『トピカ』のイデア論批判はフェアーか Owen, "Dialectic and Eristic in the Treatment of the Forms"

  • G. E. L. Owen (1968) "Dialectic and Eristic in the Treatment of the Forms" in G. E. L. Owen (ed.) Aristotle on Dialectic: The Topics. Proceedings of the Third Symposium Aristotelicum. Oxford: Clarendon Press. 103-125.

『トピカ』におけるアリストテレスプラトン批判の哲学的内実を考察する論文。従って取り上げる箇所は同シンポジウムのド・フォーゲルの論文とほぼ同じ (但しオーウェンはソフィスティキ・エレンキも見ている)。議論は分析的で論点の選び方からはヴラストスの「第三人間論」論文の余波も感じられる。


I. 理論

ド・フォーゲルの論文は,アリストテレスが特定の哲学的立場にコミットしていることを前提している。これと対立するのが,問答法の実質を争論術と同一視するグロートやチャーニスの立場である (= 還元テーゼ reductive thesis)。

還元テーゼの帰結として,アリストテレスによる他の哲学者の批判が疑わしいものとなること,および諸学の第一原理についての議論 (Top. 101a34-b4) やカテゴリーの理論の確立 (An. Pr. 43a37-39) という効用が疑わしくなること,が挙げられる。これらの帰結は,アレクサンドロスが明言したある仮定に基づいている。すなわち,アリストテレスの理論定立に先立つ先行研究や一般的信念の吟味の方法は問答法的である,という仮定に。それらはΘ巻の記述には適合しないが,A巻の規定には適合している。

『分析論前書』24b10-13 で,アリストテレスは口頭の論戦と上記の手続きとをともに問答法であるとみなしているようにも見える。だが,前者は前提命題として矛盾言明対を取り,後者は phainomenon kai endokson を取る,と述べて区別する。前者は争論術でしかないとしても,後者はそうではない,とも解せる。だが,アリストテレスは二つの問答法があるとは述べていない。むしろ両者を同化させようとしている,というのが,本当のところだろう。さらに言えば,そもそも還元テーゼは尤もらしくない: アリストテレスは繰り返し問答法と争論術を区別している。争論を目的とする策略は,問答法的でないか,良くない問答法である (161a17ff.)。

とはいえ,彼の問答法の唱道と,その実践とは別問題である。そこで,トピカにおけるイデア論批判を例に考える。

II. 実践

プラトンイデアは,(A) イデアの地位を有する限り,それについて幾つかのことが真である。e.g. 不変である。(B) それが表す特定の概念のゆえに,幾つかのことが真である。これは二つに分けられる。(B1) 概念の論理的特徴から真である。e.g. 人間は kath'auto であり pros ti ないし pros heteron ではない (クセノクラテスとアカデメイア派の図式において)。(B2) 概念の普通の定義からして真である。e.g. 人間は二足であり動物である。

各々をA述語,B1述語,B2述語とする。もっとも,B1とB2が事柄として異なるか (i.e. カテゴリーはクラスと別ものか),またアリストテレス自身が区別していたか,は議論の余地がある。幸いここでは A と B の区別だけが重要である。

これらの個々のグループ内で矛盾が示す場合,それは妥当なパラドクスであると思われる。グループを跨ぎ越している場合,パラドクスはいかがわしい。例えば「人間は定義上動くものだがイデアとしては不動である」ということに矛盾はないように思われる。前者を一水準パラドクス (one-level paradox),後者を二水準パラドクス (two-level paradox) と呼ぶことにする。

III. A述語

(1) 113a24-32

〔…〕あるいは,何かについて何ごとかが述べられ,その何ごとかと反対のことが〔当の何かに〕帰属することが必然であるかどうかを〔考察すること〕。例えば,諸々のイデアは我々のうちにあると言われることのように。なぜなら,イデアは動き,かつ静止している,ということが〔そこから〕帰結するだろうし,そしてまた,イデアは感覚され,かつ知性によって捉えられる,ということも帰結するだろうから。というのも,イデアがあると措定する人々は,イデアは静止しており,かつ知性によって捉えられると考えているが,我々のうちにあるものは不動ではありえないからである。なぜなら,我々が動けば,我々のうちにある全てのものも一緒に動くことが必然だからである。他方,我々のうちにあるのなら,感覚されもする,ということは明らかである。なぜなら,我々は視覚の感覚を通じて各々のもののうちにある形を知るのだから。*1

アレクサンドロスが認識していたように,この箇所は『パルメニデス』1032b-c となんの関係もない。ド・フォーゲルのように noema と morphe en hekastoi を同一視するのはおかしい。攻撃対象はむしろエウドクソスとその追随者である (『イデアについて』,cf. Alex. in Metaph. 98.21-24)。さて,この箇所の議論は公平だろうか。ここでの批判はアリストテレス自身の議論にも当てはまりうる (Phys. 224b5ff.) し,そこでの彼の譲歩 (211a17ff.) はエウドクソスに対しても行ってよいように思われる。以上の区別はエウドクソスのものではないために,エウドクソスはここで紹介されなかったのだろう。

(2) 178b36-179a10

また,「人間そのもの,および,個々の人間たちと並んで,第三の人間がある」という議論もそうである。人間や総じて共通のものは,このもの,つまり本質存在ではなく,性質や量や関係やそういった述定のなにかを意味しているからである。「コリスコスと教養あるコリスコスについて,それらが同じか異なるか」という言論も同様である。一方はこのもの,つまり本質存在を,他方は特定の性質を意味していて,孤立されることはできないからである。「第三の人間」の議論は,孤立させることが生み出すのではなく,それが正にこのもの,つまり,本質存在であると認めることで誤謬が生じるのである。「正に人間であるもの」とは,「カリアス」のようなこのもの,つまり本質存在ではなく,また,孤立させられたものは本質存在ではなく性質であると主張する人がいても,何の違いもない。それでも「人間」の場合のように,多くの個物と並んでなにか一つのものがあることになるからである。それゆえ,すべてに共通に述定されるものは,本質存在であると認めてはならず,それは性質か関係か量か,そのような本質存在以外の述定を意味することは明らかである。*2

プラトンは「非同一性措定」と「自己述定措定」を解きほぐせなかったのだ,というのがヴラストスの主張である。だがアカデメイアはこれを現に解きほぐしたのであり,『イデアについて』はその記録である。チャーニスの主張にも関わらず,アリストテレスはこの論証そのものをソフィスト的論駁であるとはみなしていなかったと思われる。

IV. B1述語

(3) 181b25-34

同じことを何度も言うことに導く冗語の言論については,答えては,或る特定のものとの関係で語られる関係の述定が,それ自体で切り離されてなにかを意味すると認めてはならないのは,明らかである。例えば,「二倍」が「半分の二倍」の内に現れているという理由で,それを切り離してはならない。また,「10」は「10引く1」の内にあるし,「制作する」は「制作することがない」の内にあり,総じて,肯定は否定の内にあるからである。しかし,もし人が「これは白い,のではない」と言っても,「これは白い」と言っているのではない。また,「二倍」はそれだけでは,ちょうど「半分」がそうであるように,おそらくなにも意味しない。だから,もしなにか意味があっても,それがなにかと結びついた場合と同じことを意味しない。また,知識も,その種(例えば,医学知識)における場合と,共通のものの場合で,同じことを意味しない。共通のものとは「可知的対象の知識」であった。*3

これは同のイデアに関するプラトンの教説の批判になっている (cf. Metaph. A 990b15-17, M 1079a11-13)。〈同〉(the Equal) は何かに同じでなければならず,pros ti である。他方イデアは kath'auto である。よって不条理。

チャーニスは,イデアの自己存立を意味する kath'auto と論理的な kath'auto の混同を見て,オーウェンの言う二水準パラドクスであると批判する。だがこれは当たらない。『パイドン』73e-75a のある解釈からするギーチのプラトン擁護も,ここの議論とは無関係である。*4

V. B2述語

(4) 143b11-32.

さて,上述のトポスは,イデアがあると措定する人々に対して有用である。というのも,長さそのものがあれば,この類について「幅を持つ」あるいは「幅を持たない」がいかにして述定されるだろうか?というのも,この類について真であろうとするなら,あらゆる長さについてこれらの一方が真でなければならないのだから。だが,このことは起こらない。なぜなら,長さは幅を持つことも,持たないこともあるから。したがって,このトポスは,全ての類が数において一であると述べるあの人々に対してのみ有用である。というのも,長さそのものや動物そのものが類であるとこの人々は述べるからである。*5

ここは問題のない議論である。

VI. 二水準パラドクス

以上より,一水準パラドクスは誠実で根拠のあるものであると思われる。問題はむしろ二水準パラドクスである。

(1) 148a14-22

〔…〕さて,語られた定義がイデアにも適合するかどうかを考察すること。というのも,いくつかの場合にはそうはならないから。例えば,プラトンが動物の定義式において可死であることを付け加えて定義したようにである。というのも,例えば人間そのもののように,イデアは可死ではないだろうし,それゆえ,この説明規定はイデアには適合しないだろうから。一般に,「なしうる」や「被りうる」が付加されるものは,イデアの定義に一致しないことが必然である。というのも,イデアは何も被らない不動のものであると[イデアがあると語る人々に]思われているからである。そうした人々に対しては,このような言論も有用である。

不変性・不死性はA述語,その反対はB述語である。これがパラドクスなら,アリストテレス自身の形相の理論も矛盾を来すのではないか,という疑問が生じるかもしれない。だが,アリストテレスからすれば,プラトンにとって (アリストテレス自身におけるのとは異なって) 人間のイデアであることはある人間であることなのである。それゆえA述語とB述語が矛盾を来す。「このような言論も有用である」というのは,殆どの人々にとって無害な論証もプラトニストには脅威になる,という含みを持っている。

(2) 146b36-147a11

〔…〕だが,上述のことをも説明したとしても,イデアはあると措定する人々はイデアへと導かねばならない。というのも,現れるもののどれにもイデアはないが,例えば欲望そのものは快楽そのものの〔欲望〕であり,願望そのものは善そのものの〔願望〕であるように,イデアイデアとの関係で語られると思われているからだ。すると,〔願望は〕善として現れるものの〔願望〕でもなく,〔欲望は〕快楽として現れるものの〔欲望〕でもないことになる。なぜなら,善として現れるものそのもの,あるいは快楽として現れるものそのものがあるということは,おかしいから。*6

イデア論者がX性をあるXと同一視していることだけからは,この批難は正当化されない。だが,イデアはパラデイグマすなわち標準的サンプルであるという前提からすれば,問題なく理解できる。*7

従って,ここまでは問題ない。だが,アリストテレスがこのレベルの相違を解消し,プラトニストに譲歩していると一見して思われる一節がある。

(3) 137b3-13

〔…〕次いで,提示されたもののイデアを注視すること。一方で,破棄する側は,〔提示されたものが〕イデアに帰属しないかどうか,あるいは,〔提示されたものが〕それの固有性であると説明された当のものが語られるその仕方で〔イデアに帰属するのでは〕ないかどうか〔を考察すべきである〕。というのも,〔提示されたものがイデアに帰属しないとすれば,〕固有性であると措定されたものが固有性ではなくなるからだ。例えば静止していることは,人間そのものには,人間である限りでは帰属しないが,イデアである限りでは帰属するのだから,不動であることは人間の固有性ではありえない。他方で,確立する側は,イデアに帰属するかどうか,またそれの固有性ではないと措定されたそのものが語られる当の仕方で帰属するかどうか〔を考察すべきである〕。例えば魂と体から構成されることは動物そのものに属し,このことは動物そのものに,動物である限りで帰属するのだから,魂と体から構成されることは動物の固有性でありうる。

チャーニスによれば,ここでアリストテレスイデア-固有性 (property) 関係と主語-固有性関係を同一視している。これはイデアを実在的契機と本質的契機に区別したうえで前者を無視していることを意味しており,イデア=実在=本質というプラトンの概念把握を無視したものである。従って,ここでのアリストテレスの議論は公平でない。*8だが,この批判は当たらない。

ところでそもそも,これが単にプラトンイデア論に関わり,その追随者に説諭するための一節である,と想定するのは誤りであると思われる。そもそもこの一節は,イデアの観念を用いるのは有用である,と述べる文脈にある。アリストテレスはなるほど,イデアをパラデイグマとみなし分有を語ることは空虚であると考えていたし,auto という接頭辞の無意味さも非難したが,これらのアカデメイア的語彙を自らの目的のために用いる用意はあった。だから,批判の仕方の誠実さを疑う必要がないどころか,そもそもここでイデア論批判はなされていないのである。

*1:Top. については前記事 (http://eta.hatenablog.com/entry/2018/06/03/175408) の訳を流用する。但し SE については新版全集の納富訳を引用することにする。

*2:納富訳,441-2頁。

*3:納富訳,457-8頁。

*4:このあたりあまり読めていない。

*5:b23以降のみ。前記事より引用。

*6:a5以降。

*7:"but see Verdenius, p.38 supra; contra, Düring, p.216" (p.118).

*8:ここでチャーニスが何を言っているのか,正直なところよくわからない。直後のオーウェンによる敷衍は明快だが,それがチャーニスの言わんとしていることの正しい説明なのか心もとない。