『自然学』I 7 前半部は専らアポリアー解消を目的とする Kelsey (2008) “The Place of I 7”

  • Sean Kelsey (2008) "The Place of I 7 in the Arguments of Physics I" Phronesis 53, 180-208.

I 7 前半部の役割は I 5-6 におけるアポリアーの解消にすぎない、という deflationary な説明を提示する論文。当該箇所の論述を単一のテーゼに代表させ、そのテーゼの役割を確定することで当該箇所全体の役割をも限定する、という手順を取る。強い主張だが、手続きは穏当だろう。妥当な主張かどうかは全体を読み直して確かめる必要がある。


φανερὸν οὖν ὡς, εἴπερ εἰσὶν αἰτίαι καὶ ἀρχαὶ τῶν φύσει ὄντων, ἐξ ὧν πρώτων εἰσὶ καὶ γεγόνασι μὴ κατὰ συμβεβηκὸς ἀλλ' ἕκαστον ὃ λέγεται κατὰ τὴν οὐσίαν, ὅτι γίγνεται πᾶν ἔκ τε τοῦ ὑποκειμένου καὶ τῆς μορφῆς· (I 7, 190b17-20)

この意見表明は多くの問いを呼び込む。これはいかなる立場か? いかなる問いへの答えか? いかに論じられているか? なぜこれが重要なのか? ーー しかし本稿が論じるのは、より小さな問いである: この立場はどこで論じられているのか?

一般には I 7 前半部だと考えられているが,誤りである (と以降で論じる)。I 7 はアリストテレスの原理論の独立した論証をなしてはいない。むしろ I 7 前半部は I 5 以降のより大きな文脈に従属している。

本稿はまず I 6 における行き詰まりを論じる。この行き詰まりは I 6 の推論が I 5 の推論を体系的に掘り崩していることから生じる。次いで I 7 を論じ,特にここでアリストテレスが導入している素材はまさに I 6 の行き詰まりの解消を目的としていることを示す。

I.『自然学』I 6

ὅτι μὲν οὖν οὔτε ἓν τὸ στοιχεῖον οὔτε πλείω δυοῖν ἢ τριῶν, φανερόν· τούτων δὲ πότερον, καθάπερ εἴπομεν, ἀπορίαν ἔχει πολλήν. (189b27-29)

I 6 末尾でこう述べるが、なぜ困難だと考えるのか明快でない。なるほど I 6 の議論は試論的であるかもしれないが、結論を躊躇うのが何故かは問題である。

I.1. 研究状況

  • Simpl., Phil.: 反対者を一つと数えるか否かに存する。ーー しかしこの解釈は、問題を瑣末にするのみならず、I 6 189a12 から容易に論駁できる: 反対者はあくまで二つである。
  • 「欠如」が真正な原理であるか否かが問題である。つまり「基礎に置かれるもの」と一緒に (数的同一性にもとづき) 数えられるべきか、別個に (形相において異なることにもとづき) 数えられるべきか。ーー だが、これは I 7 で生じる問題であり、I 6 で陥るべきアポリアーではない。
  • Charlton: I 5 と I 6 は 'a mild antinomy' をなす。I 5 の結論は反対者が唯一の原理であることを示唆しており、これが I 6 の趣旨と衝突する。ーー だが、「すると問題は2つか3つかそれ以上かである」という I 6 への移行 (189a9-12) が説明できない。ーー とはいえ、I 5 と I 6 の成果の総合について留保する局面もあり (a34-b3)、この解釈は基本線としては正しい。

I.2.『自然学』I 5 と I 6 の二律背反

I 6 は三部に分かたれる: (1) 原理は複数だが有限個である (189a12-20), (2) 原理は三つ以上ある (189a21-b16), (3) 原理は三つより多くはない (189b16-27)。

本稿は (2) に着目する。ここでアリストテレスは、反対者だけが原理ではない理由を述べていると装いつつ、実はそもそも反対者原理であることを示す I 5 の議論を掘り崩している。問題は2点ある。

I.2.1. 問題1: 優先性

δεῖ γὰρ τὰς ἀρχὰς μήτε ἐξ ἀλλήλων εἶναι μήτε ἐξ ἄλλων, καὶ ἐκ τούτων πάντα· τοῖς δὲ ἐναντίοις τοῖς πρώτοις ὑπάρχει ταῦτα, διὰ μὲν τὸ πρῶτα εἶναι μὴ ἐξ ἄλλων, διὰ δὲ τὸ ἐναντία μὴ ἐξ ἀλλήλων. (188a27-30)

原理の特徴は第一の反対者の特徴でもある、と論じている。二点注意すべきである: (i) ここで「なぜ反対者から全てが構成されねばならないか」は説明されていない。(ii) 原理が他のものから構成されるべきでない理由は、他のものに対し優先性をもつからである。こうした点で、I 6 が反論を提出する:

πρὸς δὲ τούτοις ἔτι κἂν τόδε τις ἀπορήσειεν, εἰ μή τις ἑτέραν ὑποθήσει τοῖς ἐναντίοις φύσιν· οὐθενὸς γὰρ ὁρῶμεν τῶν ὄντων οὐσίαν τἀναντία, τὴν δ' ἀρχὴν οὐ καθ' ὑποκειμένου δεῖ λέγεσθαί τινος. ἔσται γὰρ ἀρχὴ τῆς ἀρχῆς· τὸ γὰρ ὑποκείμενον ἀρχή, καὶ πρότερον δοκεῖ τοῦ κατηγορουμένου εἶναι.

ἔτι οὐκ εἶναί φαμεν οὐσίαν ἐναντίαν οὐσίᾳ· πῶς οὖν ἐκ μὴ οὐσιῶν οὐσία ἂν εἴη; ἢ πῶς ἂν πρότερον μὴ οὐσία οὐσίας εἴη; (189a22-34)

ここでは、反対者が実体になれないことから、(ii') καθ' ὑποκειμένου δεῖ λέγεσθαί という仕方で後続的である (posterior to) ことが示され、また (i') 反対者が実体という重要なクラスを構成できないことも示されている。

I.2.2. 問題2: 産出

I 5 で反対者が原理とされる第二の理由は、反対者が生成の起点であることである。

ληπτέον δὴ πρῶτον ὅτι πάντων τῶν ὄντων οὐθὲν οὔτε ποιεῖν πέφυκεν οὔτε πάσχειν τὸ τυχὸν ὑπὸ τοῦ τυχόντος, οὐδὲ γίγνεται ὁτιοῦν ἐξ ὁτουοῦν, ἂν μή τις λαμβάνῃ κατὰ συμβεβηκός· (188a31-34)

次いで、生成するものは反対者ないし中間者から生成し、しかし中間者は反対者からなる、と論じる。したがって 'πάντ' ἂν εἴη τὰ φύσει γιγνόμενα ἢ ἐναντία ἢ ἐξ ἐναντίων' (188b25-26) とされる。

本稿が問題にするのはこの「全ては反対者から生成する」という想定である。なるほど「どんなものからでも生成する」わけではないにせよ、なぜ特に反対者でなければならないのか? ー この点 GC I 7 が参考になる。

οὐδὲν γὰρ ἂν πάθοι λευκότης ὑπὸ γραμμῆς ἢ γραμμὴ ὑπὸ λευκότητος, πλὴν εἰ μή που κατὰ συμβεβηκός, οἷον εἰ συμβέβηκε λευκὴν ἢ μέλαιναν εἶναι τὴν γραμμήν· οὐκ ἐξίστησι γὰρ ἄλληλα τῆς φύσεως ὅσα μήτ' ἐναντία μήτ' ἐξ ἐναντίων ἐστίν. (323b25-29)

ここで何かが何かに「なすこと (action)」は本質的に暴力的・破壊的に考えられている。すなわち、あるものをその自然本性から 'drive out' (ἐξίστησι) することだとされる。事実このことはアリストテレスの変化観の重要な要素である。

このような変化観に I 6 の議論は対置される。

ἀπορήσειε γὰρ ἄν τις πῶς ἢ ἡ πυκνότης τὴν μανότητα ποιεῖν τι πέφυκεν ἢ αὕτη τὴν πυκνότητα. Ὁμοίως δὲ καὶ ἄλλη ὁποιαοῦν ἐναντιότης· οὐ γὰρ ἡ φιλία τὸ νεῖκος συνάγει καὶ ποιεῖ τι ἐξ αὐτοῦ, οὐδὲ τὸ νεῖκος ἐξ ἐκείνης, ἀλλ' ἄμφω ἕτερόν τι τρίτον. (189a22-26)

反対者が何かをなす・作るときは、それを反対者からなさなければ・作らなければならない。だが、反対者から何かが生まれることはできず、むしろ第三項を要する。

したがって I 6 では、I 5 と一見相反的な、建設的変化観が提示されている。このことは反対者のみが原理であるという想定に反し、またそもそも反対者が原理であると想定する根拠を掘り崩している。

II.『自然学』I 7

以上のアポリアーが I 7 の背景をなす。I 7 は二部に分かれ、後半部冒頭で原理論の結論が述べられる。前半部はこの結論のための独立した自己完結的論証を含むか? 否である (と以下論じる)。むしろ、前半部の役割は、I 6 のアポリアーを解消する素材を提供し、I 5 以来の議論を自然な結論へともたらすことである。

II.1. 予備的論点

いくつか予備的な論点を提示する。

第一に、I 7 前半部は全体として単一のテーゼに従属する。すなわち「生成するものはつねに基礎に置かれるものであり、それらは (形相において) 一つではない」。

第二に、第一の論点の系として、前半部の役割についての問いは畢竟このテーゼの役割についての問いとなる。

第三に、このテーゼは原理論の最終的結論を述べるたぐいのものではない。まず、このテーゼは原理に言及していない。むしろ生成するものについて、それが (i) 基礎に置かれる (ii) 一つでないものだと述べるのみである。次に、アリストテレスが求めているのは「生成するもの」の原理ではなく、生成の産物の原理である。

II.2. τὰ γιγνόμενα は決して「一つ」ではないこと

では、テーゼの意味と役割について考察しよう。第一に生成するものが「一つ」ではないこと。アポリアーは、一方でものが反対者から生成するように思われ (破壊的変化)、他方でものは「基礎に置かれるもの」から生成するように思われること (建設的変化)、から来ていた。「生成するものは一つではない」というテーゼは、これを解消する。

διὸ ἔστι μὲν ὡς δύο λεκτέον εἶναι τὰς ἀρχάς, ἔστι δ' ὡς τρεῖς· καὶ ἔστι μὲν ὡς τἀναντία, οἷον εἴ τις λέγοι τὸ μουσικὸν καὶ τὸ ἄμουσον ἢ τὸ θερμὸν καὶ τὸ ψυχρὸν ἢ τὸ ἡρμοσμένον καὶ τὸ ἀνάρμοστον, ἔστι δ' ὡς οὔ· ὑπ' ἀλλήλων γὰρ πάσχειν τἀναντία ἀδύνατον. λύεται δὲ καὶ τοῦτο διὰ τὸ ἄλλο εἶναι τὸ ὑποκείμενον· τοῦτο γὰρ οὐκ ἐναντίον. (190b29-35)

'ὑπ' ἀλλήλων γὰρ πάσχειν τἀναντία ἀδύνατον' は、反対者が反対者を何かにすることはできないこと (I 6, 189a22-27) への言及である。基礎に置かれるものが反対者でない (つまり生成するものは二つである) ことから、このアポリアーは解消される。

だが、「生成するものは一つではない」というテーゼがアポリアー解消のためだけに提示されていると論じるのは、あまりに収縮的な議論だという反論がありうる。すなわち、この言明は質料形相論の主張そのものであり、I 7 後半部の「合成物」への言及もそのことを立証している。

しかし、これは誤りである。このテーゼは二点で質料形相論の主張とは異なる。(1) 生成するものの「構成要素」は質料と欠如であって、質料と形相ではない。(2) 構成のされ方も異なる。ここで生成するものが二つであるのは、単一のトークンが二つの異なるタイプ (e.g. 「無教養な」「人間」) の実例をなすからである。統一性はトークンの単一性 (「数的に一つ」) が確保する。他方で質料形相論においては、「人間」タイプの定義そのものに現れるような自然本性として「質料」と「形相」が語られる。ーー したがって、あくまで収縮的に読まなければならない。

II.3. τὰ γιγνόμενα はつねに「基礎に置かれるもの」であること

「τὰ γιγνόμενα が基礎に置かれる」というテーゼは、しばしば、「τὰ γιγνόμενα は質料である限りで生成を通じて存続し続ける」という意味に理解され、かつこれは実体の生成を無からの生成ならざるものとして可能にする点で、アリストテレスの理論的成果と見なされてきた。

この解釈は誤りである。確かにアリストテレスは生成を通じ何かが存続すると考えただろう。だが、そのことはここで問題になっていない。むしろ、アリストテレスの独創は、生成する動植物が実体であると考えた点にある。

可能な反論:「何かが存続する」ことこそ、I 8 におけるアポリアー解消を可能にしているのではないか。答え:「何かが存続する」ことはアポリアーの前提であって解決ではない。

では、「τὰ γιγνόμενα が基礎に置かれる」とはいかなる意味か? 答え: 生成するものは、つねに、述定の究極的な主項 (an ultimate subject of predication) でなければならないということ (cf. 190a35ff.)。

この論点は I 6 で予告されている (189a22ff.)。反対者に加えて何か第三項を措定する必要があり、この第三項はなんらかの主項である。したがって、「全てのものが反対でない第三項から作られねばならない」というテーゼは、「全てのものは主項から生成する」という論点へと容易に変換される。

II.4. より大きな論証を完了する

あらためて、I 7 前半部は論証全体にどう寄与するのか。I 5 では反対者が原理である、すなわち生成の起点であり、ものが「それである」「構成される」ものだと論じられた。他方で I 6 では、原理が反対でない「主項」を含む旨、論じられた。しかし、まだ両者を単純に組み合わせることはできない。というのも I 6 によれば、第一に、反対者は何かがそれからなるところのものではなく、第二に、反対者がそれについて語られるところのものがあり、その限りで後続的である。

I 7 前半部がこれらを解決ないし回避する。まず τὰ γιγνόμενα は一つではないとして第一の問題が解決される。そして基礎に置かれるものの導入を通じて、第二の問題も回避される。

φανερὸν οὖν ὡς, εἴπερ εἰσὶν αἰτίαι καὶ ἀρχαὶ τῶν φύσει ὄντων, ἐξ ὧν πρώτων εἰσὶ καὶ γεγόνασι μὴ κατὰ συμβεβηκὸς ἀλλ' ἕκαστον ὃ λέγεται κατὰ τὴν οὐσίαν, ὅτι γίγνεται πᾶν ἔκ τε τοῦ ὑποκειμένου καὶ τῆς μορφῆς· σύγκειται γὰρ ὁ μουσικὸς ἄνθρωπος ἐξ ἀνθρώπου καὶ μουσικοῦ τρόπον τινά· διαλύσεις γὰρ εἰς τοὺς λόγους τοὺς ἐκείνων. δῆλον οὖν ὡς γίγνοιτ' ἂν τὰ γιγνόμενα ἐκ τούτων.

ここで「基礎に置かれるもの」「形」と呼ばれているのは、原理のふたつの候補である。「教養ある人間」に関する説明は、これらが候補である所以を説明するものではなく、むしろ「欠如」が原理ではない所以を説明している。I 5 以降の議論は全体として、原理に関する典型的にアリストテレス的な教説が全体として整合することを論じているのである。