E. H. ノーマン (1986)『クリオの顔』
- E. H. ノーマン (1986)『クリオの顔: 歴史随想集』岩波文庫.
カナダ人外交官・日本史家ハーバート・ノーマン (1909-1957) の小論集.歴史と歴史叙述全般についての二,三のエッセイ,1948年に慶応大学で行われた 'self-government' と言論の自由についての講演,イギリス封建制についての概括的ではあるがごく専門的な論考,「伝記文学の本質を確実に把握した,イギリス文学史上最初の文人」ジョン・オーブリー (1626–1697) の紹介,1945年3月に第一稿が出版された「ええじゃないか」についての考察,を含む.また著者と生前交流があった丸山眞男が寄せた痛切な追悼文が末尾に収録されている.
ここにまとめられた「クリオの顔」("On the Modesty of Clio") ほかの歴史論では,およそ歴史の単線的な理解が成り立ちえないことが豊富な具体例とともに示され,歴史とはそれを構成する様々な契機の緊密な相互連関からなるもの−−序文では「つぎ目のない織物」(Maitland) という比喩が引かれている−−にほかならない,と論じられる.ここから,「歴史の審判」などというものはありえない,という相対主義も説かれることになる*1.他方こうした態度は,既存の制度のもつ有用性を検討し,現実の新たな政治的事態のもつ複雑な社会的影響を新たな標語や符牒に惑わされることなく検討すべし,という,一種の保守主義と対をなしている.一方でこうした歴史論には,戦中・戦後に外交官として活動し,マッカーシー旋風の吹き荒れる最中で自死した著者の,同時代の状況に対する認識も大きく反映されているにちがいない.
もう少し気軽な読み物として,オーブリー小伝は楽しめた.たまたま最近読んでいた Peirce の "Fixation of Belief" に 'He wrote on science like a Lord Chancellor' とあるのがおそらくこのオーブリーの引用であることもたまたま分かった.ノーマンは伝記の日本語訳を勧めているが,その後実際に冨山房百科文庫に入ったようだ.
池上俊一 (2018)『フィレンツェ』
最近マキァヴェッリ『フィレンツェ史』についての論文を読んで,フィレンツェ史そのものにも少し興味が湧いたので,最近出た新書を読んでみる.古代から現代に至るまでの通史であり,特に社会・文化両面における中世とルネサンスの連続性が浮き彫りにされている.連続性を示すのは,第一に家族・親族関係を中心とし,かつそれを擬制して成り立つパトロネージであり,社会の最小単位に至るまで多くの階層をなす人的ネットワークが中世からルネサンスに至るまで世代を継いで張り巡らされていた (4章).第二は宗教性であり,15世紀フィレンツェは公私両面で生活の隅々まで霊性が行き渡っていた (5章),と論じられている.そのほか政治文化と連動する建築史の叙述なども興味深い.
津上英輔『「危険」な美学』
- 津上英輔 (2019)『「危険」な美学』集英社インターナショナル新書.
美の追求という一見して有益・無害に思われる行為のうちに,知性 (知) と理性 (意) の働きを停止させるはたらきがある,と指摘し,これを幾つかの例によって証示しつつ,これを説明する枠組みを提示する.すなわち,まず著者は,高村光太郎の戦争賛美詩,宮崎駿の『風立ちぬ』の close reading をつうじて,悪を覆い隠す「美の幻惑作用」を取り出す (1-2章).次いで「散華」の比喩や〈同期の桜〉を引きつつ,ソンタグの「隠喩」理論や伝統美学の「美的カテゴリー」の理論等々と比較検討しながら,〈プラスの要素とマイナスの要素の統合によって,マイナスの要素が一挙にプラスに転じる〉という「感性の統合反転作用」をあらたに提唱する (3-4章).
特に「必死の時」と『風立ちぬ』から「美」のあやうさを取り出す前半の議論においては,「高村光太郎はおろか,凡そ近代日本文学に疎い私」(63頁)「私は作品論や作家論,あるいは航空機の歴史を語る能力も野望もない」(74頁) という慎重な前置きのもとで,しかし鋭い批評がなされていると感じる.『風立ちぬ』は未見なのだけれど,今からでも観てみたいと感じさせられた.
なお本書は一般書だが,内容としては前著 (2010)『あじわいの構造』(未読) の議論も土台になっているようだ.この著作から通底するという「美学の社会性」の論点は,もちろん一定の伝統を有する視点でもあるのだろうが,昨今の世相に鑑みても重要な示唆を与えるものだろう.
高津『比較言語学入門』
最近ギリシア語方言の勉強をしていて,これを学ぶ際に基礎となる比較言語学の考え方をもう少し突っ込んで学ぶために入門書を読んでみた.共通基語の再建という作業の限界と,その限界内でなしうることとが解説されている.
初版は 1950 年刊行で,おおむね戦前の研究水準を示すものであるようだ.風間喜代三は「解説」で「内容的にいささかも変更すべき必要を認めなかった」(253) としつつ,戦後の研究状況として,ミュケーナイ文書の解読・アナトリア諸語の研究の進展を挙げ,また新たに言語類型論の視点の必要を指摘している.
それはさておき,祖語の再建というのが何をすることなのかということが基本的な部分から明快に解説されており,勉強になった.再建作業の限界とは,例えば第3章III節で説かれる「再建基語の非歴史性」(100頁以降) がそれである.すなわち「我々の比較方法は単に個々の事実をなんらの相関なく再建しうるのみであって,対応によって得た再建形が同一平面上にあるか否かは知る由もない」(103頁).本節ではこのことが φέρουσι に対応する諸言語の語尾・語根のデータから得られる諸々の再建形によって例示されている.これを初めて指摘した Schmidt (1872) は,Schleicher がしたような共通基語による文章執筆の試みを,時代も言語も異にする諸々の福音書から一節を訳すことに喩えたという (ibid.).したがって「文献的実在の言語であるかのごとくに」共通基語の再建を行うことはできず,むしろ何らかの原理を立てて「純粋にテオリーとしての基語」を立てる試みを現代の言語学者は行うのだという (その侃々諤々の議論は第4章に詳しい).
クリプキの真理論 Burgess & Burgess (2011) Ch.7
- Alexis G. Burgess & John P. Burgess (2011) Truth. Princeton University Press.
- Chap.7. Kripke. 102-115.
7. Kripke
Tarski は真理の非整合説 (inconsistency theory) の主唱者であった: 直感的な真理概念は自己矛盾している.彼はそうした日常的概念の代わりとなる厳密な定義を与え,その有用性を示そうとした.
後世の多くの研究者は,これと対照的に,直感的概念を確証する (vindicate) ためにパラドクスの哲学的説明を行っている.最も影響力があるのは Kripke の仕事である.彼も形式言語における数学的に厳密な真理の扱い方を示すが,Tarski とは目的を異にする.
7.1 Kripke vs. Tarski
Tarski が再構築した真理概念は著しく制約されている.彼はまず真理に言及しない対象言語 L0 から始め,L0 のための真理述語 T0 をメタ言語 L1 において定義する.以下同様に Tn が Ln で定義されるが,自身の真理述語を含むような言語は絶対に得られない.–– 自然言語で書くなら "is true_n" となる.
Kripke は次のような例を挙げる.
- (1) ニクソンが辞任時までにウォーターゲート事件について述べたことは一つも真ではない.
この「真」の添字は,ニクソンが述べた全ての文中の「真」より高い値でなければならない.これを調べるのは大変だ.
さらに,以下の二つの文には原理的に添字を付けられない.
- (2a) ニクソンがウォーターゲート事件について述べたことの過半数は偽である*1.
- (2b) ディーンがウォーターゲート事件について述べたことの過半数は偽である.
もっとも (2a) と (2b) は普通の日本語としてどちらも真でありうる.他方で,添字を付けられないという事実は,パラドクスのリスクを示してはいる: 両者が (2ab) の他にウォーターゲート事件について真偽がちょうど半々の数の言明を行なっていた場合は解決不能になる.
Kripke の論点は,Tarski のようにパラドキシカルなケースを全て排除できる統語論的基準を立てると,無害で有益な多くのケースも一緒に排除してしまう,ということである.
仮に Tarski のように,不整合な直感的観念の代わりになるものを作ることだけを目的とする場合でも,より柔軟なものを作ることができる.Kripke の狙いはそれである.
7.2 最小不動点
Kripke の考えでは,文 (書記的文タイプ) には,統語論に基づいてではない仕方で,固有のレベルが割り当てられる必要がある.
例えば,以下はレベル0で真である.
- (4a) 雪が白い.
このとき,(2a) の状態とは無関係に,次も真である.
- (5a) 雪が白いか,ニクソンがウォーターゲート事件について述べたことの大多数は偽である.
そこで,これもレベル0に割り当てられる.このように,Tarski の場合より多くの文がレベル0に含まれることになる.以下の文はレベル0で真ではなく,真理値は (あるとすれば) 二つ目の選言肢の真理値 (あるとすれば) に依存する.
- (6) 雪が黒いか,ニクソンがウォーターゲート事件について述べたことの大多数は偽である.
ここから「「雪が白い」は真である」(レベル1),「「「雪が白い」は真である」は真である」(レベル2) ……と続く (これを「雪列」と呼ぼう).Kripke の場合,Tarski とは異なり,有限なレベルを超えて階層が続く.つまり以下が或るレベルで真である:
- (7) 雪列の全ての文は真である.
だが,或るところで最小不動点 ("..." が真だと分類されているとき,「"..." が真である」も既に真だと分類されており,その逆も成り立つような最初のレベル) に達する.
この議論を厳密にするには超限順序数の概念,および真理値ギャップを扱える論理 (Kripke は Kleene 強三値論理を用いる) が必要である.
7.3 無根拠性
どんなレベルでも真理値を得られない病理的な文はいろいろある.例えば:
- (8) (8) は偽である. (liar, falsehood-teller)
- (9) (9) は真である. (truth-teller)
これらが真/偽になりうる最初のレベルが存在しないので,およそそうしたレベルは存在しないことになる.以下も同様である:
- (10a) (10b) は真である.
- (10b) (10a) は偽である.
一般に,文の真理値が自分自身に依存したり,何らか循環したり,無限後退する場合,「より先」の文から真理値を得ることができないのである.Kripke の構成によって,こうした「無根拠な (ungrounded) 文」の概念に厳密な意味を与えることができる: 無根拠な文とは,最小不動点において真理値を得ない文である.
とはいえ,全ての無根拠な文が等価であるわけではない: (9) を真/偽だと恣意的に宣言すれば,(9) の真理値が定まっている或る不動点を得ることができる.他方,(8) はいかなる不動点においても真理値を持たない.
より細かい区別もできる.以下の二つの文について:
- (11) (9) が真であるか,または (9) が偽である.
- (12) (12) が真であるか,または (12) が偽である.
これらはどちらも或る不動点で真でありえ,どの不動点でも偽ではありえず,最小不動点において真理値を持たない.だが,(11) は偽でもありうる文を真にすることで真になるのにたいし,(12) はそうではない.Kripke は (12) のような文を内在的に真と呼び,内在的に真な文が全て,かつそれらのみが真になる不動点 (最大内在不動点) の存在を示した.
7.4 超限的構成
§2.4-5 と同様の算術言語 L と,それに述語 T を加えた拡張 L' を考えよう.Tarski であれば,T の外延の割り当てを要求するだろう.そうした外延は T: ℕ → {0,1} で表現できる.Tarski は閉項 t の表示 (denotation)*2 |t| と L' の全ての文の真理値を合成法則 (composition laws) を満たす仕方で定義する.
アリストテレスにおける思考の法則としての無矛盾律 Barnes (1969) “The Law of Contradiction”
- Jonathan Barnes (1969) "The Law of Contradiction" Philosophical Quarterly 19, 302-309. (Reprinted in Logical Matters (2012), 353-363.)
前回読んだ箇所で Kirwan が参照していた文献*1.主に Logical Matters 版を参照したが,自然言語で書いている部分を省略したり*2,また元々の編集上の不備で命題番号がおかしくなっていたりする関係で,番号を適宜勝手に割り振り直した.
*1:これ "Aristotle's Theory of Demonstration" と同年だな.
*2:もっとも (4) の非形式的な文例だけは記録に値するかもしれない–– "Priest believes that both Paris is south of London and Paris is not south of London" (357).