アンナ・カヴァン『アサイラム・ピース』

Asylum Piece (1940).表題作のほかに幾つかの掌編を収める.掌編はすべて一人称形式であり,ほぼすべてで,語り手が何らかの途方もない迫害を被る−−審判を宣告され,尊厳を挫かれ,機械や牢獄のかたちに具現化した病に苦しめられる.淡々とした文体ではあるが,カフカなどよりはいくぶん私秘的・観念的で,幻想的光景へと昇華された迫害妄想のように読めるものもある.

アサイラム・ピース」は「アサイラム・ピース I」から「アサイラム・ピース VIII」までの8章から構成される.精神療養所に収容され,そこから逃れられない運命にある患者たちを描く.掌編の「私」に対する様々な迫害に,見えざる掟が支配する療養所という具体的な場所を与え,客観的に描写しなおしたような趣きがある.多くは無根拠な希望とその喪失,陰鬱な日常への回帰,というループを描くが,ある女性患者とスイス人の看護婦との一瞬の精神的交流を記した「アサイラム・ピース VI」は例外的で,この一章がかえって「アサイラム」に独特のリアリティを添えているように感じられる.

魯迅『故事新編』

原書は1936年刊行.標題のとおり故事に取材した寓話集.読んだ覚えがなかったが,読み始めるとあちこちに既視感を覚えたので,少なくとも部分的には再読のようだ.

取材のしかたはさまざまで,一方には雄大コスモロジーを背景にしながら,女媧の力強くも素朴な姿と,頭でっかちで卑小な人間たちとを対比する寓話があり,他方で嫦娥奔月の神話を甲斐性のない夫が妻に逃げられる話に読み替える喜劇もある.いずれにしても風刺的要素が強く,また時局性もあるようだ.例外は (訳者の竹内好も指摘するように)「剣を鍛える話」(「鋳剣」) で,『捜神記』などに見える逸話にもとづく壮絶な復讐譚.個人的にはこれが特に気に入り,種本のほうも読んでみたいと思わされた.「古人をもう一度死なせるような書き方だけはしなかった」という魯迅の自負は−−明らかにそれは簡単なことではない−−もっともだと思う.竹内のほかに武田泰淳が解説を寄せており,もはや解説者たち自身もすでに文学史に属している.

シルヴィア『論文生産術』

  • ポール・J・シルヴィア (2015)『できる研究者の論文生産術』講談社

これは大変良い本だった.ためになり,面白く,ごもっともなことしか書いてない.心理学者が心理学的知見に基づいて書いているのもポイント.特に2-3章の内容は拳々服膺したい.修士一年のこの時期に読んでおいてよかった.

ワイスバーグ『科学とモデル』

  • マイケル・ワイスバーグ (2017)『科学とモデル: シミュレーションの哲学入門』松王政浩訳,名古屋大学出版会.

原著は M. Weisberg (2013) Simulation and Similarity: Using Models to Understand the World, OUP. 科学においてモデルとは何か,何がモデリングという実践を構成するか,モデル−対象間の関係はいかなるものか,を論じる.

第2章では,モデルの三分類 (具象モデル,数理モデル数値計算モデル) が行われ,いずれも構造とその解釈とからなると論じられる.第3章はこれを敷衍する.第4章では「数理モデルはフィクションである」という説を,フィクション概念自体の場合分けを行いつつ論駁するとともに,フィクション的シナリオを想像することを「慣習的存在論」と呼んで,モデリングの補助手段として位置づける.第5-7章はモデリングをモデルと世界との関係に応じて分類し (対象志向型モデリング,理想化,特定の対象なしのモデリング) 各々の特徴を論じる.第8章は,モデルと対象の間の関係を,特徴の一定の重み付けに基づく類似関係であるとし,トヴェルスキーの類似性の説明を援用・改良してこの関係の定式化を行う.第9章はモデルのロバストネスの分析が科学的探究に寄与することとその方式を論じる.第10章は各章で導かれた結論の要約で,理解の枠組みのおさらいになっている.

個々の議論をきちんとフォローできたわけではないが (特に 8-9 章のテクニカルな議論は追えていない),ざっと通読したのでメモしておく.具体的なモデルを用いて議論をしていて (著者のお気に入りはサンフランシスコ湾モデルとロトカ・ヴォルテラモデル),色々と勉強にはなった.R. A. フィッシャーの「性はなぜ二つであり,三つ以上ではないのか」という問いなど (第7章.これは非現実的な対象のモデリングの例として挙げられている.なお実のところ性が三つやそれ以上である場合は存在するらしい).本論として特に面白かったのは「モデルとは何か?」を直接問う 2-3 章と理想化の分類論 (6.1).またモデルのフィクション説批判はたぶん美学者が読んでも面白いと思う.

必然的に指示する心的表象は存在しない Putnam (1981) "Brains in a vat"

教科書的に知ってるつもりの話でも原論文読むのは大事だなと思った.議論の射程が正確にわかるから.今回の場合だと,ある種の「超越論的」議論が企図されていること,思考の表現 (心的表象) と表現の理解を各々出来事1 (occurrence)と能力 (ability) として区別するという論点,ブレンターノや現象学が直接の論敵であること,あたりがそう.


  1. この訳でいいのか知らん.概ね出来事トークンというくらいの意味だと思う.

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Wiggins (2001) SSR, Preamble #3 同一性へのアプローチ

  • David Wiggins (2001) Sameness and Substance Renewed, Cambridge University Press.
    • "Preamble, chiefly concerned with matters methodological and terminological". 1-20 [うち 13-20 (§7-10)].

はてなブログPHP Markdown Extra の脚注記法に対応してるの知らなかった.

Preamble まで読んだ感想.(1) とにかく悪文すぎる.カントなみ.21世紀の哲学者に許される水準にない.(2) 中身はまあ面白い.あと陰に陽にアリストテレスの自覚的影響が相当見て取れる.ウィトゲンシュタインの影響と同程度にはありそう.テクストの「現代的意義」を気にするアリストテレスの哲学的読者は少なからず得るところがあるように思う.(1) がなければ「必読」と言いたいくらい.

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