機を共有しており,その限りでは同じ矯正策が有効になる。だが他の特徴は,一方の貸方,他方の借方に記入される。神話に抗する科学への信念が後者の典型例である。
実際のところ,ニーチェによれば,Presoc. による文化的革新はソクラテスにより途絶され,未完に終わった。ニーチェが『ギリシアの悲劇時代における哲学』において,Prepl. の教説は多くの誤りを含んでいた,と指摘したことも,ここからより良く理解される。Presoc. の教えの本質は,その教説ではなく,教説と文化の関係にあるのだ。さらに,「科学の人」という Presoc. の見方は,より根本的な Presoc. 批判を準備する。デモクリトスやエンペドクレスも批判され,最後にはヘラクレイトスが辛うじて守られるにすぎない。
こうした根本的な志向は現象学的伝統,就中ハイデガーに受け継がれる。Presoc. を近代性の危機と衰退を示すものと捉える点で,ニーチェは Presoc. の発案者であるのみならず,ハイデガーの「始源的思索者たち (anfängliche Denker)」の着想源なのだ。
Presoc. 概念のもう一つの問題は接頭辞 pre- の両義性にある。一方でこの接頭辞は時間的先行性を意味する。ただしそこで実際に意図されるのはむしろ形態学的特徴付けであり,Kranz が DK5の序文で強調したように,ソクラテス以後の非ソクラテス-プラトン的哲学を含む。ーーとはいえ,こうした明確化も,疑念を完全には解消しない。形態学的解釈は時系列的視点を無効化するものではない以上,例えば DL が新ピタゴラス派を Presoc. に入れるのは疑わしい。
他方で pre- は「準備」「予期」あるいは「劣後」を意味しうる。そもそも後続する「ソクラテス」が (ソクラテス-キケロ-ニーチェ的伝統において) 何らかの革命を意味する以上,接頭辞の目的論的使用は自然の傾向ではある。もっとも画期を定める際ソクラテスは周縁化されうる: Presoc. の pre- は広義には特にアリストテレスとの対比において理解されるからだ (Metaph. A)。(それゆえニーチェはアリストテレスを批判し,ハイデガーは語 Presoc. の使用を避けた。)
それゆえ Zeller 以来の歴史叙述も語 Presoc. の代替案を探ってきた。例えば「アッティカ以前の (pre-Attic) 哲学」(カッシーラー) は DL に影響を受けた地理的中立化の試みである。もう一つは「ソフィスト以前の哲学」(オッパーマン)。これらより成功を収めたのは「アルカイック期の哲学」である。が,いずれも "Presoc." には対抗し得なかった。
他方 Companion to Early Greek Philosophy の編者は "Presoc." の使用を避け,アリストテレスの定式化に倣い「ギリシアの最初の哲学者たち」と呼ぶ。切れ目よりも連続性に重点を置くこちらの定式は,アングロサクソン的歴史叙述の伝統から来ている。
もっとも Presoc. と「最初の哲学者たち」の対立は確固たるものではなく,"Presoc." はそれが有しうる含みなしに用いられ続けている。というのも第一に "Presoc." は形容辞としても名辞としても便利であり,ソクラテスという否み難い分水嶺の存在をよく示す。第二に,Presoc. は断片しか残されていないという点で同質的である。このことは伝承史から説明できる。シンプリキオス (6C) は未だアポロニアのディオゲネスの論考の第2巻を読んでいたし,おそらくパルメニデス,エンペドクレス,アナクサゴラスも直接読み,Phys. A の注解で引用したが,その際彼は自分が遺産を保護しているということを自覚していた。人々が確実に Presoc. のテクストを直接目撃したと言えるのは12世紀までで,15Cにも『カタルモイ』の写本が残っていたという証言はあるものの,現物は見つかっていない。時おりのパピルスの発見もテクストの断片的性格を変えるものではなかった。こうした消滅は単なる偶然の産物ではなく,プラトン主義とアリストテレス主義への敗北に他ならない。こうした状況こそ,著作とともに精神史の一時代 (epoch) が呑み込まれてしまった,と感じさせる理由であり,それゆえ断片的性格は Presoc. の同一性のもっとも議論の余地のない基準と言える。
*1:よく分からないので逐語訳にとどめる。Schleiermacher (1815) 1835, 289.