トラシュマコスは正義について指令的主張をしていない Chappell, "The Virtues of Thrasymachus"
- T. D. J. Chappell (1993) "The Virtues of Thrasymachus", Phronesis 38, 1-17.
Θ. は正義そのものについては指令的な (prescriptive) 主張を何らしておらず,単に記述的な (descriptive) 主張をしているだけである,と論じる。*1「言われてみれば当然」というくらいにごく素直な解釈だと思う。第2節の「指令的でない」ことの論証はあまり robust でないが,結論そのものには異論はない。
I
〔先行研究の列挙。この箇所は省略する。〕
Θ. は自分の立場を色々に表明する。正義は A. より強い者の利益である,B. 法律への服従である,C. 政権 (ἀρχή) の利益である,D. 他人の利益である。これらは一見不整合である。B≠C であることは Σ. が指摘している。また D は A-C と一致しないように思われる。
だが,Θ. は混乱しているわけではない。我々はこのことを,記述的テーゼと指令的テーゼという区別を立てて論証する。Θ. の主張は次のように理解される: 彼は正義についての記述的テーゼを立てているのであり,指令的テーゼを立ててはいない。但し彼は,正義の特徴としばしば共外延的な特徴についての指令的テーゼは立てている。
II
Σ. や Θ. の「正義」は「道徳的な正しさ (moral rightness)」の類義語ではない。それは単に行為の正当化に用いられるだけではなく,それ自体正当化を要する概念である。
従って,正義についての二つの指令的テーゼがありうる: (I) 「これこれのことをしなければならない。なぜなら,それは正義だから。」(II) 「人は正しく (just) なければならない。なぜなら,正しくあることが人間の卓越性だから。」だが,Θ. はこのいずれも述べていない。*2
他方この逆,つまり (III) 「x は不正だ」が x をなす理由になる,あるいは (IV) 不正は徳である,とも Θ. は主張していない。まず,(III) は (I) と同様の矛盾を Θ. の立場に引き起こす。すなわち自分が「より強い者」の場合,A と D の原則の間で衝突が生じる。*3そして (IV) は第一に 348c で否定されており,〔一見 (IV) を支持する〕348e における「不正を ἐν ἀρετῆς καὶ σοφίας μέρει に置く」という表現は,「不正が ἀρετή である」と述べるものではない。*4第二に, (IV) からは (III) が帰結するが,(III) は保持できない。第三に,不正は実践的知性であって,当人の可能な範囲を超えて不正をなすことはできず,従って Θ. も無条件に不正をなすべきであると言っているわけではない。
III
むしろ Θ. の主張は記述的主張である。換言すれば現実社会で δικαιοσύνη と呼ばれるものの記述である (343c-d)。すなわち δικαιοσύνη は狡知に長けた人間がお人好しを騙す術策である。
ここから四つの帰結が生じる。
- Θ. は不道徳主義者ではない。Umwertung aller Werte は Θ. の目指す所ではない。
- Θ. は人間の栄華 (human flourishing) についての,就中何がそれを可能にするかについての指令的テーゼは有している。そしてそれらは,正義についての我々の現実の態度に依拠している。
- 人間の栄華についての Θ. のテーゼの背景には徳についての見解があり,それはプラトンの四枢要徳に対立している。Θ. によれば,ἰσχύς, ἐλευθερία (Unrestraint; cf. Gorg. 492c), δεσποτεία, εὐβουλία こそ枢要な徳である。
IV
- Θ. の主張をこのように見れば,A-D は整合的に説明できる。
〔先行研究の諸見解の棄却。この箇所は省略する。〕