廣川洋一『イソクラテスの修辞学校』長谷川博隆『カエサル』

今週読んだ本。二冊のあいだに特に関係はない。

廣川洋一『イソクラテスの修辞学校』

ソクラテス(436-338)と彼が開いた学校についての研究書。同著者の『プラトンの学園 アカデメイア』の姉妹編と見ることもできる。ただし本書は,イソクラテスの学校の「具体的身体」については,――もちろん様々な興味深い分析が加えられてはいるけれども*1――それほど叙述の比重をおいていない。むしろ,彼の提示したパイデイアー(教養ないし教育)の理念と,プラトンおよびアカデメイアのそれとの相剋が叙述のライトモチーフとなっている。言い換えれば,「プラトンアカデメイアにおいて組織的に行われた,いわば数学的哲学的教養と,イソクラテスにおいて確立された文学的修養」(9-10頁)との相剋である。

ソクラテスは,一方で「善き思慮」と「善き言論」を一体のものとして捉え,師であったゴルギアスをはじめとする当時のソフィスト思潮に対立する。ここにはソクラテスの深い影響が見られる。他方で彼は,プラトンに抗して,健全な判断(ドクサ)を厳密知識(エピステーメー)から切り離し,前者をピロソピアーと称する。*2たこのことのコロラリーとして,ミュートスをピロソピアーから厳しく排除する。そして実際に,イソクラテスの修辞学校とプラトンアカデメイアとの間では一定の応酬があった。この時代に哲学史的関心をもつ人にとって避けては通れない思想家だということが分かる。

長谷川博隆『カエサル

表題通りユリウス・カエサルとその時代を描く書。話の基本的な筋としては,自治自衛を旨とする都市国家体制がさまざまな要因で崩れてゆき,拡大してゆく国家がクリエンテラ関係を張り巡らすことで辛うじて維持されていた時代にあって,カエサルは「都市国家ローマの政治のしくみをたたきこわすこと」はせずに「クリエンテラ網をすべて自分一人にたぐり寄せる」(57頁)ことで,一人支配を確立し,後のローマ帝政の基本的方向性を決定したのだ,という。

物語風の叙述で気軽に読め,ローマにおいて政治的にのし上がっていく局面の叙述も,軍人としての活躍を描く描写も,精彩に富んでいる。ところで,本編がカエサルの外面を描くとすれば,鋳造貨幣に刻まれたカエサルの容貌をいとぐちとして「カエサルの孤独」を論じた「付論二」はその内面を照明していると言え,こちらも興味深い。同著者が編者となっている『古典古代とパトロネジ』もいずれ読む。

*1:一例として,『パイドロス』229-230の風景描写が,イソクラテスの学校のありえた場所の雰囲気を知る手がかりとなる,という指摘などは面白い。弟子は生涯を通じて100人ほどで,初期はアテナイ,後にはギリシア全土ひいては諸外国から参集した,という話や,弟子たち相互の間で一種の相互批評がなされていたという推測も興味を惹く。

*2:ソクラテスプラトンの時代にはピロソピアーは未だ「高い教養」というほどの一般的な意味も強かったが,固有の思想的立場を表すピュタゴラス以来の狭義の用法も存在した。