トランスジェンダーとフェミニズム Bettcher (2014) "Feminist Perspectives on Trans Issues" #1
- Talia Bettcher (2014) "Feminist Perspectives on Trans Issues" The Stanford Encyclopedia of Philosophy (Spring 2014 Edition), Edward N. Zalta (ed.), 1-22.
SEP の項目の要約.長めの記事なので少しずつ読む.今回は4節まで.ここはトランスジェンダー研究前史にあたる内容で,20世紀中頃までの医学的な議論,および初期の非トランス・フェミニストであるジャニス・レイモンドと,トランスジェンダー研究の草分けとされるサンディ・ストーンの論争が扱われる.
- フェミニズムとトランスジェンダー理論・政治運動は驚くほど緊張した関係にある.本稿は,両者が交わる場所にある重要な哲学的問題を粗描する.
- そのために,米国で展開された両者の歴史を,おおむね時系列順に追っていく.
- 哲学的主題のうち主要な一群は,自己についての競合するさまざまな見解や,性別を持つ身体 (sexed body) やジェンダーと自己との関係にかかわる.
- これに関連する別の一群は,ジェンダー的抑圧の理論や抵抗戦略を編み出す際の政治的・哲学的困難にかかわる.
1. 用語法
- 「トランスジェンダー」は「ジェンダーについての一般的な予期に合致しない」さまざまな人々を指す包括的な用語である.
- 現在の英米圏において,この語はトランスの人々の医学的病理化に抗する政治的立場を示す.
- 「トランスセクシュアル」は,医療技術を用いて身体をジェンダー化された自己に適合させる人々や,出生時に割り当てられたのと「反対」の性別を自認する人々を指す.
- 伝統的に「トランスセクシュアル」は精神医学上の概念だった.今日では「トランスジェンダー」になじむ (包含される) 用法でも用いられる一方,「トランスジェンダー」からの断絶を示す政治的な用語としても用いられる.
- 'FTM' や 'MTF' も,もともとはトランスセクシュアルな (医学的) 言説に結びついていたが,現在はより一般に出生時の割り当てと「反対」の方向に向かう人を指す.また「男性 / 女性」と類比的な未定義項としても用いられる.
- 「クィア」(queer) は侮蔑語を再利用した政治的・理論的用語で,LGBT のカテゴリーにしばしば入れられる個々人に適用される包括的用語である.
- 2010年ごろから,「トランス*」(trans*) という用語が「トランス (ジェンダー)」より包括的な語彙として用いられるようになった.
- 本稿では「トランス」をこれらさまざまなカテゴリーのプレースホルダーとして用いる.
- トランスフォビアは,多くの場合,諸個人を各々の自己感 (sense of self) と反対の仕方でカテゴライズすることを伴う.それゆえ「トランス」が特定のアイデンティティや共有された政治的ヴィジョンを人々に帰するものと理解されてはならない.これは本稿でのみ用いられる便宜上の用語にすぎない.
2. トランスセクシュアルという現象
- 2013年まで,性同一性障害 (Gender Identity Disorder) はアメリカ精神医学会の DSM-IV-TR と WHO の ICD-10 の診断カテゴリーであった.
- トランスセクシュアリティが DSM-III に追加されたのは 1980 年のことだ.だがトランスセクシュアリティを病と見なす見方ははるかに古い.トランスという現象をめぐる初期の学問的な議論は性科学 (sexology) という分野において展開された.
- 20世紀前半に,ヨーロッパの科学者は「性転換」の実験を始めた.1953年には,C. ジョーゲンセン (Christine Jorgensen) が米国初の「有名人」 MTF となり,トランスセクシュアリティが心理的な病 (psychological condition) なのか,身体的な病なのかについて科学的論争が白熱した.
- 当時米国で優勢だったのは前者の立場であり,これによれば,トランスという現象は心理療法による治療の対象であった.
- 一方で後者の立場 (ヨーロッパ・モデル) は「両性理論」(bisexual theory) を採った.これによれば,あらゆる人間は男性・女性の身体的な混成物なのだが,特別な場合に「性別混合」状態になり,場合によって手術による介入が正当化される.
- 「ジェンダー」という術語の導入 (1955) は,マネーやハンプソンら (John Money, Joan Hampson, and John Hampson) の研究による.
3. トランスセクシュアル帝国
- 最初期の非トランス・フェミニストによるトランスへの見方の多くは敵対的だった.彼女らの立場は,とりわけジャニス・レイモンドの The Transsexual Empire: The Making of the She-Male (1979) において詳しく論じられる.
- レイモンドによれば,MTF トランスセクシュアルは,女性の身体を盗用し,あるいは騙るがゆえに,強姦者 (rapists) である.
- このテーゼにはいかなる論証も与えられておらず,評価が難しい.
- だが,こうした極端な表象を脇において,中心にある諸前提を特定し,医学的現象としてのトランスセクシュアリティへの彼女の批判を理解することは,試みる価値がある.
- レイモンドによれば,MTF トランスセクシュアルは,女性の身体を盗用し,あるいは騙るがゆえに,強姦者 (rapists) である.
- レイモンドの立場の土台には,第一に,「文化に先立って性別が存在する」という考えがある.
- レイモンドの第二の前提は,「トランスセクシュアルの被っている抑圧は,性役割によって強化される性差別的抑圧の一側面に他ならない」というものだ.
- つまり,トランスの人々を標的にした抑圧という独立の相を認めていない.
- ここからレイモンドは,トランスセクシュアリティの医療化を性差別的な性役割を保存すると主張する.
- 彼女によれば,性差別的な社会はトランスセクシュアリティの「第一原因」である.
- また「トランスセクシュアル帝国」とは性別適合手術を通じて性役割の抑圧を永続化する家父長制的な医療制度を指す.
- 「トランスセクシュアリティの医療化が性差別的規範の永続化を伴う」というレイモンドの主張は正しい.
- レイモンドによれば,性別適合手術はばらばらの部分をまとめ上げる「統合」(integration) であり,身体的な「完全な統一性」(integrity) の侵害である.
- 上記の二つの論点に加えて,レイモンドによるトランス表象は,一枚岩でステレオタイプ的なものだった.
- このように実際の経験を顧慮しない傾向は,当時の学術論文において一般的ではあった.しかし一方で,レイモンドの論考が特にレズビアン分離主義の脈絡にあることにも注意すべきである.
- したがって,ジェンダー・アイデンティティをめぐるトランスセクシュアルの主張が理解されなかったのも驚きではない.
4. 帝国の逆襲
- 1977年に,レズビアン分離主義サークルの間で,トランスセクシュアル女性であるサンディ・ストーン (Sandy Stone) をめぐる論争が勃発した.彼女と彼女を雇用するオリヴィア・レコーズはレイモンドの標的となった.ストーンはオリヴィアを去った後,ハラウェイ (Donna Haraway) のもとで博士号を取得し,1991年にレイモンドへの応答 "The Empire Strikes Back: A (post)transsexual manifesto" を刊行した.これはトランスジェンダー研究の基礎をなす論考となる.
4.1 マニフェスト
- ストーンは医療化された見解とレイモンドの批判の両方に反対して,第三の道を進む.彼女の論考の根本的な方向転換は,トランスセクシュアルを「抑圧されたマイノリティ」として見ることである.
- ストーンによれば,欠けているのは,トランスセクシュアルとしてのトランスセクシュアルについての言説のための空間である.
- すなわち,トランスセクシュアリティの医療化が性差別的な振る舞いと性別の二項性の黙認を要求する際,トランスセクシュアルは,みずからの主観的経験を必ずしも反映しないジャンルの内部で語ることで,共犯者となっていたという.
- だがその一方で,トランスセクシュアルはそうした公式的な説明に対抗するサブカルチャーや特有の実践を育んできた.ストーンの提示する解決法は,トランスセクシュアルが自分たち自身の物語を語ることである.
- このことは最低限,手術後のトランスセクシュアルによるカミングアウトを必要とする.だが,転換した性別で通用すること (passing) を避けるよう勧告することは,トランスセクシュアリティに関する支配的な言説と完全に衝突する.それゆえ,この政治運動は「トランスセクシュアル以後」(post-transsexual) のものとされる.
- 多くのトランスセクシュアルの経験と行動は「公式の」医学的説明を凌駕している (outstrip).だがそのことは,医学的説明に適合する共犯的な試みによって不可視化されているという.
- ここで企図されているのは,医学的言説を超えた単一の正統で画一的な説明を見つけることではなく,トランスセクシュアルがトランスセクシュアルとして語ることを少なくとも可能にする言説の下準備をすることである.
4.2 サイボーグとメスティーサ
- レイモンドのマニフェストは,ハラウェイの "A Cyborg Manifesto" (1983) とアンザルドゥーア (Gloria Anzaldúa) のメスティーサの理論に大きく依拠している.
- ハラウェイの「サイボーグ」イメージ (後述) は,抑圧/解放 (oppression/liberation) の一枚岩の説明についての懸念を表明する.
- それは「原初の罪なき状態とそれに引き続く失寵,そして罪なき状態への復帰」という想定にもとづく理論への懸念である.
- ハラウェイによれば,そうした理論は一面的で,特定の種類の抑圧を無視している.
- 例: レズビアン分離主義者は,女性間の連帯を唱える際,有色女性に対する人種的抑圧を考慮していない.
- 「サイボーグ」という比喩は,抑圧者と被抑圧者というばらばらの諸要素をもつ個人を表す.
- 抵抗は「罪なき状態への復帰」ではありえず,むしろディストピア的環境においてサイボーグの製作者の意図に反逆することでしか可能でない.
- こうした「混合」の観念は,純血性の重視を批判し「混合人種」(una raza mestiza) の観念を支持するアンザルドゥーアの議論においても中心をなす.
- アンザルドゥーアによれば,複数の相容れない文化の合流点にとらわれる経験は,自己を多数化・断片化する.
- 例: ひとは,支配的な白人のフェミニズムにおいて人種差別的に表象されうると同時に,支配的な人種抵抗運動において性差別的に表象されうる.
- アンザルドゥーアによれば,複数の相容れない文化の合流点にとらわれる経験は,自己を多数化・断片化する.
- アンザルドゥーアによれば,自己のこうした多数性を意識することこそが,抵抗を可能にする.
- ハラウェイやアンザルドゥーアはレイモンドについて明示的に論じてはいないが,こうした議論がレイモンドの立場の弱点を突いていることは明らかである.
- また,アンザルドゥーアは男性と女性の間にある状態を抵抗の一拠点と見なしており,この点でストーンの議論を先取りしている.
- レイモンドのように自己をジェンダー的植民地化/脱植民地化の地点とみなす見方と,「メスティーサ的意識」を重視する見方は,大きく異なる.
- 文化から完全に自由になることができない以上,後者の見方を取らない限り,そもそも抵抗の足がかりは得られない (Lugones 1990).
4.3 トランスジェンダー・パラダイム
- ストーンの論文はトランスジェンダー研究勃興の礎を築いた.1990年代はまた,ファインバーグ (Leslie Feinberg) やボーンスタイン (Kate Bornstein) が明確化したような,現在のトランスジェンダー政治運動の黎明期でもあった.それは「トランスジェンダー・パラダイム」と呼びうるもので,三つの特徴がある.
- トランスの人々を標的としたジェンダーベースの抑圧を,性差別的抑圧とは別個のものとして認識すること.
- 男性と女性という二項的カテゴリーにおいて,トランスの人々を問題含みな境遇にあるものとして位置づけること.
- 可視化する政治運動を支持すること.
- もっとも,この政治運動は均質的ではない.
- 1990年代の英米圏のトランスジェンダー政治運動は,一方でジェンダー・アイデンティティとジェンダー表現や性的指向との区別を主張しつつ,他方では LGB の政治運動内部での代表参加のために闘い,それによって,より包括的な LGBT 政治運動が発展した.
- トランスジェンダー政治運動の勃興は,トランス活動家と非トランス・フェミニストの長期にわたる衝突を伴った.この衝突は今日に至るまで続いている.
- 1994年には The Transsexual Empire が新しい序文とともに再版された.この序文は新しいトランスジェンダー政治運動を明示的に取り上げ,従来の批判を繰り返した.