アリストテレスにおける思考の法則としての無矛盾律 Barnes (1969) “The Law of Contradiction” 

  • Jonathan Barnes (1969) "The Law of Contradiction" Philosophical Quarterly 19, 302-309. (Reprinted in Logical Matters (2012), 353-363.)

前回読んだ箇所で Kirwan が参照していた文献*1.主に Logical Matters 版を参照したが,自然言語で書いている部分を省略したり*2,また元々の編集上の不備で命題番号がおかしくなっていたりする関係で,番号を適宜勝手に割り振り直した.


全三節.I:「矛盾律は思考の法則である (The Law of Contradiction is a Law of Thought)」という命題を支持する論証を与える.II: Arist. Met. 中の同様の論証を吟味する.III: この論証が証明していないいくつかの命題を示す.

I

この論証は三つの前提を有する.各々は必然的に真であることが意図される.

第一の前提は以下の通り.

  • (1) ∀x(xB:(P&Q) ⇒ (xB:P & xB:Q)). ('xB:P': x は P と信じる.'xD:P': x は P だと信じない (disbelieves).'C(F,G)': F と G は反対 (contrary) である.'RF': 性質 F の及ぶ範囲.)

これは次の命題の特殊事例である:

  • (1*) 命題の連言を信じている人は,各々の連言肢を信じている.

〔これを支持する若干の議論 (省略).〕なお (1) の逆は成り立たないし,選言についても同様の議論はできない.

アリストテレスの議論では「反対」概念が用いられる.三つの「反対」タイプの区別は有用であろう (なお以下でいう属性の「範囲 (range)」とは,大雑把に言って,属性がカテゴリー・ミステイクを犯すことなしに適用できる対象のクラスである):

  • (D1) C1(F,G) ⇔ ( (RF=RG) & ∀x□(Fx ⇒ ¬Gx) )
    • i.e. 非両立可能性; e.g. 赤と緑,熱と冷.
  • (D2) C2(F,G) ⇔ ( (RF=RG) & ∀x□(Fx ⇒ ¬Gx) & ∀x(x in RF ⇒ □(Fx ∨ Gx)) ).
    • i.e. 矛盾対立述語 (contradictory predicates); e.g. 偶と奇.
  • (D3) C3(F,G) ⇔ ( (RF=RG) & ∀x□(Fx ⇒ ¬Gx) & ∀H(RH=RF ⇒ H is between F and G) ).
    • i.e. 対極的対立 (polar opposition): 黒と白.

「範囲」や 'being between' は説明を要しようが,アリストテレスの議論は怪しい部分には依拠していないので,ここでは論じない.かつ C2, C3 は今後扱わないので,以下ではもっぱら C1 を「反対」ないし 'C' と呼ぶことにする.

第二の前提は以下の通り.

  • (2) ∀x(xD:P ⇒ ¬xB:P).

これが必然的真理であるのは,believing P と disbelieving P が反対のときである (がその時に限らない).実際 disbelieve するとは not believe するやり方の一つだろう.(他のやり方もあるので,(2) の逆は成り立たない.)

第三の前提は以下の通り.

  • (3) ∀x(xB:¬P ⇒ xD:P).

これが必然的に真であることは明らかである.双条件文にしてもいいかもしれない.

以上の諸前提から以下の帰謬法が構成できる.次のように仮定しよう:

  • (4) aB:(P & ¬P).

すると:

  • (5) aB:P & aB:¬P. (∵ (1), (4))
  • (6) aB:P & aD:P. (∵ (3), (4))
  • (7) aB:P & ¬aB:P.

これは矛盾.

II

伝統的な「思考の諸法則」は Met. Γ 1005b11-12, 18-32 に遡る (補足的に 1011b15-20).ただしアリストテレスは無矛盾律にしか言及していない.論証は I 節のものに類似する.テクストは難しく,また創意は十分に理解されていない〔Logical Matters の注: 爾後現れた文献は厖大である; e.g. Priest (1998) "To be and not to be", Cavini (2007) "Principia contradictionis".〕.以下で説明を加える.

βεβαιοτάτη δ᾽ ἀρχὴ πασῶν περὶ ἣν διαψευσθῆναι ἀδύνατον ... τίς δ᾽ ἔστιν αὕτη, μετὰ ταῦτα λέγωμεν. τὸ γὰρ αὐτὸ ἅμα ὑπάρχειν τε καὶ μὴ ὑπάρχειν ἀδύνατον τῷ αὐτῷ καὶ κατὰ τὸ αὐτό (καὶ ὅσα ἄλλα προσδιορισαίμεθ᾽ ἄν, ἔστω προσδιωρισμένα πρὸς τὰς λογικὰς δυσχερείας): αὕτη δὴ πασῶν ἐστὶ βεβαιοτάτη τῶν ἀρχῶν: (107T) ἔχει γὰρ τὸν εἰρημένον διορισμόν. (106T) ἀδύνατον γὰρ ὁντινοῦν ταὐτὸν ὑπολαμβάνειν εἶναι καὶ μὴ εἶναι, καθάπερ τινὲς οἴονται λέγειν Ἡράκλειτον. οὐκ ἔστι γὰρ ἀναγκαῖον, ἅ τις λέγει, ταῦτα καὶ ὑπολαμβάνειν: εἰ δὲ (102T) μὴ ἐνδέχεται ἅμα ὑπάρχειν τῷ αὐτῷ τἀναντία (προσδιωρίσθω δ᾽ ἡμῖν καὶ ταύτῃ τῇ προτάσει τὰ εἰωθότα), (103T) ἐναντία δ᾽ ἐστὶ δόξα δόξῃ ἡ τῆς ἀντιφάσεως, (104T) φανερὸν ὅτι ἀδύνατον ἅμα ὑπολαμβάνειν τὸν αὐτὸν εἶναι καὶ μὴ εἶναι τὸ αὐτό: (104T) ἅμα γὰρ ἂν ἔχοι τὰς ἐναντίας δόξας ὁ διεψευσμένος περὶ τούτου. (1005b11-12; 18-32)

アリストテレスによれば:

  • (100) ∀x(¬Fx & ¬Fx).
  • (101) ∀x(C(F,G) ⇒ (Gx ⇒ ¬Fx)).

ここから (epei (1011b15), gar 1011b18):

  • (102) ∀x(C(F,G) ⇒ ¬(Fx & Gx)).

これが 1011b15-20 の論証であり,これは妥当である.

ここで次を仮定する:

  • (103) C(B:P, B:¬P).

これの論証は Met. にはない.アレクサンドロスDe Int. の最後の一節に根拠を求めるが,この一節は著しく不明瞭である.––ここから (102) より,

  • (104) C(B:P, B:Q) ⇒ ∀x(¬(xB:P & xB:Q)).
  • (105) ∀x¬(xB:P & xB:¬P). (∵ (103), (104))
  • (106) ∀x¬xB:(P & ¬P).

アリストテレスは (105) と (106) の関係を明示しない.別々の命題だと考えていたかどうかもわからない.何にせよ,(106) を得るには上記の (1) のような前提が必要である.

III

以上の解釈には不正確な点が二つある.どちらも様相に関わる.

第一に,(105T) のより厳密な解釈はこうである:

  • (105Sm) ∀x¬◇(xB:P & xB:¬P).

(100T), (102T), (106T) も同様である.だが,おそらくこれらは,議論の各ステップが必然的真理であると示すものにすぎないだろう.

第二の点はより深刻である: アリストテレスは (106) のみならず,次も示したと主張しているのである.

  • (107m) ∀x¬◇(xB:◇∃F∃y(Fy & ¬Fy)).

より単純な以下の命題を考えよう.

  • (107m*) ∀x¬◇(xB:◇(P & ¬P)).

(107m*) が (106) に含意されないことは明らかである.我々はこれに対応して以下の (1m), (3m) を考えてみることはできよう; だが (3m) は明白に偽である.

  • (1m) ∀x(xB:◇(P&Q) ⇒ (xB:◇P & xB:◇Q)),
  • (3m) ∀x(xB:◇¬P ⇒ xD:◇P).

したがってアリストテレスの (107m*) への推論は妥当しない.

なぜこのような誤謬を犯したのだろうか.まず,以下の量化ヴァージョンを得ようとすることも,類似の誤謬である.

  • (107q) ¬∃x(xB:∃p(P & ¬P)).

他方,(106) の P を汎化すると以下が得られる.

  • (106q) ∀P∀x¬(xB:(P & ¬P)).

(106q) から (107q) に進むとき,元々の量化子は内包的文脈に捉えられる.(106m) から (107m) に進む際も同様である.アリストテレスの誤謬推論が,内包的文脈の罠についての無知に由来する,ということはありうる.

さらに,以下も証明されていない.

  • (106u) ∀x(xB:¬(P & ¬P)).
  • (107u) ∀x(xB:¬◇(P & ¬P)).
  • (107qu) xB:¬∃P(P & ¬P).

また,先述の通り,(1) を認めなければ (106) も帰結しない.

最後に,1005b13-17 には以下がほぼ主張されていると言える.

  • (108) ∀x(∃P(xB:P) ⇒ (xB:∀P¬(P & ¬P)).

(108) もその様相化ヴァージョンも (106) からは帰結しない.

上記の諸例は,いずれも「矛盾律は思考の法則である」という見出しのもとに置くことができるかもしれないし,真でもありうる.しかし,本稿で念頭に置かれていたのは,あくまで (106) であった.

*1:これ "Aristotle's Theory of Demonstration" と同年だな.

*2:もっとも (4) の非形式的な文例だけは記録に値するかもしれない–– "Priest believes that both Paris is south of London and Paris is not south of London" (357).