『トピカ』と未完成のアリストテレス主義 De Vogel, "Aristotle's Attitude to Plato and the Theory of Ideas According to the Topics"

  • C. J. De Vogel (1968) "Aristotle's Attitude to Plato and the Theory of Ideas According to the Topics" in G. E. L. Owen (ed.) Aristotle on Dialectic: The Topics. Proceedings of the Third Symposium Aristotelicum. Oxford: Clarendon Press. 91-101.

『トピカ』でプラトン主義的議論が言及されている箇所を枚挙し,当時のアリストテレスプラトンとの距離を探る論文。いくつかの箇所では批判的であり,また相容れない前提を用いているが,特に倫理的議論においてはプラトン主義な箇所もあり,立場が定まっていない,と結論する。

データがまとまっていて勉強になった。以下の要約では詳述していないが,ソフィストの影響が見られるという指摘は興味深い。


(1) Top. ii. 7, 113a24-32

〔…〕あるいは,何かについて何ごとかが述べられ,その何ごとかと反対のことが〔当の何かに〕帰属することが必然であるかどうかを〔考察すること〕。例えば,諸々のイデアは我々のうちにあると言われることのように。なぜなら,イデアは動き,かつ静止している,ということが〔そこから〕帰結するだろうし,そしてまた,イデアは感覚され,かつ知性によって捉えられる,ということも帰結するだろうから。というのも,イデアがあると措定する人々は,イデアは静止しており,かつ知性によって捉えられると考えているが,我々のうちにあるものは不動ではありえないからである。なぜなら,我々が動けば,我々のうちにある全てのものも一緒に動くことが必然だからである。他方,我々のうちにあるのなら,感覚されもする,ということは明らかである。なぜなら,我々は視覚の感覚を通じて各々のもののうちにある形を知るのだから。*1

イデアが我々のうちにある」を前提して,反対のものが同時に帰属するという不条理を導いている。この「イデア」は明らかにプラトンの術語である。「感覚によって (τῇ αἰσθήσει)」ではなく「視覚の感覚を通じて (διὰ γὰρ τῆς περὶ τὴν ὄψιν αἰσθήσεως)」と言うのは『テアイテトス』184bff. のプラトン自身の区別を容れたものである (cf. An. Post. 81a38-b9; 87b28-88a7; ii.19)。すなわちイデアは魂のうちに (ἐν ψυχαῖς) ない。アリストテレスはここから自然に,イデア論は知識の説明の役に立たないと考えたに違いない。

(2) v. 7, 137b3-13*2

〔…〕次いで,提示されたもののイデアを注視すること。一方で,破棄する側は,〔提示されたものが〕イデアに帰属しないかどうか,あるいは,〔提示されたものが〕それの固有性であると説明された当のものが語られるその仕方で〔イデアに帰属するのでは〕ないかどうか〔を考察すべきである〕。というのも,〔提示されたものがイデアに帰属しないとすれば,〕固有性であると措定されたものが固有性ではなくなるからだ。例えば静止していることは,人間そのものには,人間である限りでは帰属しないが,イデアである限りでは帰属するのだから,不動であることは人間の固有性ではありえない。他方で,確立する側は,イデアに帰属するかどうか,またそれの固有性ではないと措定されたそのものが語られる当の仕方で帰属するかどうか〔を考察すべきである〕。例えば魂と体から構成されることは動物そのものに属し,このことは動物そのものに,動物である限りで帰属するのだから,魂と体から構成されることは動物の固有性でありうる。

この「イデア」はアリストテレス的形相とも,プラトンイデアとも取れる。後者の解釈が用語法としては普通だが,「提示されたもののイデアを注視すること (ἐπιβλέπειν ἐπὶ τὴν ἰδέαν τοῦ κειμένου)」という述べ方は (1) に見られるような前提から乖離している。おそらくアリストテレスは自分が受け入れない理論を明示的に退けもせずに論じているのだろう。

(3) vi. 6, 143b23-32

〔…〕さて,上述のトポスは,イデアがあると措定する人々に対して有用である。というのも,長さそのものがあれば,この類について「幅を持つ」あるいは「幅を持たない」がいかにして述定されるだろうか?というのも,この類について真であろうとするなら,あらゆる長さについてこれらの一方が真でなければならないのだから。だが,このことは起こらない。なぜなら,長さは幅を持つことも,持たないこともあるから。したがって,このトポスは,全ての類が数において一であると述べるあの人々に対してのみ有用である。というのも,長さそのものや動物そのものが類であるとこの人々は述べるからである。

「線 := 幅を持たない長さ」という定義が取り上げられている。論証は次のかたちを取っている。「イデアは類ではありえない。もしそうならイデアは反対の質を含むが,イデアは一である以上これは不可能であるから。」

(4) vi. 8, 147a5-11

〔…〕だが,上述のことをも説明したとしても,イデアはあると措定する人々はイデアへと導かねばならない。というのも,現れるもののどれにもイデアはないが,例えば欲望そのものは快楽そのものの〔欲望〕であり,願望そのものは善そのものの〔願望〕であるように,イデアイデアとの関係で語られると思われているからだ。すると,〔願望は〕善として現れるものの〔願望〕でもなく,〔欲望は〕快楽として現れるものの〔欲望〕でもないことになる。なぜなら,善として現れるものそのもの,あるいは快楽として現れるものそのものがあるということは,おかしいから。

同種の議論は『パルメニデス』133c にある。

(5) vi. 10, 148a14-22

〔…〕さて,語られた定義がイデアにも適合するかどうかを考察すること。というのも,いくつかの場合にはそうはならないから。例えば,プラトンが動物の定義式において可死であることを付け加えて定義したようにである。というのも,例えば人間そのもののように,イデアは可死ではないだろうし,それゆえ,この説明規定はイデアには適合しないだろうから。一般に,「なしうる」や「被りうる」が付加されるものは,イデアの定義に一致しないことが必然である。というのも,イデアは何も被らない不動のものであると[イデアがあると語る人々に]*3思われているからである。そうした人々に対しては,このような言論も有用である。

これも (4) と同様の議論。『ソフィスト』で批判される「形相の友 εἰδῶν φίλοι」の理論 (248a-d) と同様の特徴付けであることが注目に値する。

(6) viii. 11, 162a24-32

〔…〕さて,次のものも,推論に関するある種の過ちである。すなわち,より短く,言論に帰属するものによって〔示すことが〕可能であるときに,より長いものによって示すとき。例えば,ある思いなしは別の思いなしよりもより一層思いなしであるということを,ある人が次のことに同意を求めるなら〔,それは過ちである〕。「すなわち,各々のものそのものが,より一層〔各々のもので〕ある。ところで,真に思いなされるものそのものがある。したがって,これは各々の思いなされるものよりも一層そのものである。ところで,より一層しかじかであるものに関して語られるものは,より一層しかじかである。しかるに,真なる思われそのものもまたあり,それは各々の思われよりも正確なものであるだろう。」だが,真なる思いなしそのものがあること,および各々のものそのものが一層各々のものであることは,同意が求められていたのである。それゆえ,この真なる思いなしはより正確なものである。何がまずいのか。言論がそれによって成立する原因を気付かれなくすることではないだろうか。

イデア論そのものではなくて,その拙い用法が批難されている。

(1)-(6) から断定的結論を下すことはできないが,ともあれ『トピカ』はイデア論にしばしば言及しており,直接的に却下はしていないものの,総じて批判的な論調を有している。*4


以上のほかに,『トピカ』とプラトニズムの距離がいかほどであるかを示すいくつかの間接証拠がある。

次いで,まさに〈あるこれ〉であるものは,その類に属さないものよりも望ましい。例えば正義が正しい人より (τοῦ δικαίου)*5 望ましいように。なぜなら,前者は善の類のうちにあるが,後者はそのうちになく,前者はまさに善であるものだが,後者はそうではないから。というのも,その類のうちにないものは,まさにその類であるものとは語られないから。例えば,白い人は,まさに色であるものではないように。また他のものについても同様である。(116a23-28)

この箇所,およびこれに続く箇所は,驚くべきほどにプラトン主義的である。

他方,117b10-12, 146b10-12, 147a5-11 を見ると,倫理的命題についてアリストテレスの立場はいくぶん揺れ動いているように思われる。なるほどプラトン主義的ではあるが,正統的なプラトン主義ではない。加えて,アリストテレスの個人的見解,なかんずくソフィストからの影響,およびソクラテス的-プラトン主義な知性主義や正義の把握からの逸脱は,『トピカ』全体に見られる。以下の箇所が参照に値する: 101b5-10, 108a1-3, 114b7-8. 113a2-5, 107a5-12, 116a14f., 116b22-26, 119b32-34, 112b24-33, 126a30-26, 149b25-30, ii.5, 112b21-26, 115b22-30. 141b16f., 120a38-b3, 141b2-142a11, 146b36-147a1, 148b20-22, 104a25-33, 113a3, 116a21-35, 146a13-16.

要するに,『トピカ』に見られるのは,生成途上のアリストテレス主義なのである。

*1:本論の理解に資する目的で,下記の訳書を参考にしつつ,ブランシュヴィックの校訂版 (1967, 2007) に依拠して該当箇所を訳出した。山口義久訳「トポス論」『アリストテレス全集 3』岩波書店,2014年。以下同様。

*2:ド・フォーゲルは第2巻を指示しているが,誤記だろう。

*3:ブランシュヴィックは幾つかの写本とアレクサンドロスを根拠にこの箇所を削除する。

*4:なお,以上でド・フォーゲルがここでイデア論への直接的な言及箇所として挙げるものは,ゾルムゼンのそれ (p.59) と基本的に一致している。ゾルムゼンは 154a17ff. も挙げるが,"largely a repetition of the preceding passage" と断っている。また 144b1ff. は「意図的に含めない」とし,この点もド・フォーゲルに同じ。理由は不明。

*5:ド・フォーゲルが紹介するピカードの提案にしたがい男性で取る。