心的状態としての知識.知識概念の分析不可能性 Williamson (2000) KIL, Ch.1 #1
- Timothy Williamson (2000) Knowledge and its Limits, Oxford University Press.
- Chap.1. A State of Mind. 21-48. [here 21-33.]
1.1 叙実的態度
- 知識は心の状態 (state of mind) である――この主張は本書の知識論にとって中心的な主張だ.
- 心の状態とは,ある主体の心的状態である (愛・憎しみ・喜び・痛みなど).
- また命題への態度もこれに含まれる (希望・恐れ・疑問・意図・欲求など).
- これこれだと知っていること (know that something is so) もそうした態度であり,本書が扱うのはそうした命題的知識である.
- ひとが p だと知っているのは,p が真であるときだけである.この意味で,知ることは叙実的態度 (factive attitude) である.
- 他の例: これこれであることの知覚・記憶・後悔.
- 態度が主体の命題との関係であるとすると,任意の命題 p と関係を持つことは心的状態である.このとき,ある心的状態 S について,状態 S にあること (being in S) が p を知っていることの必要十分条件である.私たちは,これをつづめて「知ることは心的状態である」と言う.
- 重要なのは,状態 S にあることが p を知っていることの十分条件だ (知識は単なる心的状態だ) ということである.
- つまり,「知識が信念という範例的な心的状態を伴うから」というだけでは,知識が心的状態であるという主張の十分な根拠にはならない.
- 標準的な見解では,信念と違って,知識は単なる心的状態ではない.真理性という非心的要素を含むからだ.
- 最初は「知識は心的状態である」と想定しなければならない.
- 哲学的な理論を構築する前には,心的なものという概念はさまざまな例を通じて学ばれる.
- その際,信念や欲求は範例となるはずである.
- そして,叙実的態度は非叙実的態度と多くの点で似通っており,総じて概念は範例と十分に似通っているものに当てはまることが期待される.
- 恐れは心的状態だが後悔は違うとか,想像は心的状態だが記憶は違うとか考えるのは,奇妙だろう.
- それどころか,叙実的態度を範例的な心的状態から取り除く前理論的な理由も,あるかどうか明らかではない.
- もちろん,後に境界線を引き直すべき理論的な理由が発見される可能性はある.しかし,そうした理論は良い理論でなくてはならない.
- 哲学的な理論を構築する前には,心的なものという概念はさまざまな例を通じて学ばれる.
- 本章と次章では,知識から心的状態の資格を奪う非叙実的態度との相違点だとみなされているものが,実際は相違点ではないと論じる.
- すなわち: 環境への構成的依存・一人称のアクセス可能性・因果的効力.
1.2 心的状態・一人称のアクセス可能性・懐疑論
- 知ることを心的状態とする捉え方は,客観的確実性と主観的確実性の混乱のように見えるかもしれない.
- 本書の見解では,デカルトの間違いは,知ることの十分条件となる心的状態の想定とは別のところにある.
- おそらくは,ひとはつねに自分がどんな心的状態にあるかを知る立ち位置にある (be in a position to know),と想定した点である (同様の立場として Prichard (1950). 現代では少数派).
- ひとはほとんど全ての命題 p について,(その人がどれほど注意深く,概念的に洗練されていても) 自分が p だと知っているかどうかを知る立ち位置にない.
- 以上は,およそ外界について知識を持つことが不可能だというアプリオリな推理がないことを前提している.懐疑論者は,「ひとは外界についての情報をもたらす任意の命題 p について,p を知らないことを知る立ち位置にある」と主張するかもしれない.ここでは懐疑論が誤っていると想定する (8章で検討する).
- また「p だと知っていて,かつ知っていると知る位置にない」事例も構築できる (5章).こちらはもっと微妙な問題を伴う.
- 「任意の心的状態 S について,ひとが十分注意深く,概念的に洗練されているなら,S のうちにあるかどうかを知る立ち位置にある」というテーゼを,透明さ (transparency) と呼ぶことにする.この透明さに即して言えば,p だと知っていることは,ほとんど全ての p について,心的状態ではない.
- だが,範例的な心的状態についても,透明さは成り立たない.
- ひとは自分が p を望んでいる (hope) と知る立ち位置にないことがある (落胆してはじめて気づく,ということがある).
- 信念についても透明さは成り立たない.
- p と信じることと,単に p だと思い描くこと (fancy) との違いは,部分的には,反事実的状況においてのみ顕示されるような,実践的推論と行為への傾向性に依存する.そして,ひとは自分がどんな傾向性を持っているかをつねに知る立ち位置にあるわけではない.
- 痛みについてさえ透明さは成り立たない (過剰な自己憐憫からかゆみと痛みを取り違えることはありうる).
- 4 章では,一般にどんな瑣末でない心的状態にも透明さが成り立たないと主張する.
- とはいえ,自分の心的状態の知識と,他人の心的状態の知識が,全く対称的であるわけではない.
- 透明さの不成立は標準的事例ではありえないのかもしれない (が,そう言うためには議論が必要).
- もうすこし尤もらしい主張として,私たちは自分自身の心的状態にのみ観察によらない知識を持っている,というものがある.しかし,これは知識にも当てはまる.
- 反論として,「p だと知っているかどうかを知ることは,p だと信じているかどうかを知るのとは別の仕方で,p に有利/不利な理由を評価する必要がある」というものがある.
- だが,「合理的に信じる」という心的状態についても同様のことが言えるので,これは反論の理由にならない.
- 「知る」「合理的」は規範的語彙なので,〈知ること〉や〈合理的に信じること〉は,〈信じること〉とは違って心的状態ではない,と応答することはできない.
- 信念帰属そのものにも規範的要素はあるから.
- 別の反論として,p だと知っているかどうかの信念は,p だと信じているかどうかの信念にはできない仕方で,新たな情報によって棄却できる (defeasible) というものがある.
- だが第一に,信念が新情報により棄却不可能だとは言えない (例: 世界が終わると自分が信じていると信じている人が,自分の年金を清算したくない気持ちに気づいて,信念を改めるかもしれない).
- また,心的状態が新情報により棄却される場合は他にもある (例: 自分が注意深いとか,明晰に思考しているという信念を,自分が一服盛られたことに気づいて改める場合).
- こうして見ると,心的状態への特権的アクセスに関する一般的な要件はごく緩やかなものだとわかる.そして,知識はそれらの要件を満たしている.
- こうした透明さが成り立たないという事情は,「知識は心的状態である」というテーゼと懐疑論の伝統的パターンとの関係を明確にしてくれる.
- 懐疑論:「ある真なる信念を持つ現実の主体は,当の信念が偽である場合にそれを持つ主体と,同一の心的状態を持つ主体でありうる.そして,後者の場合に信念は知識を構成しないのだから,前者の場合にも構成できていない」.
- 心的状態が同じなら知識も同じだと想定する点で,この議論は正しい.だが,想定の内実が間違っている.
- 懐疑論:「ある真なる信念を持つ現実の主体は,当の信念が偽である場合にそれを持つ主体と,同一の心的状態を持つ主体でありうる.そして,後者の場合に信念は知識を構成しないのだから,前者の場合にも構成できていない」.
- 懐疑論者は,知識に関する違いが生じるには,主体が検知しうるような,心的状態の先行する違い (prior difference) が必要だと考えている.だが,そうではない.むしろ,知識に関する違いが,心的状態における違いを構成する (constitute a difference) のだ.
- つまり,懐疑論者は心的状態が識別不可能な仕方で異なる場合を考慮できていない.そして上述の通り,自分が特定の心的状態にあるかどうかを知る立ち位置にない場合はある.
- 知識が心的状態だとすれば,以上の懐疑論的論証は有力なものではなくなる.(ただし,この論証は懐疑論へ向かうルートの一つにすぎない.)
- 以上は懐疑論の予防策ではあるが,既に懐疑論に落ち込んだ人に対する救済策とはならない.こうした事情は懐疑論に対する処置としてはありふれている.
- ここまでの議論は,「知ることは心的状態である」という見解の感じをつかむことを目的としていた.以降ではこの見解をより明示的に探求する.
1.3 知識と分析
- 「知ることは心的状態である」と言うことは,他の心的状態 (信念,欲求,痛み) と類同化することであると同時に,心的状態でないものと対照することでもある.
- 最も啓発的なのは,知ることと,真なる仕方で信じること (believing truly) との対比であろう.
- 少なくとも p が外的環境についての通常の偶然的命題である場合,p だと真なる仕方で信じることであるような心的状態はない.
- つまり,S1: 雨が降っていると知っていること,S2: 雨が降っていると真なる仕方で信じていること,S3: 雨が降っていると信じていること,だとすると,S1 にあるとき S2 にあり,S2 にあるとき S3 にあるが,S1, S3 が心的状態なのに対して S2 はそうではない.
- これは一見するほど逆説的ではない.
- 別の例: π1: 正三角形,π2: 辺の長さの違いが人間に視認できない三角形,π3: 三角形,とすると,π1 ならば π2,π2 ならば π3 だが,π2 だけが幾何学的性質ではない.
- 一般に: S が心的状態,C が非心的条件であるとき,「ひとが S* にある iff. ひとが S にあり,かつ C が成り立つ」が必然的に成り立つような状態 S* が存在する必要はない.
- そしてこのことは,「ひとが S** にある ⇐ ひとが S にあり,かつ C が成り立つ」という心的状態 S** の存在と矛盾しない.
- 心的状態が右辺の選言を保証するのは,当の選言より多くのことを保証することによってである.
- そしてこのことは,「ひとが S** にある ⇐ ひとが S にあり,かつ C が成り立つ」という心的状態 S** の存在と矛盾しない.
- 真なる仕方で信じることが心的状態でないということに納得しない人もいるかもしれない.しかし,ここで問題になっているのは,合理的なあらゆる意味で (in every reasonable sense) 心的状態だと言えるかどうかである.ここで意味が合理的だとは,重要な諸側面において日常的な意味と十分に近いことである.この主張は曖昧ではあるが,論争できる程度には明晰である.
- 厳密に言えば,概念的対比と形而上学的対比を区別する必要がある: 概念が心的かどうかと,状態そのものが心的かどうか.
- 心的状態は,「状態が心的である iff. 当の状態の心的概念 (mental concept) がありうる」という仕方で,大雑把には定義できる.
- この定義は,当の状態の非心的概念がありうることを排除しない.
- 「状態 S1 と S2 が同一である iff. 必然的に,あらゆるものについて,(S1 にある iff. S2 にある)」と考えられる.このとき,異なる概念が必然的に共外延的でありうる (例: 〈金製の歯〉と〈元素番号 79 の元素でできた歯〉).
- 概念的対比が形而上学対比を直ちに含意するわけではない.逆もしかり.
- 概念〈知っている〉が心的で,概念〈真なる仕方で信じている〉が心的でないなら,知っていることは心的状態である一方,真なる仕方で信じていることが心的状態でないとは限らない (真なる仕方で信じていることの心的概念が他にもありうる).
- 知っていることが心的状態で,真なる仕方で信じていることが非心的状態なら,概念〈真なる仕方で信じている〉は心的でないが,概念〈知っている〉が心的だとは限らない.
- とはいえ,一方の対比を受け入れるなら,他方も受け入れてよいだろう (さもなければ奇妙な形而上学的な偶然の一致を認めることになる).
- 概念〈真なる仕方で信じている〉は心的概念ではない.
- 概念 C が C1 , ..., Cn の連言のとき,C が心的である iff. 各々の Ci が心的である.
- 他方で,態度帰属の内容節に非心的概念が含まれていても,それによって概念が非心的になるわけではない.
- 似た理由で,概念〈正当化された真なる信念を持つ〉も非心的である.〈知っている〉という概念が心的であるとすると,総じて知識の標準的分析はどれも,概念の同一性の主張としては不適当である.
- もっとも,仮にある非心的概念が〈知っている〉という概念と必然的に共外延的だとすれば,当の概念は同一の心的状態の概念となっただろう.しかし,〈知っている〉が伝統的見解に反して複雑な概念でないとすれば,そうした分析が必要十分条件を与えると考える理由はない.
- 実際,これまでの分析の試みはどれもうまくいっていない (Shope 1983. もっとも問題はそれ以降にも複雑な展開を見せている).
- 仮に全く反例のない複雑な分析が得られたとしても,分析概念が〈知っている〉という概念と同一であることは保証されない.
- 同一だとすると余計に話がややこしくなる.〈知っている〉は重要な概念だが,アドホックな分析概念がどう重要なのかは理解しにくい.
- 一般に,多くの哲学的概念は,より基本的な語によって分析することはできない.「独身者」は典型ではなく例外である.
- 「知ること」の必要十分条件を循環なしに表現できないような単純な言語は記述可能である.どうして英語がそれでないと言えるだろうか.
- 分析というプログラムは大きな哲学的ヴィジョンを起源とする.ラッセルの見知りの原理 (Principle of Acquaintance) を見よ:「私たちが理解できるあらゆる命題は,私たちが見知っている構成要素のみから完全に組み立てられる必要がある」(Russell 1910-11).これはある意味では真かもしれない.しかしラッセルの見知りの捉え方は極めて密接的な (intimate) もので,科学や常識に属する明らかに理解可能な諸命題の表層的な構成要素さえ基準を満たさないものだった.この時点では,分析のプログラムには哲学的眼目があった.
- いまやこうしたヴィジョンは真剣な選択肢ではなくなっている.なのに,哲学者は元々の動機を失ったまま,相変わらずこのプログラムを続けている.
- 次のような反論があるかもしれない.「一般的にはそうだが,こと知識の場合は,真だとか知っているという必要条件がすでにあり,別のものを足して必要十分条件にできると期待できる」.
- だが一般に,「G が F の必要条件であるとき,F と独立に特定できる H が存在して,G かつ H が F の必要十分条件である」とは限らない.例:「色がある」との連言で「赤い」になる条件は「色があるならば,赤い」しかない.
- 似た例として:
- x が y の親であるのは,x が y の祖先であるときだけである.しかし私たちは祖先 + X として親を概念化するわけではない.むしろ親が祖先より概念的に先行するのだ.
- x が y と同一であるのは,x が y より重要であるわけではない (weigh no more than) ときだけである.だからといって,「同一である」が「より重要であるわけではない」+ X であるわけではない.この場合含意関係はライプニッツ則から説明される.
- より一般に,概念的なつながりがあるからといって,それらを説明する概念の分析を仮定してよいわけではない.
- 例: 外延性公理は「集合」概念の分析によっては説明されない.
- 〈知る〉という概念をより基本的な概念に分析できないからといって,それについて反省的な理解ができないわけではない.