トラシュマコスの定義観はそれほど厳密ではない Chappell, "Thrasymachus and Definition"

  • T. D. J. Chappell (2000) "Thrasymachus and Definition", Oxford Studies in Ancient Philosophy 18, 101-7.

Everson 1998 への応答論文。批判的な論点についてはご尤もとしか言いようがない。


Everson の論考のうち,Θ. の議論の『ポリテイア』における位置付けに関しては賛同できる。だが,Θ. の立場が一貫しないというテーゼには,依然賛同できない。

Everson によれば,Θ. は次の二点を主張するがゆえに不整合である。(A) 正義と不正は遵法性 (law-abidingness) とその反対によってのみ定義されうる。(B) ある人々は正義の律法主義的定義と無関係な仕方で不正である。――私はこのうち A についてのみ議論する。

Everson は「定義」ということで何を意味しているのか?彼は次のように主張している (p.104):

  • (U)「全ての x について,x の定義は x の本性についての理解をもたらす」と Θ. は考えている。
  • (S)「全ての F について,F 性の定義は F であるとはどういうことかを特定する」と Θ. は考えている。

さらに彼は,次のようにも主張している (p.107-8):

  • (PI)「全ての F について,F 性の定義は,F性がそれによって同定されるような性質を特定する」と Θ. は考えている。
  • (PJ)「正義を定義するには,ある性質を別の性質と同定すれば充分である」と Θ. は考えている。
  • (PS)「正義の定義,正しく行為することとはどういうことかの特定,正義を同定する性質の特定,正しい行為の性質と別の性質の同定,は全て同じことである」と Θ. は考えている。

Everson は U, S, PI, PJ, PS をあたかも交換可能なテーゼであるかのように論じる。だが U の穏当なテーゼと他のテーゼは全然異なるし,他のテーゼは正しくない。 (Everson 自身がその理由を与えている: "there is no reason to think that Thrasymachus is supposed to have any considered views about what formal properties a definition should have." (p.104))

さて U だけを認めるなら,不整合の批難は当たらないことになる。U によればトラシュマコス的な x の定義とは x の徴候的 (diagnostic) 性質,x とは「本当のところ」何なのかを示す性質を与えるものに過ぎない。上述の A は次の定式化に取り替えられるべきである。(C) ありていに言って,正しい行為は典型的には国家の法律に合致する (もしかするとそれによって要請される) ものであり,不正な行為は典型的にはそれらの法律の違反である。――これは B と矛盾を来さない。

U こそ定義ということで Θ. が理解していることの全てだ,と考える方が,Everson のプラトン的定義観より,遥かに尤もらしい。