論証は教育の手段である Barnes, "Aristotle's Theory of Demonstration"

  • Jonathan Barnes (1969) "Aristotle's Theory of Demonstration" Phronesis 14(2), 123-152.

(I) アリストテレスの論証理論と科学的実践の乖離について問題提起し,(II) 考えうるいくつかの解決策を斥け,(III) Barnes 自身の解決策を提示し,(IV) 関連する論点を補足する。


I

〈問題〉 (the Problem) はこうである: アリストテレスにおいては,一方で『後書』の高度に形式化された科学方法論があり,他方で他著作の形式化されていない・豊かな固有の方法論的価値を有する実践がある。両者はどう調停されるべきか?

II

3つの解決策を検討する。うち最初の2つは〈問題〉設定の前提を無効にする試みである。

(1) アリストテレスは諸論考で論証を用いている。これには「全部が論証である」「一部が論証である」の2ヴァージョンあり,前者は明白に誤りなので,後者について考える。2点から反駁できる。第一に,多くの論者は議論が三段論法形式を取ることから問題を解こうとするが,三段論法形式であることは論証形式を取ることの十分条件ではない。第二に,この見解は議論が再構成される (reformulated) ときにのみ維持可能だが,そもそも推論は形式的に (in formal terms) 定義されている。

(2) 論証の条件は諸論考に適合する程度に緩められうる。*1 この見解は 'syllogism' という語の両義性に鑑みてある程度の尤もらしさはある。すなわち,\(A_1, A_2 ... A_n \vdash B\ (n\geq 2)\) の形をした議論を D-syllogism とし,3つの格の推論を F-syllogism として,後者を前者の部分集合と見なせる。論証にも同様に D-論証,F-論証が考えられる。――だが結局のところ『後書』には F-syllogism しか見いだせない (e.g. A14)。

(3) 論証理論は厳密科学たる数学的科学にしか適用されない。 これは (A) 論証理論と数学が密接な関係を持つ,(B) 数学的科学は厳密科学と同一である,という前提に立つ。(A) の論拠として,(i) 数学的な例の多さ,(ii) 論理学の術語が同時代の数学から来ていること,(iii) 5c末-4c初の数学的科学の進歩は他の科学を凌駕したこと,(iv) アカデメイアにおける数学の影響の強さ。――だが (i') 『後書』の数学事例は他事例と 1:1 程度の出現率である,(ii') 数学とアリストテレスの影響関係につき確たることは言えない (cf. Einarson),(iii') エウクレイデス的公理化が『後書』以前になされていたとは考えにくい,(iv') プラトンにおける数学と実在の結合の理論はアリストテレスにとり受け入れがたい。次いで主張 (B) については,第一に,「大抵の場合 (for the most part)」の扱いに関するジレンマへのあり得る対処法と衝突するし,第二に論証科学と同一視しうる 'the rigorous' sciences なるものはない (数学間でさえ順位がある),また第三に『天体論』さえ論証を含んではいない,第四に『後書』テクスト上の根拠も欠いている。

したがって,論証理論と科学的実践は確かに調和しない。

III

Barnes の解法はこうである。〈『後書』はアリストテレスの科学的探求の基礎構造の解明を意図していない〉とすれば,〈問題〉は生じない。『後書』は,知識を獲得する (acquire) 方法ではなく,分け与える (impart) 方法を提供しているのである。4つの議論をする。

(1) 語源的議論。 ἀποδεικνύναι の原義は show, reveal であり,making plain of a thing と showing that a thing is the case の二義ある (cf. Xen. Mem. 4.4.10)。後者が「論証」の直系の子孫だが,前者の含みは無視できない。

(2) テクスト的証拠。『後書』冒頭に加え,θέσις と ἀξίωμα, ὑπόθεσις の規定も上記解釈を裏付ける。さらに (i) Top. I2, 165a38-b11*2,(ii) Rhet. A1, 1455a24-27, (iii) EN H8, 1151a17-19, が挙げられる。

(3) 論証と対話の関係。両者は峻別されてはいるが無関係ではない。cf. A6, A12.

(4) 帰納との関係。 ἐπαγωγή の機能が教示であるとすれば,論証もそうであろう。cf. B5, 91b32-35.

他方,論証理論は科学者の研究を導くものではない。『後書』の θήρα, σκέψις, εὕρεσις, ζήτησις の用法は,いずれも論証が探究の手段とならないことを示している。*3また,B1-2 は教える者にとっての論証構築の方法,および予備的探究の方法を示す (cf. A27-31)。やはり探究において論証の出番はない。

ありうる反論を三つ潰しておく。

第一の反論: この解決は〈問題〉をずらしただけである。 教課が論証によってなされるなら,諸論考に論証が含まれないことは問題である。――だが,諸論考は教科書ではなく経過報告であり,教育的形式を取り得なかった。

第二の反論: 論証は因果連関についての知識獲得に役立つのではないか。 論証には事実を整序する機能があるのだから。――だが,事実の推論と理由の推論の区別は,論証そのものからは得られない情報である。

第三の反論: 論証は我々の知識を増やさない。 だが,この古い議論は,むしろ我々に有利である。結論が前提に情報を付け加えないなら,教授する仕事はむしろ簡略化される。科学者の探究の場合には,このことは問題になる。

IV

かくて,論証理論は一まとまりの知識の教授方法の形式的説明である。そうした知識のまとまりが既にある,と考えた点で,アリストテレスは楽観主義者だった。*4問題は,いかに教授するのが最善か,ということであった。これに対するアリストテレスの解答は,少なくともある程度洗練されたものである。(以下省略。)

*1:この可能性は Barnes 1981, esp. sec. III で追求される。

*2:p.140. 文脈を確認すべきだが,これは Barnes が言う通り強い根拠に見える。

*3:少なくとも前二者は少し苦しい。

*4:p.147, n.107: Top. I34, 183a37-184b8; Pol. B5, 1264a1-5; 諸断片。