『自然学』A8 の目標はジレンマの形式的解決である Anagnostopoulos (2013) "Aristotle's Parmenidean Dilemma"

  • Andreas Anagnostopoulos (2013) "Aristotle's Parmenidean Dilemma" Archiv für Geschichte der Philosophie 95(3): 245-274.

述定解釈を採る論文。文章は正直わかりにくいし解釈にもあまり説得されないが,事柄が考え抜かれている印象は受ける。B巻との接続を考える上でも示唆に富む。


1 序論

既存の諸解釈は,変化のいわば「存在論」をめぐるものであった。それらによれば,変化の可能性の条件となる存在者とその働きは何か,ということを,アリストテレスは示している。だが実のところ,A8 の議論をそのように読むと,ジレンマを解消するのに充分ではない。他方,変化の存在論が問題になる限りでは,A7 の議論以上のものは必要ではない。

既存の解釈は,因果的説明の構造という問題を見逃している。すなわちアリストテレスによれば,パルメニデス的ジレンマは,因果的説明が単に偶々一緒になる (coinciding)〈あるものども〉に敏感であるという原則を捉え損なっているのである。この「形式的 (formal)」原則は,今日われわれが因果的説明の文脈の内包性と呼ぶものに類比的である。

第2節では,先行解釈と本稿の解釈を対比させる。第3節では,ジレンマの核心,およびそれが与える形式的な挑戦について説明する。第4-5節では,ジレンマの残りとアリストテレスの応答を,解釈全体と整合する仕方で説明する。

2 基本的な描像

パルメニデスのジレンマは,以下の二つの選択肢からなる。

  1. 〈あるもの〉から〈あるもの〉が生成する。
  2. 〈ありはしないもの〉から〈あるもの〉が生成する。

優勢解釈は「ある」「ありはしない」を実在的に扱う。だが、この解釈の場合、ジレンマはアリストテレスが「基礎に置かれる本性」を導入する理由にならない。形相も欠如も「実在するもの/しないもの」の例ではないからだ。本稿はジレンマの述定的な読みを採用する。

述定的な読みは、解釈上の次のの二つの制約に適う。(1) ジレンマは網羅的・排反的でなければならない。(2) 選択肢 (a) は「既にある」の反論に服さなければならない。

他方で述定解釈は、選択肢 (b) への反論の解釈について問題を生じると考えられてきた。これに対し述定解釈の若干の擁護者は、「完全な置換 (sheer replacement)」が問題になっていると考えた。本稿はこれを否定する。

しかしながら、本稿の解釈が他と異なるのは、アリストテレスの狙いが、「〈ありはしないもの〉が生成の始点の役割を果たすのに不十分な点を示すこと」だとも、「他のなんらかの存在者がその役割を果たしうると示すこと」だとも考えず、むしろ、「自然学者はどちらの選択肢にもコミットしていないと示すこと」だと考える点にある。

後者を示すのは一見あまりに容易に思われる。すなわち、「教養ある/ない」の場合、「人間が教養あるものになる」とする第三の選択肢を取りえ、選択肢 (b) は簡単に回避できる。ーーだが、そうではない。(i) まず、問題になっているのは「自体的 (per se)」な読みにおけるジレンマである。(ii) また、「あるもの」と「ありはしないもの」の二分法は網羅的である。

パルメニデス的ジレンマの挑戦は、「「教養あるもの」が何かから自体的に生成するなら、「教養あるもの」か「教養がありはしないもの」のいずれかから生成しなければならない」という推論を斥けることであり、この挑戦は、因果的説明力をもつ (causal-explanatory)「自体的」主張をそれ以外と区別することによって解決される。

なおジレンマが問題になるのは、以下の二つの前提が付け加わった時である。これにはアリストテレスもその反対論者も同意する。

  1. 「自体的」ヴァージョンにおけるジレンマの選択肢は二つとも不可能である。
  2. 変化はなんらかの説明力をもつ源泉 (source) を必要とする。

3 核心的なパルメニデス的論証

二つの区別

ἡμεῖς δὲ λέγομεν ὅτι τὸ ἐξ ὄντος ἢ μὴ ὄντος γίγνεσθαι, ἢ τὸ μὴ ὂν ἢ τὸ ὂν ποιεῖν τι ἢ πάσχειν ἢ ὁτιοῦν τόδε γίγνεσθαι, ἕνα μὲν τρόπον οὐθὲν διαφέρει ἢ τὸ τὸν ἰατρὸν ποιεῖν τι ἢ πάσχειν ἢ ἐξ ἰατροῦ εἶναί τι ἢ γίγνεσθαι, ὥστ' ἐπειδὴ τοῦτο διχῶς λέγεται, δῆλον ὅτι καὶ τὸ ἐξ ὄντος καὶ τὸ ὂν ἢ ποιεῖν ἢ πάσχειν. οἰκοδομεῖ μὲν οὖν ὁ ἰατρὸς οὐχ ᾗ ἰατρὸς ἀλλ' ᾗ οἰκοδόμος, καὶ λευκὸς γίγνεται οὐχ ᾗ ἰατρὸς ἀλλ' ᾗ μέλας· ἰατρεύει δὲ καὶ ἀνίατρος γίγνεται ᾗ ἰατρός. ἐπεὶ δὲ μάλιστα λέγομεν κυρίως τὸν ἰατρὸν ποιεῖν τι ἢ πάσχειν ἢ γίγνεσθαι ἐξ ἰατροῦ, ἐὰν ᾗ ἰατρὸς ταῦτα πάσχῃ ἢ ποιῇ ἢ γίγνηται, δῆλον ὅτι καὶ τὸ ἐκ μὴ ὄντος γίγνεσθαι τοῦτο σημαίνει, τὸ ᾗ μὴ ὄν.

「医者が〈付帯的に〉家を建てる」とは、「医者が家を建てるのは、医者が建築家と偶々一緒である (coinciding with) ことによってである」という意味である。言い換えれば「数において一つ」だが「あることにおいて一つ」ではない。ある動作主と活動の関係についての付帯的主張は (「建築家が家を建てる」のような) 別の動作主と活動との無媒介の関係を述べる自体的主張に依存する。限定 ᾗ を含む付帯的主張は、同時に自体的主張も含意する。

「自体的/付帯的」の区別は、無媒介性を説明し明確化するものではなく、むしろ無媒介性を前提している。ジレンマにこの区別を適用することは、せいぜい、生成の始点 (patient) が生成の仕方を何らか説明するという考えにのみ訴えている。

ジレンマの雛形

次のようなジレンマの雛形を考えよう*1

  1. 全ての人は、教養があるか、あらぬかのいずれかである。
  2. もしある人が治療するなら、教養ある人が治療するか、教養のない人が治療するかである。[1]
  3. 教養ある人は治療できない。
  4. 教養のない人は治療できない。
  5. したがって、どの人も治療できない。[2,3,4]

直観的に 1 は正しい。またどちらの種類の人も、その種類であることによって治療することはできない。だがそこから、「どの種類の人も、それ自体として治療しない」ということは帰結しない (し、偽である)。問題は、選言肢が網羅的でないことである。網羅的であるためには、以下が真でなければならない。

  • (2-per se) もしある人が治療するなら、教養ある人がそれ自体として治療するか、教養のない人がそれ自体として治療するかのいずれかである。

だが、1 はこれを含意しない。しかし以下は含意する:

  • (2-per accidens) もしある人が治療するなら、教養ある人が付帯的に治療するか、教養のない人が付帯的に治療するかのいずれかである。

核心をなす論証

パルメニデス的論証の核心部は次のように再構成できる。

  1. 全てのものは〈あるもの〉か〈ありはしないもの〉かのいずれかである。
  2. もし〈あるもの〉が生成するなら、〈あるもの〉か〈ありはしないもの〉かのいずれかから生成する。
  3. 〈あるもの〉は〈あるもの〉からは生成し得ない。
  4. 〈あるもの〉は〈ありはしないもの〉からは生成し得ない。
  5. したがって、〈あるもの〉は生成し得ない。

先ほどと同様に、1 は (2-per se) を含意しないが、(2-per accidens) を含意する。

  • (2-per se) もし〈あるもの〉が生成するなら、〈あるもの〉から自体的に生成するか、〈ありはしないもの〉から自体的に生成する。
  • (2-per accidens) もし〈あるもの〉が生成するなら、〈あるもの〉から付帯的に生成するか、〈ありはしないもの〉から付帯的に生成する。

そして (3-per se) および (4-per se)〔略。各々に「自体的に」を付けたもの。以下同様〕が成り立つ以上、変化の自体的源泉は〈あるもの〉ないし〈あらぬもの〉と数的にのみ同一である。(3-per accidens) (4-per accidens) は成り立たない。

明確化

以上の分析は二つの点で部分的である。(i) 述定/実在解釈の一方をまだ選んでいないこと。(ii) 「既にある」「基礎に置かれなければならない」という (3) (4) の正当化 (つまりジレンマがそもそも問題含みである理由) をまだ扱っていないこと。後者の特徴は、本稿の解釈の「存在論的」解釈との違いを反映している。

(1) から (2-per se) への推論は、以下の「自体的変化の原則 (Principle of Per Se Change)」に依拠していると考えられうる。

  • (PSC) もし〈あるもの〉が生成するなら、それは何かから自体的に生成する。

パルメニデス的ジレンマの尤もらしさは、以下の三点にある。

  1. アリストテレスは (PSC) を棄却できない。なぜなら、「変化は説明に服する」ということが彼の自然学の根本的前提だから*2
  2. (3-per se) も (4-per se) も成り立つ。
  3. 自体的なヴァージョンの選言肢 (a) (b) は、網羅的に見える。

アリストテレスの批判は、三つ目の考えに向けられている。

形式的挑戦

「三つ目の考えに対抗してみよ」という挑戦 (the challenge of resisting this [sc. third] thought) を「形式的挑戦」と呼ぶことにする。述定解釈を採るとしても,「教養のないものが教養あるものになる」という記述は問題含みである。「人間が教養あるものになる」という問題を含まない主張が,異なる〈あるもの〉についての主張を行っている,と述べるだけでは解決にならない。エレア派の素朴な存在論は,二つの〈あるもの〉が数的に同一であると言う余地を残さないからだ。

ジレンマとアリストテレスによる原理の説明

アリストテレスの反対論者は,変化を説明しようとすれば,ジレンマの一方の選択肢を取らざるを得ない。他方アリストテレスの原理論は,反対者と〈ある〉において異なりつつ数的に同一な基礎に置かれる原理を措定することによって,ジレンマを解消する。

暫定的結論

本稿は「形式的挑戦」を,ジレンマの選択肢へのコミットメントを避けるものだと論じ,アリストテレスの原理論が解決の唯一のやり方だと論じた。他方,(i) なぜジレンマが問題含みなのか,(ii) なぜアリストテレスはそれがある意味で問題でないと考えたのか,を論じていない。以降でこれらを論じる。

4 二つの選択肢の何が問題含みなのか?

なぜ「ありはしないもの」から生成しないのか?

実在解釈は「無からの生成」の不可能性という一見分かりやすい解釈を行う。だがこれを採ると、「付帯的には可能」というアリストテレスの主張が理解できなくなる: 自体的にであれ付帯的にであれ ex nihilo, nihil fit は妥当する。

若干の実在解釈論者は、アリストテレスの解決の段になって述定解釈に切り替える。だがその場合、自体的な生成を否定する理由がない。「自体的」が実在的なあるものを、「付帯的」が定まったあるものを指す、という提案もあるが (Wieland)、第一に並行的とされる「医者が自体的/付帯的になす」は「医者」の別々の意味を必要とせず、第二に「自体的」を実在的に解釈すると、なぜ「基礎に置かれる本性」が自体的生成の始点という特権的な説明的役割を有するのか (またそもそもこれがどういう主張なのか) 分からなくなる。

では、述定解釈だとどうか。理解の鍵はやはり「形式的挑戦」とアリストテレスの応答が握る。アリストテレスは選択肢 (b) の自体的ヴァージョンのみを拒否する。したがって付帯的ヴァージョンは問題ないはずである。ゆえに問題は何らかの存在者が欠けていることではない (付帯的ヴァージョンは存在者を追加しないから)。ゆえに「何かが基礎に置かれなければならない」という主張は、「基礎に置かれるものが存在しない」という意味ではなく、「〈ありはしないもの〉は基礎に置かれない」という意味である。

なぜ「あるもの」から生成しないのか?

「教養あるものがそれ自体として教養あるものになることは不可能である」ということには問題がない。ただし付帯的ヴァージョンが可能である理由は明らかではない。この点を次に述べる。

5 付帯的な生成

「ありはしないもの」からの付帯的生成

ἡμεῖς δὲ καὶ αὐτοί φαμεν γίγνεσθαι μὲν μηθὲν ἁπλῶς ἐκ μὴ ὄντος, πὼς μέντοι γίγνεσθαι ἐκ μὴ ὄντος, οἷον κατὰ συμβεβηκός (ἐκ γὰρ τῆς στερήσεως, ὅ ἐστι καθ' αὑτὸ μὴ ὄν, οὐκ ἐνυπάρχοντος γίγνεταί τι· θαυμάζεται δὲ τοῦτο καὶ ἀδύνατον οὕτω δοκεῖ γίγνεσθαί τι, ἐκ μὴ ὄντος)·

アリストテレスは最初の一文で、二つの原理が数的に一つであることに依拠する。〈あらぬもの〉は付帯的に (偶然一緒であるものによって) 変化の源泉なのである。ここまではよい。

その次の文は、しばしば〈基礎に置かれるもの〉の措定がジレンマ解決の中心である旨述べていると考えられてきた。問題は οὐκ ἐνυπάρχοντος の読み方である。これはふつう欠如の説明であるとされ、「欠如は生成の産物 (the product) には含まれない」の意味に解されてきた。したがってこの一文は反対論者による〈ありはしないもの〉からの生成の拒否を述べたものであるとされ、変化の (存続する) 自体的源泉と (存続する必要のない) 付帯的源泉を対比しているとされる。ーーだが、生成の始点が存続しなければならないという考えを反対論者に帰すべき理由は全くない。

むしろ、οὐκ ἐνυπάρχοντος は生成の産物を説明している (絶対属格)*3: "For out of the privation, that which is in itself what is not, something comes-to-be, although it [this something] was not a constituent" (強調は引用者). 何かが欠如から生成するのは付帯的にである、という意味である。この点でアナクサゴラスと対照的である (A4)。

「あるもの」からの付帯的生成

付帯的生成はなぜ問題ないのか。

ὡσαύτως δὲ οὐδ' ἐξ ὄντος οὐδὲ τὸ ὂν γίγνεσθαι, πλὴν κατὰ συμβεβηκός· οὕτω δὲ καὶ τοῦτο γίγνεσθαι, τὸν αὐτὸν τρόπον οἷον εἰ ἐκ ζῴου ζῷον γίγνοιτο καὶ ἐκ τινὸς ζῴου τι ζῷον· οἷον εἰ κύων ἐξ ἵππου γίγνοιτο. γίγνοιτο μὲν γὰρ ἂν οὐ μόνον ἐκ τινὸς ζῴου ὁ κύων, ἀλλὰ καὶ ἐκ ζῴου, ἀλλ' οὐχ ᾗ ζῷον· ὑπάρχει γὰρ ἤδη τοῦτο· εἰ δέ τι μέλλει γίγνεσθαι ζῷον μὴ κατὰ συμβεβηκός, οὐκ ἐκ ζῴου ἔσται, καὶ εἴ τι ὄν, οὐκ ἐξ ὄντος· οὐδ' ἐκ μὴ ὄντος·

テクストは文法的に多義的である。しばしばアリストテレスは,しばしば次のテーゼを否定していると思われている。

  • 「犬であるもの」は「動物であるもの」から生成する ーー 「動物であるもの」が動物である限りで。

だが,Ross の次の読みの方が正しい。

  • 「犬であるもの」は,それが動物である限りで,「動物であるもの」から生成する。

(1) 後者の読みのみが "ὑπάρχει γὰρ ἤδη τοῦτο" を有意味にする。この τοῦτο は "ἀλλ' οὐχ ᾗ ζῷον" を指す。生成の産物を指すのでなければこの説明は余計である。(2) "εἰ δέ τι μέλλει γίγνεσθαι ..." との対比も,これが生成の産物に関するテーゼであることを示唆する。(3) "ὑπάρχει γὰρ ἤδη τοῦτο" は明らかに選択肢 (a) への反論を取り上げており,(a) の自体的なヴァージョンをなす「動物が,それ自体として動物であるものから生成する」という事例がここに来るのでなければならない。

もちろん,(3) に対する反論として,「動物が自体的な動物から生成する」は「犬が自体的な動物から生成する」(前者) から帰結する,というものがありうる。だが,このような一般化する推論をアリストテレスが認めたかは疑わしい。第一に「動物であること」に説明力がどれくらいあるのか定かでない。第二に一般化は必ずしも妥当でない: 医者は自体的に治療するし,医者は自体的に見識を有する。だがそこから「見識を有するものは自体的に治療する」は帰結しない*4。さらに,一般化をアリストテレスが認めたとしても,一般化に違反するこの箇所の議論は説明できる: 可能態概念がないために,生成の自体的な源泉と産物とはともに実体という共通の類に属する必要がある。

(a) を採るときに,動物という述語は変化の形相 (犬) ではない。すると,〈動物であるもの〉が〈動物であるもの〉から自体的には生成しないが,付帯的に生成する,と問題なく言える。

ただ,(a) を採ることは (先ほどの (1) から (PSC) を通じて (2-per se) を導く) ジレンマの枠組みからの逸脱になる。PSC を弱めるという解決もありうるが,むしろ (a) の受け入れは単なる「形式的な練習 (formal exercise)」であって,(a) さえ真なる命題として解釈できることを示しているに過ぎない,と考えたい。

アリストテレスの応答の限界

アリストテレスは「第三の原理がある」という最小限の主張以上のことを何ら述べていない (例えば「存続する基体がある」など)。アリストテレスの関心はあくまで,自体的変化の擁護者が,いかにしてジレンマの二つの選択肢を回避するかを示すこと,すなわち「形式的挑戦」に取り組むこと,であった。

*1:Markdown の仕様上、0-indexed である原文とはナンバリングが異なる。以下同様。

*2:これはやや疑問。「あらゆる変化は説明に服する」とほんとうに考えていたのか? 偶然的事象はどうなるのだろうか。

*3:数日前の記事ではこの点何だかいい加減に訳していて良くなかった。Anagnostopoulos 曰く (原注34)「絶対属格ではあるが、主語は定動詞と同じである (cf. Kühner/Gerth §494)」とのことだが、普通に考えてほぼ無理だと思う。ちなみに 'ὅ ἐστι καθ' αὑτὸ μὴ ὄν' が女性名詞に係る件については、原注29: "Note that the neuter ὅ is not 'irregular' as Ross suggests, but is consistent with Aristotle's use of a generalizing relative clause - in this case specifying what privation in general is (cf. Kühner/Gerth 1904, §361; Smyth 1956, §2502; thanks to Oliver Primavesi on this point)." まあ Primavesi せんせいがそう言うなら……。ただし Smyth にも Kühner にもアリストテレスの用例は見えない。とはいえプラトンは多数挙がっており,無理とは全く思わない。

*4:原注46: "The issue may come down to the relation between the two definition-based senses of καθ' αὑτὸ (73a34-b1) and the 'causal' sense (73b10-16) in Posterior Analytics 1.4." 手短な指摘だが核心を突いている。むしろこの「問題」に今の今まで自分で気付けなかったことが恥ずかしい。