SEP「論理的帰結」Jc Beall and Greg Restall, "Logical Consequence"

  • Jc Beall and Greg Restall, “Logical Consequence”, The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Winter 2016 Edition), Edward N. Zalta (ed.).

帰結概念は必然的かつ形式的であり,そのことは証明もしくはモデルを用いて説明される。本記事で触れるのは,論理的帰結に関する,中心的・基本的な哲学的問題のみである。


1. 演繹的帰結と帰納的帰結

論証 (argument) のあるものは演繹的に妥当であり,別のものは帰納的に妥当である。前者の前提は結論が真であるために必然的に十分である。他方,後者の前提は結論にとって恐らく (very likely) 十分であるが,必然的に十分であるわけではない。帰納的論証の適切さの度合いも様々だが,ここでは演繹的妥当性に焦点を合わせる。

演繹的妥当性を特徴づけるのに,必然性 (i.e. 例外がないこと) だけでは十分ではない。というのも,具体的に見れば,必然性にもいろいろあるからだ。

  • 一つは形而上学的必然性である。すなわち全可能世界で前提が真であれば,結論も真であること。だが,これだけでは,妥当性の十分条件ではない。ア・ポステリオリな必然性 (e.g. (3)*1「x は水である。従って,x は H2O である」) は演繹的に妥当であるわけではないからだ。*2
  • もう一つの道は,必然性を概念的必然性と解することである。この場合,「水は H2O である」は概念的真理ではないから,(3) を除外できる。似たものとして分析的必然性がある。だが,これらの場合,次の推論を除外できない。(4)「ピーターはグレッグの母親の兄弟の息子である。従って,ピーターはグレッグのいとこである。」この推論は形式的でないのだ。
  • さらに,アプリオリ性により論理的帰結を基礎づける方法も考えられる。だがこれも (4) を除外できない。

2. 形式的帰結と実質的帰結

(4) は実質的帰結であって形式的帰結ではない。だが形式内容の区別は何を意味しうるのか。

形式性の一つの特徴は図式に依拠することだ。例えばアリストテレスの Ferioのように。だが,これも十分条件ではない。(5) 「x は y の母親の兄弟の息子である。従って,x は y の兄弟である」のような例を考えればよい。別の候補を検討する代わりに,そもそも両者の区別にどういう意味があるのかを吟味しよう。

  • 形式的規則は対象の特徴に中立的である。タルスキは置換 (permutations) を用いてこれを定式化した: 操作ないし述語は,対象の置換において不変であれば,一般的 (ないし論理的) である。任意の置換 p について,Rxy であれば Rp(x)p(y) であるとき,二項述語 R は置換について不変 (permutation invariant) である。例えば同一性関係 = はそうであるが,「〜は〜の母である」はそうではない。さらに p(・A) iff ・p(A) のとき は置換について不変である。例えば否定がそうである。「JC は〜と信じる」はそうではない。
  • これに似ている分析として,形式性とは規則が全て抽象的であることである,というものもある。すなわち意味論的内容を含まないこと。
  • 別の候補として,規則が思想 (thought) の構成的規範 (constituitive norms) をなす,というものがある。

3. 証明とモデル

20世紀のテクニカルな仕事は,証明とモデルという二つのテクニックを用いた。

  • 証明中心的アプローチによれば,論証の妥当性とは,それが証明になっていることである。
  • モデル中心的アプローチによれば,論証の妥当性とは,その反例が存在しないことである。

モデルの「本性」はなにか,特に,モデルにおける真理値のヴァリエーションはどう理解すればよいか,という哲学的な問いには,二つの答えがありうる。(a) 非論理的語彙の「再-解釈」,(b) 「可能世界」のヴァリエーションの反映。

他方,証明論的分析とモデル理論的分析とに関わらない論理的帰結の一般的特徴も存在する。タルスキの Cn(X) (X から帰結する命題の集合) についての以下の主張がそれである。

  1. XCn(X) の部分集合である。
  2. Cn(Cn(X)) = Cn(X).

なお,ある言語について帰結関係 Cn を定めたとき,多くの場合にそこから当該言語の論理定項を復元できる,という驚くべき研究が存在する。

論理的帰結について,(典型的には)「実在論者」はモデル理論による説明を好み,「反実在論者」は証明論的な説明を好む。真理,および対応による真理の説明,は典型的な実在論的観念である。他方,対応説的真理を前提したくない反実在論者にとっては,項の定義を含む推論規則を基礎的とみなすことは魅力的である。だがいずれにせよ,さまざまな証明体系について,健全性定理・完全性定理が,両アプローチの少なくとも外延における一致を示している。このことの哲学的意義は,しかし依然議論に開かれている。

4. 前提と結論

論理的帰結の「かたち (shape)」,とりわけ前提と帰結の数,についても議論がある。アリストテレスによれば推論は2つの前提から1つの結論を出すものだが,これは論理的帰結としては明らかに狭すぎる。今日では論理的帰結を (無限を含む) 任意の数の前提と1つの結論の対とみなす人が多い。特に前提が0個のときは論理的真理 (トートロジー,証明論においては定理) と呼ばれる。

だがゲンツェンは多くの結論を出すことを許容した。この方針は特にダメットのような反実在論者には評判が悪い。反実在論者によれば,良い推論は前提から結論に保証が伝わる (warrant is transmitted) ことによって特徴付けられるのだが,A から B,C への論証において,B または C には必然的には保証が伝わらない。

なおまた,部分構造論理の研究がこの方面に関わる。部分構造論理はいくつかの標準的な規則を制限する。例えばふつう X から C を推論する論証は X, A から C を推論する論証に弱められるが (weakening),これは問題含みである (A から C が帰結するわけではないから)。また Curry のパラドクスの解決に関して contraction 規則を斥ける議論もある,等々。しかし部分構造論理の哲学的重要性や適用可能性は議論されつづけている。

5. 一か多か

そもそも論理的帰結の概念は一つだろうか,それともたくさんあるのだろうか。一元論者,文脈主義者=相対主義者,多元論者の間で議論がある。正統派である一元論者は,論証が演繹的に妥当かどうかは全か無か (all-or-nothing affair) であると考える。文脈主義者ないし相対主義者は,評価の文脈による,と考える。多元論者は,同一の文脈においても,時には妥当性に関してさまざまなことが言えると考える。e.g. 矛盾する命題の集まりから無関係な命題を引き出すことは, (前提が偽だから) ある意味で妥当であるが,他方で前提の真理性が結論の真理性を導いていない。多元論者は,論理的帰結は一つより多い仕方でより正確なものになりうる (「よい議論」がそうであるように),と考える。

*1:原文のナンバリングに従う。

*2:ここは水がH2Oであるということが形而上学的必然性に含まれているとしか読めない。