構造概念による形而上学的問いの特徴づけ Sider (2011) Writing the Book of the World, Ch.1

  • Theodore Sider (2011) Writing the Book of the World. Oxford: Oxford University Press.
    • Chap.1. Structure. 1-8.

形而上学の主題は,実在の基礎的構造である.必然的真理・本質的属性・概念分析・何があるかではない.後者は有用でありうるが,究極的な目的ではない.

1.1 構造: 瞥見

「構造」を見分けるとは,パターン,世界記述のカテゴリーを明らかにすること,「実在を関節で切り分ける」ことだ.

  • 例1: 2つの電子は完全に似ているが,それらと牛は完全には似ていない.
  • 例2: ある境目でくっきり分離した赤い液体と青い液体からなる世界を考えよう.そして,ある人々がこの境目に沿わない仕方で液体を切り分け,'bred' / 'rue' と呼ぶとしよう.この人々は概念適用に失敗しているのではないが,誤った概念を用いているのだ.

1.2 構造についての哲学的懐疑

だが,分類が正しいとか誤っているとかなぜ言えるのか,と問われうる.実際,任意の対象 x, y は無限に多くの特徴を共有し,かつ無限に多くの点で相違している.そうした選言的特徴を無数に構成できるからだ.そこで,真正の特徴 (genuine features) とそうでない特徴を区別できるかが問題になる.

当代人気の哲学的アイデオロジーに沿って定義できない概念や区別は疑いの目で見られがちである.それゆえ20世紀の大半を通じて,哲学者は真正の特徴について語らない傾向にあった.例えば50-60年代に支配的だったクワインの外延主義では,許される概念は一階述語論理の概念 + 科学的述語に限られていた.前述の論点に鑑みて,外延主義者は選言を用いて定義された特徴を不適格とするかもしれない.だが,「選言を用いて定義される」かどうかの評価は難しい (「電子か牛」にあたる語 'blurg' がプリミティヴに存在する言語を考えよ).

70年代には様相が適法なアイデオロジーになり,構造に近い概念を定義する試みが再度なされた.チザムやキムは,大雑把には「ある性質が内在的である iff. 当の性質が世界にある唯一の対象を実例としうる」といった仕方で,内在的性質を定義した.だが「世界にある唯一の対象である」などは外在的だという批判を受けた (Lewis 1983a).(70年代に様相に固執していたのは二重によくなかった.様相概念が大雑把すぎるのと,形而上学の主題からあまりにかけ離れていたからだ.)

80年代以降は「真正の特徴」「内在的性質」に近い観念を含むより豊かなアイデオロジーが受け入れられるようになった.術語が他の語で定義できなくても OK という雰囲気になってきたのだ.アームストロングとルイスがこれを主導した.Armstrong 1978a; b は普遍の伝統的学説に訴えて真正な特徴とそうでない特徴を区別した.一方 Lewis 1983b は,伝統的普遍について考えずとも自然的属性・関係概念に訴えればよいと論じた.

もちろん,「電子である」と「電子または牛である」が違うことは誰もが同意する.だがアームストロングやルイスは,それだけでなく,違いが客観的だと考えるのである.したがって,「基礎的」(fundamental) というのは,概念的ではなく形而上学的な基礎性を指すのだ.

1.3 形而上学における構造: 下調べ

本書は構造についての実在論の前線拡大をねらいとする.〔上記の〕類似性とのつながりは取っかかりにすぎない; 構造は哲学全体に登場する.特に形而上学にとっては中心的である.

形而上学の真に中心的な問いは「何が最も基礎的か」である.つまり完璧に関節で切り分ける観念はどれか,ということだ.「赤 / 青」は 'bred / rue' より関節に近いかもしれないが,しかし色はおそらく完璧に基礎的 (perfectly fundamental) というわけではない.では何が完璧に基礎的なのか,というと,私の考えでは,物理学・論理学・数学の若干の概念がそうだ.だがこのテーゼは構造という考え自体から出るものではないので,本書で擁護を試みるものでもない.本書の主題は,そうした論争 (心理は実在の根本構造の一部なのか,数学的対象は実在するか,因果的・法則的観念は根本的説明で何らかの役割を果たすか,等々) に何がかかっているのか,ということだ.

本書で中心的なのはメタ形而上学 (形而上学の地位の探究) である.問いには,「教皇独身男性バチェラーか」のような単なる言葉上の・概念的な問いもあれば,「火星の特定地域にリチウムは存在するか」のような実質的な問いもある.形而上学の問いはどちらなのか,が争われてきた.本書の考えでは,問いが実質的かどうかは,大部分は,そこで用いられている語が関節を切り分けているかに存する.メタ形而上学の中心的な問いは,世界がどれほどの構造を含んでいるかに関わる.

私たちが「独身男性」で意味するのは,未婚成人男性かもしれないし,結婚可能な未婚成人男性かもしれない.ここで割れると「教皇は独身男性だ」が真かどうかが割れる.一方の属性が世界をより関節で切り分けているということはない; ここで問題なのは,どのような言語的共同体に私たちが住んでいるのかということだけである.他方で,リチウムが火星の特定地域にあるかという問いは,そうではない.

これら各々の問いに実質があるかないかははっきりしている.一方,形而上学の問いに実質があるかないかはそれほど自明でなく,論争がある (存在論者 vs. ヒルシュ,パトナムその他の「存在論的デフレ主義者」).このメタ形而上学的問題は,結局,「存在する」(there exists) が世界を関節で切り分けているかという問いだと思う.9章では存在論的デフレ主義者に反対するが,問い自体は大事だ.

形而上学においては,似た基礎的問いが他にもある.様相は関節を切り分けているか? (答えはノー; 12章).時制付きの概念は? (ノー; 11章).論理的概念は?(イエス.10章).

より一般に,事柄が「本当に」(really)「真正に」(genuinely) 成り立っているか,が問われることがある (例: 抽象的属性は本当に存在するのか).こうした問いも形而上学に中心的だが,詳しい説明を切実に要する.それらは基礎的レベルの真理に関する問いである.

こうした役割を構造概念がメタ形而上学で果たすなら,それはアームストロングの普遍概念やルイスの自然的属性・関係概念を越えて一般化される必要がある.多くの形而上学的問いは普遍・属性・関係に関わらないからだ.

すべての表現が関節で切り分けている言語を「基礎的」と呼ぼう.構造についての実在論は基礎的言語についての実在論に導く.つまり,そうした言語が量化子を含むか,文結合子を含むか,様相・時制オペレータを含むか等々には客観的答えが存在することになる.「世界についての書物を書く」特権的方法というものが存在するのだ.