アンナ・カヴァン『氷』

原書 Ice は 1967 年初刊.おそらくは核兵器の使用を原因として氷河期が到来しつつある地球を舞台とする.極地から熱帯域めざして迫りくる氷,およびそれが国々にもたらす政治的混乱と暴力の連鎖,が一人称の文体で淡々と描かれる.熱帯の国々はいまだ安逸を享受しているが,それもおそらく長くは続かない.この終末のなかで,語り手の関心はしかし専ら一人のアルビノの「少女」に向けられている.「私」は彼女を北へ南へと追うが,それはこの弱々しい少女を,所有し,支配するためである.一方で,或る小国の「長官」もまた同じように,少女を我がものとし,自らのもとに留めようとする.この奇妙な三角関係を軸に物語は進む.

決して読みやすい作品ではない.人々の動きは機械的だがとりとめがなく,文体は抽象的で,現実の描写にしばしば何の前触れもなく語り手の幻視が貫入する.だがそうした仕掛けによって,終焉をもたらす氷河,語り手と「長官」の冷酷なサディズム,死者のごとくに自由意志を奪われた銀髪の少女が,語りのなかである明確な像を結ぶことになる.「氷」という表題はこの映像の氷点下の美しさを端的に表していよう.

それからは何度も船を乗りつぎながらの旅が続いた.少女は強烈な寒さに耐えられず,ずっと震えつづけて,ヴェネチアンガラスのように砕けていった.その崩壊の過程は実際に見て取ることができた.少女は次第にやせ細り,さらに白く,さらに透明に,亡霊のようになっていった.この変容は何とも興味深いものだった.少女は完全にエッセンスだけの存在となり,動くことすらなくなった.あまりにも細くなってしまった手足は,とても使うことなどできそうになかった.季節は存在することをやめ,永遠の寒気にその場を譲った.至るところに氷の壁がそそり立ち,雷鳴の轟きを響きわたらせ,なめらかに輝くこの世のものならぬ氷河の悪夢を現出させて,昼の光は氷山の放射する不気味な幻の光に飲み込まれてしまった.私は一方の腕で少女を暖め,支えていた.もう一方の腕は死刑執行人の腕だった.(183-4頁)